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第65話 水無瀬家の食卓

「兄ちゃんが来たーっ!」


 インターホンを押す前に、扉が開いた。


 飛び出してきたのは、小学生の男の子だった。日に焼けた顔に、前歯が一本だけない笑顔。Tシャツの胸には、恐竜のイラスト。


「兄ちゃんが真白の兄ちゃん? 翻訳の? ほんとに魔物としゃべれるの? 英語もしゃべれる? 恐竜の言葉はわかる?」


「……えっと」


「オレ、陽! 小三! ねーちゃんの弟!」


 質問が四つ来て、自己紹介が一つ来た。答える隙がない。


 陽くんの後ろで、水無瀬が両手をぶんぶん振っていた。顔が真っ赤だ。前髪の奥の目が、ごめんなさい、と全力で言っている。


「陽、お客さんを玄関で止めないの」


 奥から、やわらかい声がした。エプロン姿の女の人が、スリッパの音を立てて出てくる。肩までの髪を一つに結んだ、目元の優しい人だった。笑うと、目尻が水無瀬とそっくりな形に下がる。


「いらっしゃい、湊くん。雫の母の澄子です。いつも雫がお世話になってます」


「あ、いえ。真白湊です。こちらこそ、お世話に……なってます」


 手土産の紙袋を差し出す。たちばなのどら焼き、八個入り。ルルに「我の分も買ってくるのだぞ」と念を押されたので、うちの分も別に買ってある。ルルは今日、ばあちゃんと時代劇の再放送を見る約束をしているらしい。どっちが誘ったのかは知らない。


 水無瀬家は、学校の近くのマンションの五階だった。


 廊下の壁に、額に入った絵がずらりと並んでいた。クレヨンの花。水彩の猫。鉛筆の、駅前の商店街。一枚一枚の額の下に、小さなシールが貼ってある。『雫・五さい』『雫・小三』『雫・中二』。


 ……全部、水無瀬の絵だ。


 年を追うごとに上手くなっていく絵を、家族がこうして一枚ずつ飾ってきたのだ。俺は、うちの書庫の『湊の絵(捨てるな)』の箱を思い出した。


 ちょっと、胸が詰まった。


「ねえ兄ちゃん」


 陽くんが、俺の袖を引っぱった。


「兄ちゃんって、ねーちゃんの彼氏?」


 水無瀬が、目にも止まらない速さで陽くんの口を後ろからふさいだ。


「もがっ。もがもがもが」


「……陽くん、何て?」


「もがが、もががーがもがー!」


 何を言っているのかまったくわからない。【翻訳】でも無理だ。水無瀬は耳まで赤くして、陽くんの口を押さえたまま、ずるずると居間へ引きずっていった。


 澄子さんが、くすくす笑っていた。




 陽くんは、とにかくしゃべる子だった。


 夕飯の支度ができるまでの三十分で、俺は夏休みの自由研究(カブトムシの観察)と、学校で流行っている遊び(鬼ごっこの改造版で、ルールが二十個ある)と、最近覚えた恐竜の名前(全部で五十一種類)について、くわしく教えてもらった。


 途中で何度か、水無瀬が申し訳なさそうにこっちを見た。


 俺は、全部うなずいて聞いた。恐竜の話は、なんだか懐かしい気がしたからだ。三十分くらいなら、余裕だ。


「兄ちゃん、話聞くのうまいね」


「……そうか?」


「みんな途中で『へー』って言って逃げるもん。兄ちゃんは逃げない」


 台所のほうで、澄子さんがふっと顔を上げてこちらを見たのがわかった。


 夕飯のちゃぶ台――ではなく、ダイニングテーブルには、夏らしい料理が並んだ。氷を浮かべたそうめん。なすとかぼちゃとししとうの天ぷら。きゅうりの浅漬け。


 そして、真ん中の皿に、黄色い卵焼き。


『わたしが焼いた』


 水無瀬が、スケッチブックをちらりと見せた。字が、いつもより少し得意げに跳ねている。


「いただきます」


 卵焼きを一切れ、口に入れる。


 ……甘い。


 思わず、目を見開いてしまった。うちの卵焼きは、ばあちゃんの出汁巻きだ。しょっぱくて、じゅわっと出汁がしみ出すやつ。卵焼きとはそういうものだと、十五年間信じて生きてきた。


 それが、甘い。ほとんど、お菓子みたいに。


 でも、ふわふわで、優しい味がした。


「……うまい」


 本音だった。水無瀬が、ぱっと顔を上げる。


「でしょ!? ねーちゃんの卵焼き、世界一なんだよ!」


 なぜか陽くんが胸を張った。


「ねーちゃんさ、家だとめっちゃしゃべるんだよ! 昨日もさ、兄ちゃんの話ばっか――」


 ばしっ。水無瀬の手が、二度目の速さで陽くんの口をふさいだ。


「もがっ」


 ……聞かなかったことにしよう。耳がいいのも考えものだ。


 陽くんは水無瀬の手をはがすと、不思議そうに姉の顔を見上げた。


「兄ちゃんの前でも、しゃべればいいのに」


「陽」


 澄子さんが、静かに名前を呼んだ。叱るような声ではなかった。ただ、名前を呼んだだけだ。


 陽くんは「あ」という顔をして、それから、しゅんと肩を落とした。


「……そっか。ごめん、ねーちゃん」


 水無瀬は、ふるふると首を振った。そして陽くんの頭を、くしゃっと撫でた。陽くんは「やめろよー」と言いながら、まんざらでもなさそうだった。


 小学三年生でも、ちゃんとわかっているのだ。それが、この家では当たり前のことなんだと思った。


「そういえば兄ちゃんさ」


 陽くんが、天ぷらをかじりながら言った。立ち直りが早い。


「ねーちゃんのこと、『水無瀬』って呼んでるよね。ここ、全員水無瀬だよ? 誰が返事すればいいかわかんないじゃん」


 箸が止まった。


 ……言われてみれば、そのとおりだった。


「雫、でいいのよ?」


 澄子さんが、にこにこしながら言う。水無瀬が、そうめんをすする途中で固まっている。


「……いや、その」


 俺は卵焼きをもう一切れ口に入れて、時間を稼いだ。甘い。甘いけど、今はそれどころじゃない。


「兄ちゃん、ヘタレ?」


 小学三年生に、ヘタレと言われた。


 反論の言葉が、一つも見つからなかった。




 夕飯のあと、水無瀬は澄子さんと一緒に台所に立った。俺は居間で、陽くんのカブトムシを見せてもらっていた。


 台所の扉は、半分だけ開いていた。換気扇の音と、食器のふれ合う音がする。澄子さんの、低くてやわらかい話し声も。


 そのあいだに、ほんの一瞬。


「――ふふっ」


 小さな、本当に小さな、笑い声が聞こえた。


 澄子さんの声じゃない。もっと高くて、細くて、ちょっとだけかすれた声。


 俺は、カブトムシの虫かごを見つめたまま、動けなくなった。


 水無瀬の、声だった。


 初めて聞いた。四月からずっと隣にいて、スケッチブックの字なら何百回も読んできたのに。声を聞いたのは、これが初めてだった。


 振り向きたかった。でも、振り向かなかった。


 俺が振り向いたら、水無瀬はたぶん気づく。気づいたら、あの声はきっと引っこんでしまう。台所の、お母さんの隣でだけ出てくる声なのだ。それを、俺が取り上げていいはずがない。


 だから、聞こえなかったふりをした。カブトムシの角の長さについて、陽くんの説明を最後まで聞いた。


 でも、あの「ふふっ」は、ずっと耳の奥に残っていた。


 手のひらにのせた、小さなガラス玉みたいに。落とさないように、そっと握っていたかった。




「今日は、ありがとうね」


 帰り際、澄子さんがエレベーターホールまで送ってくれた。水無瀬は、お風呂に入りたくないと暴れる陽くんの説得に駆り出されている。廊下の向こうから「やだー! カブトムシと一緒に入るー!」という声が響いていた。


「雫ね、最近、学校の話をするようになったの」


 澄子さんは、エレベーターのボタンを押しながら言った。


「中学のころは、一つもしなかったのよ。それが今は、ルビのみんなの話ばっかり。凛ちゃんがかっこいいとか、ひよりちゃんが優しいとか、大河くんがすごくたくさん食べるとか」


 澄子さんは、ちょっといたずらっぽく笑った。


「湊くんが、ちゃんと読んでくれる、とか」


 顔が熱くなった。


「雫のことは、聞いてる?」


「……声が出にくい、ってことは」


「場面緘黙(ばめんかんもく)っていうの。家では話せるけど、学校みたいな場所では声が出なくなる。あの子が話さないんじゃなくて、話せないの。わがままでも、怠けてるのでもない。不安で、喉がぎゅっと固まっちゃうのね」


 澄子さんは、エレベーターの階数表示を見上げた。


「小さいころは、私もどうしていいかわからなかった。でもね、急かさないって決めたの。家族みんなで。声が出なくても、あの子はちゃんとしゃべってる。スケッチブックでね。だから、それをちゃんと聞こうって」


「知ってます」


 思わず、口から出ていた。


「水無瀬の字、すごく読みやすいです」


 澄子さんは、一瞬きょとんとして、それから声を立てて笑った。


「そこなのね」


「……すみません」


「ううん。ありがとう」


 エレベーターの扉が開く。乗り込むと、澄子さんは小さく頭を下げた。扉が閉まるまで、ずっと笑っていた。




 マンションを出ると、夏の夜の空気がむっとまとわりついてきた。どこかで、虫が鳴いている。


 駅に向かって歩いていると、ポケットのスマホが震えた。


 画面を見る。水無瀬からのメッセージだった。


『また来てね』


 たった五文字。


 俺はしばらく、その五文字を街灯の下で見つめていた。それから、ゆっくりと返事を打った。


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