第66話 閑話 鷹宮凛と祖父の剣
道場の床は、真夏でも冷たい。
夜明け前の板の間に素足で立つと、足の裏から冷えがのぼってくる。子どものころから、ずっとそうだった。私はこの冷たさが、嫌いではなかった。
木刀を振る。一本。二本。
ひゅう、と空気が鳴る。百本を数えたあたりで、首筋に汗がにじむ。
――指先が、温かい。
それに気づくたびに、私は少しだけ手を止めてしまう。春から夏のはじめまで、私の指は、いつも氷みたいに冷たかった。【剣聖】を使うたびに、何かが凍っていった。好きだったものの色が、一枚ずつ剥がれていくみたいに。
今は、違う。
【比翼の剣】。真白が読んでくれた、本当の名前。誰かと並び立つとき、剣は翼となる。
あの日から、私の指は凍っていない。
「……凛」
道場の入口に、祖父が立っていた。
鷹宮厳。鷹宮流剣術の当主。白い髪を短く刈り込み、八十近いのに背筋は木刀よりもまっすぐだ。夏でも紺の袴を崩さない。
「朝餉だ」
それだけ言って、祖父は母屋へ戻っていった。
鷹宮家の朝食は、静かだ。
白い飯。豆腐の味噌汁。焼いた鮭。胡瓜の漬物。広い座敷に、祖父と私の二人きり。両親は海外にいて、もう何年も、正月にしか帰ってこない。
箸と茶碗の音だけが、規則正しく続く。
「最近、毎日出かけているな」
祖父が、味噌汁の椀を置いて言った。
「……友人の家に」
口に出してから、変な言葉だと思った。友人。私の口から、その言葉が出たのは、たぶん初めてだ。
祖父の箸が、止まった。
「お前に、友人」
「……はい」
祖父は、鮭の皮をじっと見つめていた。見つめたまま、しばらく動かなかった。驚いているのだと思う。祖父が驚くところを、私はほとんど見たことがない。
「新人戦で戦った相手か。迷宮庁の者から、話は聞いている」
「はい。……ルビという、パーティです」
私は話した。うまく話せたかはわからない。私は、話すのが得意ではない。
真白湊。【翻訳】のFランク。いつも眠そうな顔をしているのに、人の話を最後まで聞く。犬飼大河。大きい。よく食べる。盾で、みんなを守る。小日向ひより。すぐに泣くし、悲鳴を上げる。でも、誰よりも先に危ないものに気づいて、逃げずに前に出る。水無瀬雫。声が出にくくて、筆談で話す。絵が上手で、彼女の歌は、私の氷を溶かした。
それから、部室にいる、白くて丸い生き物のこと。
「白くて、丸くて、手のひらに乗るくらいで、とても柔らかいんです。毛が、雲みたいで。撫でると、きゅい、と鳴いて。たまに、きゅー、とも鳴きます。どら焼きが好きで、食べるときに少し膨らんで、それから――」
「凛」
「……はい」
「それは、剣と関係があるのか」
「ありません」
祖父は、長いため息をついた。私は、少しだけ顔が熱くなった。三分くらい話していた気がする。
祖父は茶をすすり、湯呑みを置いた。
「剣は、独りで振るうものだ」
何度も聞いた言葉だった。物心ついたころから、この座敷で、道場で、何百回も。
「群れる剣は弱い。他人を頼れば、剣は鈍る。鷹宮の剣は、そうして守られてきた」
前の私なら、ここで「はい」と答えて終わりだった。
でも、今日は、喉の奥で何かが引っかかった。
「……独りで振るう剣は、凍ります」
祖父が、顔を上げた。
「私は、凍りかけました。新人戦で。何も感じなくなって、自分の手が冷たいことにも気づかなくなって。……最後は、周りを全部、凍らせました」
声が、少しだけ震えた。
「止めてくれたのは、その友人たちです。私の手を、掴んでくれた」
座敷が、しんとした。庭で、蝉が鳴き始めた。
祖父は、長いこと黙っていた。
それから、静かに立ち上がった。
「……道場へ来い」
木刀を構えて、祖父と向き合う。
立ち合いは、半年ぶりだった。春からは特別育成生の訓練が忙しくて、祖父と打ち合う時間がなかった。夏休みの今も、黒崎教官の訓練は週に二回ある。教官はたぶん、私の剣が変わったことに気づいている。でも、何も言わない。
スキルは、使わない。
【比翼の剣】は、並び立つ誰かがいて初めて翼になる。それに、祖父の前では、鷹宮の剣だけで立ちたかった。
「――参る」
祖父が踏み込んだ。
速い。八十近い人の速さではない。正面からの打ち込みを、木刀で受ける。重い。腕がしびれる。押し返して、間合いを取る。
二合、三合。
祖父の木刀が、私の左を狙ってくる。払う。また左。払う。
「左が空いている」
祖父が、低く言った。
気づいていた。私の構えは、春と少し変わっている。半身の角度が浅くなって、左側に、人一人ぶんの隙間がある。
多摩川迷宮で、真白に何度も言われた。「鷹宮、半歩下がれ。大河の隣だ」。何度も言われて、何度も並んで、いつの間にか体が覚えてしまった。
「空けているんです」
祖父の打ち込みを受け流しながら、私は言った。
「……そこに、誰かが立つので」
祖父の目が、わずかに見開かれた。
次の一撃は、それまでで一番重かった。受けた木刀が、みしりと鳴る。足が、板の上を半歩すべる。
でも、凍らなかった。
腕は熱い。胸の奥も熱い。息が上がって、汗が目に入る。前の私なら、ここで心が冷えて、何も感じなくなっていた。今の私は、ちゃんと苦しい。ちゃんと、悔しい。
――そして、ちゃんと、楽しい。
踏み込む。祖父も踏み込む。
木刀が交差して、止まった。
私の切っ先は、祖父の喉元に。祖父の切っ先は、私の肩口に。どちらも、紙一枚ぶん手前で。
相打ち。
蝉の声が、急に大きく聞こえた。
祖父が、ゆっくりと木刀を下ろした。肩で息をしている。祖父が息を乱すところも、初めて見た。
「……変わったな」
祖父は、道場の奥の神棚を見上げていた。神棚の脇に、古い写真が一枚、飾ってある。袴姿の若い女の人が、木刀を持って笑っている写真。私が五つのときに亡くなった、祖母だ。
「お前の祖母が生きていた頃は」
祖父の声は、いつもより、ずっと低かった。
「儂の剣も、そうだったかもしれん。あれと並んで、よく稽古をした。儂の左には、いつもあれがいた」
私は、何も言えなかった。
「あれが死んでから、儂は左を閉じた。独りで振るう剣だと、自分に言い聞かせてな」
祖父は、写真から目をそらした。
「……好きにしろ。お前の剣だ」
それだけ言って、道場を出ていこうとする。その背中が、入口で止まった。
「その、白い毛玉とやらは」
「……はい」
「一度、見てみたいものだな」
振り返らないまま、祖父はそう言った。
私は、道場の真ん中で、しばらく立ちつくしていた。それから、少しだけ笑った。祖父に見られていなくて、よかったと思う。
◇ ◇ ◇
夕方。自分の部屋の机の上に、一枚のチラシが置いてある。
『霞ヶ丘夏まつり 花火大会 八月十六日(土)』
真白のおばあさまが、帰りがけに「持っていきな」とくれたものだ。どうしてくれたのかは、聞かなかった。聞いたら、きっと、何かを見透かされている気がしたから。
花火大会。
行ったことは、一度もない。祖父は人混みを嫌うし、私も、一人で行く理由がなかった。
でも。
犬飼は、きっと屋台を端から端まで食べ歩く。ひよりは、花火の音に悲鳴を上げる。雫は、花火を描きたくて、スケッチブックを抱えてくる。真白は……真白は、たぶん、人混みが苦手だと言って、少し後ろを歩く。そして、ルルが真白のフードから顔を出す。
想像したら、胸の奥が、またあの温かい感じになった。
――みんなと、行きたい。
私は立ち上がって、箪笥の一番下の引き出しを開けた。
畳紙に包まれた浴衣が、一枚入っている。藍色の地に、白い鷺が飛んでいる柄。祖母が、まだ小さかった私のために縫ってくれたものだ。「凛が大きくなったら着なさい」と言って、わざと大きく仕立てて。
広げて、肩に当ててみる。
ちょうど、よかった。
……問題が一つある。
着付けのやり方を、私は知らない。
スマホを手に取る。少し迷ってから、メッセージを打った。
『ひより。浴衣の着方、教えて』
送信してから、五秒で返事が来た。
『まかせてください凛ちゃん!!!!』
感嘆符が、四つもついていた。




