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第69話 長官・御堂玄十郎

 エレベーターの階数表示が十を超えたあたりから、耳が詰まり始めた。


 つばを飲み込む。耳の奥で、ぷつ、と小さな音がする。隣に立つ秘書の女の人は、表情一つ変えずに、階数表示を見上げていた。


「私は、ここまでね」


 エレベーターに乗る直前、九条さんはそう言って、俺の肩をぽんと叩いた。


「……がんばって」


 何をがんばればいいのかは、教えてくれなかった。


 最上階。扉が開くと、廊下には分厚い絨毯が敷かれていた。足音が、まったくしない。さっきまでいた研究室の、紙とコーヒーの匂いが、急に遠くなった気がした。


 突き当たりの扉の前で、秘書がノックをする。


「長官。真白湊さんをお連れしました」


「入ってもらいなさい」


 穏やかな声だった。




 長官室は、静かだった。


 広い部屋だった。正面の大きな窓から、霞が関のビル街が見下ろせる。壁際には天井までの本棚。部屋の真ん中に、重そうな木の机。


 机の向こうに立っていた男の人が、こちらへ歩いてきた。


 背が高い。白髪まじりの短い髪。皺一つない、濃い灰色の背広。テレビのニュースで何度も見た顔だ。でも、画面越しよりずっと、目の色が深かった。


 御堂玄十郎。迷宮庁長官。


 そして、御堂の父親。


「来てくれて、ありがとう」


 長官は、俺の前で立ち止まった。


 そして、深く頭を下げた。


 腰を折って、ほとんど直角に。国のいちばん偉い人の一人が、十五歳の、Fランクの高校生に。


「え、あの――」


「君のお母さんは、私の恩人だ」


 頭を下げたまま、長官は言った。


「そして私は、彼女を連れて帰れなかった。……ずっと、君に謝りたかった」


 何と答えればいいのか、わからなかった。


 長官はゆっくりと顔を上げて、少しだけ笑った。疲れた笑い方だった。


「座ってくれ。立ち話をさせるつもりで呼んだわけじゃない」




 勧められた革張りのソファに座ると、体が思ったより深く沈んだ。


 沈んだ。どこまでも沈んだ。膝が、自分の顎に近づいてくる。これは座る家具なのか、それとも人を飲み込む家具なのか。俺は必死に背筋を伸ばした。ばあちゃんに「背筋伸ばしていきな」と言われたのは、こういう事態を想定していたのかもしれない。


 秘書が、お茶と羊羹を運んできた。厚切りの、黒々とした羊羹だった。


 一口食べる。上品な甘さが、舌の上でほどけた。


 ……これを持って帰らなかったら、ルルに一生恨まれる気がする。


「息子が、合宿で君に助けられたそうだね」


 向かいのソファに座った長官が、湯呑みを手にして言った。


「黙獣に追い詰められていたところを、君たちが救い出してくれたと聞いた」


「……みんなで、です」


「あれは、礼を言ったかね」


「借りは返す、って言われました」


 長官の口元が、ほんのわずかにゆるんだ。


「そうか。……あれらしい。礼を言うのが、下手な子でね」


 その言い方は、どこにでもいる父親の言い方だった。少なくとも、俺にはそう聞こえた。


 机の上に、写真立てが二つ並んでいるのが見えた。


 一つは、若い女の人が、幼い男の子を抱いている写真。明るい茶色の髪の、元気そうな男の子。御堂だ。たぶん、三歳くらいの。


 もう一つは、迷宮の入口の前で撮った集合写真だった。探索服を着た大人が、六人。真ん中に、今より若い長官。その隣に、肩までの黒髪の女の人が立っていた。少し眠たそうな目で、笑っている。


 母さんだった。


 その反対側には、無精ひげのない、髪の短い男の人。まっすぐ立って、カメラをにらむように見ている。……灰原先生だ。若い。足も、引きずっていない。


「第七次深層調査隊だ」


 俺の視線に気づいて、長官が言った。


「八年前、私たちは六人で東京大穴に潜った。目標は、第百層。誰も到達したことのない場所だった」


 長官は、写真のほうを見ていた。俺ではなく。


「途中で、仲間を失った。灰原くんは第六十層で足を負傷して、引き返した。……君の担任だそうだね」


「はい」


「彼には、つらい役目を負わせた。……元気にしているかね」


「相変わらず、棒付きの飴をくわえてます」


「飴?」


「禁煙中だそうです」


 長官は、一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。


「そうか。彼は昔、ひどい煙草飲みでね。野営のたびに、詩織くんに煙たいと叱られていた。……飴か。そうか」


 長官は、写真の中の灰原先生を、少しだけ長く見つめていた。


 長官は、湯呑みを置いた。


「第百層には、扉があった」


 部屋の空気が、少しだけ重くなった気がした。


「白い、大きな扉だ。どこへ通じているのかもわからない。詩織くんは、その前で、ずっと何かを聞いていた。私には聞こえない、何かを。……そして、言葉を遺した。迷宮の言葉でね」


 長官は、俺の目をまっすぐに見た。


「記録端末に残ったその声を、この庁の翻訳装置は、こう訳した。――『門を閉じよ』」


 知っていた。灰原先生から聞いていた。


 でも、この人の口から聞くと、まるで違う重さがあった。


「そのあと、母さんは」


「……扉の前から、戻らなかった。私は一人で、地上へ帰った。それが、私の知るすべてだ」


 長官は、目を伏せた。


「私も、十二年前の大氾濫で妻を失った。迷宮は、多くのものを奪っていく。……だから私は、彼女の遺志を継いでいる。迷宮の脅威から、人々を守るために」


 その声には、嘘がなかった。


 少なくとも、俺の耳には、嘘に聞こえなかった。人間の心は読めない。でも、この人が本気で言っていることだけは、わかった。


「その録音、聞かせてもらえませんか」


 気がつくと、口が動いていた。


 長官は、しばらく黙っていた。


「すまない。あれは、私一人が背負うと決めたものだ」


 静かな、でも、動かない声だった。




「今日、君に来てもらったのは、謝るためだけじゃない」


 長官は、少しだけ身を乗り出した。


「迷宮庁で、新しい翻訳の研究計画を立ち上げようと思っている。迷宮の言葉を、正しく理解するための計画だ」


 長官は、俺の目を見た。


「君には、迷宮の声が聞こえるのだろう? 詩織くんと同じように」


 心臓が、どくんと鳴った。


 ――知っている。この人は、俺の力を知っている。


「学業を続けながら、特別研究員として参加してほしい。石板も、記録も、すべて閲覧できるようにする」


 すべて。


 研究室のガラスケースの、あの石板たち。装置に『停止せよ』と訳された、本当は『休め』と書いてある道しるべ。俺なら、あれを正しく訳し直せる。公式の記録を、書き換えられるかもしれない。


 母さんの机の、サボテンの横で。


「君のお母さんの研究を、継がないか」


 ――継ぎたい、と思った。


 思ってしまった。胸の奥が、熱くなった。


 でも、同時に、別の声が聞こえた。ばあちゃんの声だ。お上ってのはね、欲しいもんがあるときにだけ、手紙をよこすんだよ。


 それから、書庫の奥の、木の箱。十二冊の、緑の手帳。


「……少し、考えさせてください」


 やっと、それだけ言えた。


「もちろんだ」


 長官は、すぐにうなずいた。少しも気を悪くした様子はなかった。


「いつでも待っている。答えが出たら、いつでもいい」


 長官は立ち上がって、窓の外を見た。夏の午後の光が、ビルのガラスに反射している。


「詩織くんは、何でも書き留める人だった。思いついたことは、すぐに手帳に。……懐かしいな」


 独り言のような声だった。


 長官は、ゆっくりとこちらを振り返った。穏やかな目が、俺を見た。


 俺は、何も言わなかった。羊羹の最後の一切れを、口に入れた。甘いはずなのに、味がよくわからなかった。




◇ ◇ ◇




 長官室を出ると、扉が背中で静かに閉まった。


 ふう、と息を吐く。足の力が抜けそうになる。あのソファのせいだ、たぶん。


 顔を上げた。


 分厚い絨毯の廊下の先に、男が一人、立っていた。


 黒いコート。短い黒髪。八月の真昼なのに、汗一つかいていない顔。


 奥多摩の合宿で、黙者の群れを一瞬で崩した男。鷹宮の教官。


 特務課課長、黒崎冬馬。


 その表情のない目が、まっすぐに、俺を見ていた。


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