第68話 迷宮庁からの招待状
「お上からの手紙に、ろくなもんはないよ」
翌朝の帳場で、ばあちゃんは白い封筒を指二本でつまんでいた。まるで、汚れた雑巾でも持つみたいに。
「税金の督促。道路の立ち退き。それから、殉職の知らせ。……あたしが今までもらったお上の手紙は、そんなのばっかりさ」
最後の一つで、ばあちゃんの声が少しだけ低くなった。
俺は封筒を受け取って、封を切った。
中には、上等な紙に印刷された案内状が一枚。
『迷宮庁言語研究室 施設見学のご案内』
『当室の元研究官、真白詩織氏のご子息である貴殿を、施設見学にご招待いたします。日時:八月二十日(水)午後一時』
お役所らしい、かしこまった文章だった。
ただ、案内状の右下に、黄色い付箋が一枚貼ってあった。走り書きの、勢いのある字。
『詩織先輩の息子さんへ! ぜひ来てください!! 先輩の机、そのままにしてあります。――九条』
付箋の端には、茶色い丸いしみがついていた。たぶん、コーヒーだ。
「……言語研究室って、母さんがいたところだよな」
「そうだよ」
「行ってみたい」
ばあちゃんは、老眼鏡の奥で目を細めた。しばらく、何も言わなかった。
「お上ってのはね、欲しいもんがあるときにだけ、手紙をよこすんだよ」
それが何を指しているのか、俺にはわかった。書庫の、十二冊の手帳だ。
「……わかってる」
ばあちゃんは、長いため息をついた。
「行くなら、背筋伸ばしていきな。それと、余計なことはしゃべるんじゃないよ」
「うん」
〈我も行くぞ〉
帳場の上で、ルルがふんぞり返った。
「だめだ。迷宮庁だぞ。住人は機密扱いなんだ。見つかったら、何をされるかわからない」
〈む……〉
ルルは、しぼんだ風船みたいに縮んだ。それから、ぷいと横を向いた。
〈では、どら焼き二つで手を打とう〉
「何の手を打つんだよ」
〈我が留守番をしてやる、という手だ〉
留守番に報酬が発生するらしい。払うけど。
◇ ◇ ◇
霞が関の迷宮庁本部は、灰色の石でできた、巨大な建物だった。
正面の壁に、あの門の形の紋章が彫り込まれている。ガラスの自動扉の向こうには、空港みたいな金属探知のゲート。警備員が三人。首から「見学者」と書かれたカードを下げられて、俺はようやく中に入れてもらえた。
ロビーの天井は、首が痛くなるほど高い。足音がやけに響く。ここで母さんが毎朝働いていたと思うと、なんだか不思議な気がした。
「――詩織先輩の息子さん!」
エレベーターホールのほうから、白衣の女の人が小走りでやってきた。
黒縁のメガネ。後ろで雑にまとめた髪。白衣の胸ポケットには、ボールペンが四本。そして片手に、湯気の立つ紙コップ。
「目元がそっくり! うわ、ほんとにそっくり! あ、ごめんなさい、私、九条です。九条綾。言語研究室の主任研究員で、詩織先輩の後輩で、先輩には新人のころからずっとお世話になってて、あっ、コーヒー飲む? 飲まない? 私は飲む」
一息だった。
九条さんは本当にコーヒーを飲んだ。ごくごくと、半分くらい一気に。
「今日、四杯目なの。大丈夫、まだ序盤だから」
何の序盤なのかは、聞かないことにした。
「真白湊です。今日は、ありがとうございます」
「ううん、こっちこそ! 来てくれてうれしい。……ほんとに、うれしい」
九条さんは、少しだけ声の調子を落として、俺の顔をまじまじと見た。メガネの奥の目が、ほんの一瞬、うるんだように見えた。
それから、ぱっと顔を上げた。
「さ、行こ行こ! 研究室、八階だから!」
言語研究室は、想像していたより、ずっと雑然とした場所だった。
壁という壁に、大きな紙が貼ってある。迷宮の壁の文字を、拓本のように写し取ったものだ。蔓の文字が、天井近くまでびっしりと並んでいる。
ガラスケースの中には、石板がいくつも並んでいた。どれにも、ラベルが貼ってある。『第十八層出土』『第二十五層出土』。
机に向かっている研究員たちは、みんなヘッドホンをつけていた。迷宮で録音した音声を聞いているらしい。ヘッドホンから、かすかに音が漏れている。
〈侵入者、確認〉
〈右、回り込め〉
――全部、聞こえてしまう。
俺は、顔の筋肉に力を入れた。ここで「右から回り込めって言ってますね」なんて口走ったら、ばあちゃんに怒られるどころの話ではない。
「で、ここが」
九条さんが、部屋の奥の窓際で足を止めた。
「詩織先輩の机」
ほかの机と同じ、灰色のスチールの机だった。
でも、その上だけ、時間が止まっていた。猫の絵が描かれたマグカップ。ペン立てに、鉛筆が三本。小さな鉢植えのサボテン。付箋の貼られたままの、迷宮文字の拓本の束。
「ずっと、そのままにしてあるの。……私が、わがまま言ってね。サボテンだけは、私が水やってる。サボ子っていうの。先輩が名前つけた」
サボテンに、名前。
それが母さんらしいのかどうか、俺にはまだよくわからない。でも、手帳の余白の『カレー食べたい』と同じ人なら、たぶん、つけるだろうと思った。
机の天板に、そっと手を置く。ひんやりしていた。
「先輩、ここで毎日、壁の文字とにらめっこしてたの。ときどき、急に『わかった!』って立ち上がって、椅子ひっくり返して。部長に怒られてた」
九条さんは笑った。笑いながら、メガネを指で押し上げた。
研究室の隣の部屋に、それはあった。
ガラスの円筒の中に、青白い迷宮石の塊が浮かんでいる。そこから何本ものケーブルが伸びて、大きなモニターとスピーカーにつながっていた。
「これが、自動翻訳装置」
九条さんが、円筒をこんこんと叩いた。
「ステータス窓って、迷宮から来た力でしょ? で、窓の文字って、もともと迷宮の言葉を私たちの言葉に訳して表示してる――っていうのが、うちの研究室の仮説なの。その翻訳の仕組みを、迷宮石で再現して借りてるのが、これ」
九条さんが、パソコンを操作する。スピーカーから、澄んだ鈴の音が流れた。
〈侵入者、確認〉
モニターに、文字が出る。
『侵入者 確認』
「影の声なら、けっこう正確に訳せるんだよね。単純だから。でも」
九条さんは、ガラスケースから一枚の石板を取り出してきた。手のひらより少し大きい、灰色の板だ。ラベルには『第三十二層出土・石板B‐7』。
「こういう、壁とか石に書かれた文章になると、とたんにあやしくなる。これの装置の訳は――」
モニターに、新しい文字が並ぶ。
『停止せよ。水。左方』
「警告文、ってことになってるの。この先に進むな、水場は左にある、みたいな」
俺は、石板を見た。
蔓の文字が、ほどける。組み直る。頭の中で、日本語になる。
〈ここで、休め。水は、左〉
――休め、だ。
止まれ、じゃない。進むな、でもない。ここで休んでいけ。水なら左にあるから。
警告どころか、親切な道しるべだった。
喉まで、言葉が出かかった。休めって書いてありますよ。これ、すごく優しい文章ですよ。
飲み込んだ。
「……へえ」
九条さんが、横から俺の顔をのぞき込んでいた。
メガネの奥の目が、じっと、俺の目を見ている。
「ふうん」
九条さんは、ゆっくりと石板をケースに戻した。
「先輩もね。これ見たとき、同じ顔してた。『九条さん、これ、違う』って。……でも、装置の訳が公式の記録だから。誰も書き換えなかった」
背中に、冷たいものが走った。
思い出したのは、母さんの手帳の一ページだった。『〈止まれ〉と訳していたけど、まちがい。〈休め〉だった。訳しまちがえると、意味が反対になる』。
あれは、この石板のことだったのかもしれない。
そして、もう一つ。
この装置は、ステータス窓の仕組みを使っている。窓の文字は、誤訳だらけだ。【大食い】も、【臆病】も、【無口】も、【剣聖】も。
だとしたら。
母さんの最後の言葉を『門を閉じよ』と訳したのも、この装置――
「九条主任」
部屋の入口から、声がした。
紺のスーツを着た女の人が立っていた。きっちりとまとめた髪。表情のない、事務的な顔。
「お話し中、失礼します」
女の人は、俺のほうに向き直って、軽く頭を下げた。
「真白湊さんですね。――長官が、お会いになりたいそうです」




