第67話 夏祭りと花火と、名前
浴衣というものは、どうしてこう、歩幅を制限してくるのか。
「男は帯の位置で決まるんだよ。腰骨の上、ここ」
家を出る前、ばあちゃんは俺の帯をぎゅうぎゅうに締め上げた。紺色の、地味な浴衣だ。おかげで背筋は伸びたが、呼吸は浅くなった。これで屋台の焼きそばを食べたら、たぶん帯が負ける。
問題はもう一つあった。浴衣には、フードがない。
〈湊。我の居場所はどこだ〉
「……袂、とか」
〈袖の中か。暗くて狭いではないか。我は景色が見たいのだ〉
結局、ルルの席は、待ち合わせ場所で決まった。
霞ヶ丘神社の鳥居の前。夕方六時。川沿いの参道には、もう提灯がずらりと灯っていて、ソースと綿あめの匂いが混ざって流れてくる。
「おーい湊! 遅えぞ!」
大河は、紺の甚平だった。片手に焼きそば、片手にフランクフルト。すでに臨戦態勢だ。
「浴衣じゃないのか」
「浴衣はよ、足が開かねえから、しゃがんで食うときに不便なんだよ」
「しゃがんで食う前提なのか」
「祭りってのは、そういうもんだろ!」
そうなのか。
大河の隣で、ひよりが手を振っていた。白地に青い朝顔の浴衣で、栗色の髪に小さな花の飾りをつけている。
「湊くん、こんばんは! ……あの、凛ちゃん、もうすぐ来ます。たぶん」
「たぶん?」
「さっきまで、ビデオ通話で着付けを教えてたんです……。一時間かかりました……。帯が、何回やっても刀の下げ緒の結び方になっちゃって……」
ひよりは、少しやつれていた。
その後ろから、からん、と下駄の音がした。
水無瀬だった。
白地に、紺色の金魚が泳いでいる浴衣。帯は赤。手には、小さな巾着。
そして――前髪を、ピンで留めていた。
いつもは前髪に隠れている目が、提灯の明かりの下で、まっすぐこっちを見ていた。少しだけ不安そうに、大きく、黒く。
……言葉が、出てこなかった。
【翻訳】のくせに。誰の言葉でも訳せるはずなのに、自分の頭の中にあるものを、一つも言葉にできない。
水無瀬が、巾着からペンと小さなメモ帳を出した。今日はスケッチブックではないらしい。さらさらと書いて、こちらに向ける。
『へん?』
「……へんじゃない」
それだけ言うのが、精一杯だった。
横で、大河とひよりが、そろって同じ顔でにやにやしていた。……見なかったことにする。
〈歌の娘。その袋は、良い匂いがするな〉
俺の袂から、ルルが顔を出した。水無瀬は巾着の口を開けて、中を見せる。小さな飴玉の袋と、ハンカチ。それから、ちょうどルルが入れそうな空間。
水無瀬は、首をかしげて、ルルに巾着を差し出した。
〈……ふむ。よかろう〉
ルルは袂からぴょんと跳んで、巾着の中に収まった。口から顔だけ出して、満足そうにしている。景色が見えて、甘い匂いがして、揺れもちょうどいい。ルルにとっては、特等席らしい。
「――お待たせ」
最後に、鷹宮が来た。
藍色の地に、白い鷺が飛ぶ浴衣。ポニーテールに、銀色の簪。帯は、きっちりと文庫に結ばれていた。一時間の格闘の成果だ。
「おお……鷹宮、めっちゃ似合うじゃん!」
「……そう」
鷹宮はそっぽを向いた。それから、ちらりと俺のほうを見た。何か言え、という目に見えた。気のせいかもしれない。
「その柄、白鷺か。刀と同じだな」
鷹宮の目が、わずかに見開かれた。
「……気づいた?」
「まあ」
「祖母の、だから」
鷹宮はそれ以上何も言わなかった。でも、下駄の音が、少しだけ軽くなった気がした。
そして鷹宮の視線は、すぐに水無瀬の巾着に吸い寄せられた。巾着の口から、白い毛玉が顔を出している。
「……ずるい」
低い声だった。本気の声だった。
屋台の通りは、人であふれていた。
大河は、宣言どおり端から食べ歩いた。焼きそば、たこ焼き、イカ焼き、かき氷を三色。俺は帯のせいで、たこ焼き四個で限界だった。
「あ……あれ、かわいい……」
射的の屋台の前で、ひよりが足を止めた。一番上の棚に、白いうさぎのぬいぐるみが座っている。
「よっしゃ、取ってやる!」
大河がコルク銃を構えた。一発目、外れ。二発目、外れ。三発目、隣の駄菓子に当たった。
「おかしいな……。力いっぱい撃ってんのに」
「射的に力は関係ない」
「マジかよ!」
「撃つ前に、息を止めろ。それから、引き金はゆっくり」
大河は真剣な顔でうなずいた。四発目、五発目、六発目。少しずつ、うさぎに近づいていく。
七発目。
ぽすっ、とうさぎが棚から落ちた。
「取ったああああ!」
大河が、うさぎを両手で掲げた。そして、ひよりの前に差し出す。
「ほら、ひより!」
「……あ、ありがとう、ございます……」
ひよりは、うさぎをぎゅっと抱きしめた。耳まで真っ赤だった。大河も、なぜか真っ赤だった。二人とも、お互いの顔を見ないようにしている。
隣で、水無瀬がメモ帳に書いて、そっと俺にだけ見せた。
『よかったね』
俺は、黙ってうなずいた。
次に銃を手に取ったのは、鷹宮だった。
構えた瞬間、空気が変わった。さっきまで下駄によろけていたのが嘘みたいに、背筋がぴんと伸びる。
一発。キャラメルの箱が落ちる。二発。ラムネが落ちる。三発、四発、五発。撃ったぶんだけ、景品が落ちた。
「お、お嬢ちゃん……もう勘弁してくれ……」
屋台のおじさんが、青い顔で両手を合わせた。鷹宮は首をかしげて、それから、山になった景品を、周りで見ていた小さな子どもたちに一つずつ配った。
ところが、その鷹宮が、金魚すくいの前で完全に敗北した。
ポイを構える。水面を見つめる。一瞬で、手首を返す。
ばしゃっ。
水しぶきだけが上がって、ポイの紙は真っ二つに破れていた。
「……もう一回」
ばしゃっ。破れる。
「……もう一回」
ばしゃっ。破れる。
十回やって、十回とも同じだった。金魚は一匹も減っていない。むしろ、鷹宮が近づくと、水槽の端に逃げるようになった。
「お嬢ちゃん。金魚すくいはな、斬るんじゃなくて、すくうんだよ」
「……この網、不良品」
鷹宮が、真顔で言った。屋台のおばあさんが、腹を抱えて笑っていた。
見かねた水無瀬が、ポイを一つ受け取った。そっと水に沈めて、すっと持ち上げる。一匹。もう一匹。さらにもう一匹。あっという間に三匹すくって、ビニール袋に入れてもらうと、それを鷹宮に差し出した。
鷹宮は、両手で袋を受け取った。中で泳ぐ赤い金魚を、じっと見つめる。
「……ルル一号、ルル二号、ルル三号」
〈我の名を魚に付けるでない!〉
巾着の中から、ルルが猛烈に抗議した。……と言っても、みんなには「きゅいー!」としか聞こえていない。鷹宮は、喜んでくれたと思ったらしく、満足そうにうなずいていた。
花火が始まる少し前、俺たちははぐれた。
正確には、はぐれさせられた、のかもしれない。
「私は、ルルと、りんご飴を買ってくる」
鷹宮が、水無瀬から巾着ごとルルを借りて、さっさと人混みに消えた。大河とひよりは場所取りに行くと言って、気がついたら見えなくなっていた。
残されたのは、俺と水無瀬だけだった。
川べりの石段に、二人で並んで座る。
最初の一発が、夜空に上がった。
ひゅるる、と細い音がして、どん、と腹に響く音がした。光の輪が、空いっぱいに広がる。川面にも、同じ形の光が映った。
俺は一瞬だけ耳を澄ませて、それから、ほっとした。花火の音は、ただの音だった。何の意味もない、きれいな音。たまには、そういう音がいい。
水無瀬は、空を見上げていた。
花火が開くたびに、水無瀬の横顔が、赤や金色に染まる。ピンで留めた前髪の下で、目がきらきら光っていた。
いくつめかの花火のあと、水無瀬がメモ帳を開いた。花火の明かりを頼りに、ゆっくりとペンを動かす。
『来年も、見たい』
そう書いて、少し恥ずかしそうに、こちらに向けた。
どん、と空で音がした。
「……うん」
考えるより先に、口が動いていた。
「雫と、また来たい」
言ってから、自分が何を言ったのか気づいた。
雫が、固まっていた。
ペンを握ったまま、目を大きく見開いて、俺を見ている。次の花火が上がって、その顔を金色に照らした。
しばらく、雫は動かなかった。
それから、メモ帳の新しいページに、ペンを置いた。一画ずつ、ものすごくゆっくりと書いていく。花火が三つ上がって消えるあいだ、ずっと。
こちらに向ける。
『みなとくん』
ひらがなだった。
雫はいつも、俺のことを『湊くん』と漢字で書く。四月の終わりからずっと。でも、今日のは、ひらがなだった。
一文字ずつ、ていねいに。まるで、声に出して呼ぶみたいに。
……聞こえた、と思った。
声なんか、一つも出ていないのに。
「……うん」
俺は、それしか言えなかった。雫も、それ以上は何も書かなかった。二人で、黙って花火を見上げた。
夜空では、大きな菊の花火が、ゆっくりと開いては消えていった。
「お、いたいた! 湊! 水無瀬!」
花火が終わって、人の流れが動き出したころ。大河とひよりが、人混みをかき分けて戻ってきた。ひよりは、うさぎを大事そうに抱えている。後ろから、りんご飴を三本持った鷹宮も来た。
「場所取りしてたら、二人ともいねえんだもんな。どこ行ってたんだよ」
「ずっとここにいた。……雫、行くぞ」
「お?」
大河の動きが止まった。
「今、雫って呼んだ?」
「……呼んだ」
「マジか! じゃあオレも雫って呼んでいいか!?」
雫は、少し照れたように笑って、メモ帳に書いた。
『どうぞ』
「よっしゃ! 雫! りんご飴食う?」
「それ、鷹宮が買ってきたやつだろ」
鷹宮は何も言わずに、りんご飴を一本、雫に渡した。それから、巾着ごとルルを雫に返して、少しだけ空を見上げた。花火の煙が、まだうっすらと残っていた。
◇ ◇ ◇
家に帰ると、ばあちゃんはもう寝ていた。
店のシャッターの横の、古いポストを開ける。夕刊と、町内会の回覧板と、それから、一通の白い封筒が入っていた。
厚手の、上等な紙だった。
裏を返す。左下に、丸い印が押してある。迷宮の入口を模した、門の形の紋章。
ニュースで何度も見たことがある。
――迷宮庁の、紋章だった。




