第64話 湊は、最後まで聞く子
『湊が、にんじんに話しかけていた。「にんじん、なんていってるの?」と聞かれたので、「食べないでって言ってるよ」と答えたら、湊は大喜びで、にんじんを全部残した。失敗した。』
夜中の二時半。俺は机に突っ伏して、声を殺して笑っていた。
「……母さん、それは失敗するだろ」
〈どうした湊。泣いておるのか、笑っておるのか〉
「笑ってる。たぶん」
ちなみに俺は、今でもにんじんが少し苦手だ。原因が判明した。八年越しに。
ページの日付を見ると、俺が三歳か四歳のころだった。研究の記録のあいだに、こういうページが、ぽつりぽつりと挟まっている。母さんの日記だ。
続きを読みたかった。でも、まぶたが言うことをきかなかった。五冊目の手帳を胸に抱えたまま、俺はいつの間にか眠っていた。
◇ ◇ ◇
「このPOP、売ってもらえませんか」
翌日の昼下がり。帳場の前で、近所の大学生らしいお兄さんが、真剣な顔でそう言った。
指さしているのは、文庫本の棚に立てかけた手書きのカードだ。推理小説の紹介で、雨の夜の洋館と、窓に映る人影が鉛筆で描いてある。字は三行だけ。『最後の一行で、もう一回最初から読みたくなります』。
描いたのは、水無瀬だ。
ばあちゃんが「夏の文庫フェア」をやると言い出して、水無瀬にPOP作りを頼んだのが三日前。水無瀬は二つ返事――いや、二つうなずきで引き受けて、今日も朝から店の隅で色鉛筆を走らせている。
「すみません。POPは売り物じゃなくて……本のほうなら」
「……じゃあ、本ください」
お兄さんは、POPを名残惜しそうに見つめながら、文庫本を一冊買っていった。水無瀬のPOPは、これで三冊目の売り上げだ。ばあちゃんが歯医者に出かける前に「本を売っとくれ、本を。絵を売るんじゃないよ」と念を押していったのは、たぶんこういう事態を予想していたからだろう。
水無瀬が、スケッチブックをこちらに向けた。
『売れた?』
「売れた。POPのほうが欲しそうだったけど」
水無瀬は、前髪の奥で小さく笑った。ペンを持った手で、ぐっと小さくガッツポーズをする。それから、また次のカードに向かった。
店の中には、扇風機の音と、色鉛筆が紙をこする音だけがある。
俺は帳場に座って、五冊目の手帳を開いた。昨日の続きだ。
『湊、四さい。辞書を枕にして寝ていた。重くないのかな。首、だいじょうぶかな。』
大丈夫だったらしい。首は今も無事についている。
『湊が「ことばって、どこからくるの」と聞いてきた。答えられなかった。言語の研究をしてるのに。くやしいので、宿題にさせてもらった。いつか、ちゃんと答えたい。』
ページをめくる手が、少し止まった。
言葉は、どこから来るのか。そんなことを聞いた記憶は、まったくない。でも、四歳の俺はたしかに聞いたのだ。そして母さんは、その宿題を持ったまま、いなくなった。
『湊に、いろんな国の「こんにちは」を教えた。ニーハオ、アンニョン、ボンジュール、ジャンボ。湊はジャンボがいちばん気に入ったらしく、保育園の先生に毎朝「ジャンボ!」とあいさつしているらしい。先生から「ジャンボってなんですか」と聞かれた。スワヒリ語です、と答えたら、もっと困った顔をされた。』
……そうか。
俺が各国のあいさつくらいは言えるのは、なんとなく覚えていたからだと思っていた。なんとなく、じゃなかった。全部、母さんが教えてくれたのだ。保育園の先生を困らせながら。
ちなみに今でも、スワヒリ語の「ジャンボ」だけは妙に発音がいいと言われる。四歳の俺の、毎朝の努力のたまものらしい。
『保育園のおむかえ。湊が、お友だちの長い長い話を、最後まで聞いていた。恐竜の話。三十分。ほかの子はみんな園庭に走っていったのに、湊だけ、ずっとうなずいてた。』
『先生が「湊くんは、いつも人の話を最後まで聞くんです」って、ちょっと困った顔で言った。お迎えの時間、とっくに過ぎてたから。私は、ちょっと誇らしかった。』
……恐竜の話。
覚えていない。覚えていないけど、その光景は目に浮かんだ。夕方の園庭。恐竜の名前を延々と並べる友達。それを、黙ってうなずきながら聞いている小さな俺。困った顔の先生。
そして、少し離れたところで、それを見て笑っている母さん。
次のページは、日付が一年ほど飛んでいた。字が、ほかのページより少しだけていねいだった。
『湊は、いつも人の話を最後まで聞く子だ。』
『それは、とても大事な才能。言葉は、聞いてくれる人がいて、はじめて言葉になるから。どんなにきれいな言葉も、だれにも聞かれなかったら、なかったのと同じになってしまう。』
『だから湊。その才能を、なくさないでね。』
俺は、しばらくそのページを見つめていた。
ばあちゃんの口癖が、頭の中で重なる。言葉ってのはね、橋なんだよ。渡ってもらって、はじめて意味がある。
母さんも、同じことを言っていたのだ。ばあちゃんとは違う言い方で。
ページをめくる。それが、五冊目の手帳の、最後の日記だった。
『いつか湊が自分の言葉を持ったら、この手帳を読んで、笑ってくれたらいい。』
『にんじんのことは、ごめんね。』
――笑った。
笑ったはずだった。口の端は、ちゃんと上がっていた。
なのに、手帳の上に、ぽたりと何かが落ちた。
あわてて袖でぬぐう。インクがにじまないように。母さんの字が、消えてしまわないように。ぬぐっても、ぬぐっても、また落ちてくる。
……なんだよ、これ。
八年だ。母さんのことで、八年、泣かなかった。母さんが帰ってこないとわかった日も、葬式のかわりの小さな集まりの日も、俺は泣かなかった。泣いたら、何かが本当に終わってしまう気がしたから。
それが、にんじんで泣いている。
笑えない。笑えないけど、ちょっとだけ笑った。そうしたら、余計に涙が出た。
気がつくと、色鉛筆の音が止まっていた。
顔を上げると、水無瀬がいた。帳場の上がり框の、俺のすぐ隣。いつの間に移ってきたのか、膝を抱えて座っている。
スケッチブックは、膝の上で閉じたままだった。
水無瀬は、何も書かなかった。
「どうしたの」とも、「だいじょうぶ?」とも。ペンを握ってさえいない。ただ、隣に座って、店の入口のほうを見ている。肩と肩のあいだには、こぶし一つぶんくらいの隙間があった。近すぎもしないし、遠すぎもしない。
俺も、何も言わなかった。
軒先で、風鈴がちりんと鳴った。扇風機が首を振って、二人の前髪を同じ向きに揺らしていく。
しばらくして、引き戸が開いた。近所のおばあさんが、料理の本を一冊持って帳場に来る。
俺が顔を上げるより先に、水無瀬が立ち上がった。本の裏の値札を指さして、おばあさんに見せる。電卓を叩いて、画面を向ける。おばあさんは「はいはい」とうなずいて、小銭を出した。水無瀬は、お釣りと本を両手で渡して、ぺこりと頭を下げる。
おばあさんは、帳場の奥の俺には気づかないまま、にこにこと帰っていった。
声が一つもないのに、ちゃんと店番になっていた。
水無瀬は何事もなかったように戻ってきて、また俺の隣に座った。さっきと同じ、こぶし一つぶんの隙間を空けて。
……言葉は、聞いてくれる人がいて、はじめて言葉になる。
だとしたら、言葉じゃないものは、どうなんだろう。隣にいてくれる人がいて、はじめて伝わるものも、あるんじゃないだろうか。
水無瀬は、声が出ない。でも、水無瀬が今くれているものは、どんな言葉より、ちゃんと届いていた。
「……ありがとな、水無瀬」
鼻声で言うと、水無瀬は、ふるふると首を振った。
それから、少し考えるようにペンを取って、スケッチブックを開いた。何度か書きかけて、手を止めて、また書く。いつもより、ずっとゆっくりした字だった。
くるりと、こちらに向ける。
『こんど、うちに来ませんか』
その下に、少し小さく。
『お母さんが、会ってみたいって』
字の横に、小さな卵焼きの絵が描いてあった。




