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第63話 母さんの手帳

 手帳は、全部で十二冊あった。


 深い緑色の布張りで、大きさは手のひらより一回り大きいくらい。角はどれもすり切れて、中の厚紙がのぞいている。背表紙には、白いインクで、一から十二までの数字が振ってあった。


「今夜は好きなだけ読みな。明日の朝の店番は、あたしがやるよ」


 ばあちゃんはそう言って、先に寝てしまった。


 俺は木の箱ごと手帳を二階に運び、自分の部屋の机に並べた。十二冊。並べてみると、思ったより場所をとる。母さんがいなくなってから八年、ずっと店の奥で眠っていた十二冊だ。


〈開けぬのか、湊〉


 机の端で、ルルが丸くなっていた。


「開けるよ。……ちょっと、待ってくれ」


 深呼吸を一つ。


 一冊目の手帳の、表紙をめくる。


 最初のページには、見出しのように大きな字で、こう書いてあった。


『迷宮語・手書き辞書 その一』


 その下には、迷宮文字がずらりと並んでいた。蔓が絡み合ったような、あの文字。一つずつ、ていねいに枠で囲ってある。辞書の索引みたいに、何列も、何列も。


 ページをめくる。


『〈りぃん〉……よく聞く音。でも、一つの意味じゃない。高さと長さで変わる。「注意」「ここ」「呼ぶ」。たぶん、もっとある。』


『〈しゃらん〉……「ありがとう」に近い。でも、もっとやわらかい。たぶん「あなたの声が、届きました」くらいの意味。』


『影の声は、命令ばかり。短くて、そっけない。まるで、誰かに言わされているみたい。』


 最後の一文で、指が止まった。


 ――まるで、誰かに命令されて動いているみたいに。


 初めての実習で、スライムの声を聞いたとき。俺は、まったく同じことを思った。


「……母さんも、聞こえてたんだ」


 声に出したら、喉の奥が熱くなった。


 知識としては知っていた。灰原先生も言っていた。「お前の母さんは、迷宮の声が聞ける人だった」と。でも、こうして母さんの字で、母さんの言葉で書かれているのを見ると、全然違った。


 同じものを聞いて、同じことを思った人が、本当にいたのだ。


 次のページの隅に、小さな字で書き込みがあった。


『研究室のみんなには、鈴の音にしか聞こえないらしい。わかるのは、私だけ。……ちょっと、さみしい。』


 ……わかる、と思った。


 四月の俺も、そうだった。誰にも聞こえない声を、一人で聞いていた。


 ルルが、俺の手の甲に、ふわりと体を寄せてきた。何も言わなかった。




 三冊目から六冊目までは、迷宮文字の解読メモだった。


 迷宮の壁に刻まれた文字を、そのまま写し取ったページ。その下に、母さんの訳。わからない部分には「?」。何度も書いて、消して、また書いた跡が、紙を薄くしている。


 俺はもう、迷宮文字が読める。だから、母さんの訳が合っているかどうか、わかってしまう。


 ほとんど合っていた。【通訳】の力と、たぶん、とんでもない量の努力で。


『〈止まれ〉……と訳していたけど、まちがい。〈休め〉だった。命令じゃなくて、気づかい。こういうのが、いちばん怖い。訳しまちがえると、意味が反対になる。』


 矢印と二重線で、自分の間違いを直してある。直したあとの字は、なんだか嬉しそうに跳ねていた。


 「?」のついた行を見つけるたびに、俺は鉛筆を握った。その文字を読んで、余白に、小さく書き込む。


 〈ここは、水場〉。〈この先、狭い〉。〈子どもを、先に〉。


 書き込みながら、変な気持ちになった。


 八年前に母さんが置いていった問題に、今、俺が答えている。答案を出す相手は、どこにもいないのに。


〈湊。手が止まっておるぞ〉


「……ああ」


 鼻をすすって、次のページをめくった。


 余白には、ときどき、研究とは何の関係もない落書きがあった。


『ねむい』


『カレー食べたい。辛いやつ』


『三十二層、寒い。靴下、二枚はいてもまだ寒い。三枚目、持ってくればよかった』


 思わず、ふっと笑ってしまった。真面目な解読メモのすぐ横に、カレー。母さんは、こういう人だったのか。俺の知らない母さんが、ページのあちこちから顔を出す。


 六冊目の最後のページだけは、落書きではなかった。走り書きの、短いメモだった。


『ステータス窓の文字も、ときどき、訳がおかしい気がする。迷宮の言葉を、むりやり私たちの言葉に押しこめたみたいな。……気のせいかな。気のせいだといいな。』


 背中が、すっと冷えた。


 ルルがうちに来た次の日に言ったことと、ほとんど同じだった。〈窓の文字は、本当の言葉を無理やりお前たちの言葉に押し込めたものだ〉。灰原先生も言っていた。母さんは「この世界の言葉は、どこか訳がおかしい」と言っていた、と。


 母さんは、八年以上前に、もう気づきかけていたのだ。


 気のせいじゃなかったよ、と、心の中で答える。今度の答えは、鉛筆では書き込まなかった。




 七冊目から十冊目は、もっと驚く内容だった。


『抜け道で、小鬼族の親子に会った。子どものほうが、私の【通訳】に興味しんしん。耳をひっぱられた。痛い。』


『小鬼族の子が、私のことを〈みみのひと〉と呼んだ。耳の人。聞く人、という意味もあるらしい。……気に入った。』


 住人との、対話記録だった。


 小鬼族の言葉の単語帳まである。あいさつ、数の数え方、「おなかすいた」「こわくない」「またね」。


『小鬼族のあいさつ:〈きょろ〉。「目を合わせる」という意味もある。目を合わせるのが、あいさつ。』


 ページの端には、大きな耳の子どもの似顔絵が描いてあった。お世辞にも上手いとは言えない。でも、その子が笑っているのは、ちゃんとわかる。


 多摩川迷宮の岩の割れ目で会った、ピノのことを思い出した。〈ありがとう、ことばのひと〉。


 ことばのひと。みみのひと。


 八年前、母さんも、同じように呼ばれていたのだ。


〈小鬼の言葉か〉


 ルルが、ページをのぞき込んだ。


〈あやつらは早口でな。しかも、すぐに話が脱線するのだ。木の実の話をしていたかと思えば、いつの間にか自分の祖母の話になっておる〉


「お前、小鬼族に知り合いがいるのか?」


〈……いや。おらぬ。……おらぬはずだが、なぜ知っておるのだろうな〉


 ルルは、自分でも不思議そうに首――首はないが――をかしげた。それから、手帳の上に、ころりと寝転がった。


〈この手帳は、落ち着く。今夜はここで寝る〉


「読めなくなるだろ、どけ」


〈いやだ〉


「どら焼き、明日一個増やす」


〈……よかろう〉


 交渉成立。ルルは隣の九冊目の上に移動した。何も解決していない気がする。




 問題は、最後の二冊だった。


 十一冊目と、十二冊目。どちらも前半は、ほかの手帳と同じだった。迷宮文字の写しと、訳と、たまに落書き。


 でも、後半に入った途端、ページの景色ががらりと変わった。


 迷宮文字と、見たことのない記号が、ごちゃまぜに並んでいる。小さな丸。点。短い線。それが二つ三つ組み合わさって、一つの形になっている。楽譜の音符を、ばらばらに崩して並べ直したみたいな記号だった。


 迷宮文字の部分なら、俺には読める。


 読める、はずだった。


 集中すると、文字がほどけて、意味に組み直ろうとする。でも、組み直らない。一文字ずつは読めるのに、並べても単語にならない。音だけがばらばらに頭の中に散らばって、どこにもつながらない。


 こめかみが、ずきん、と痛んだ。


「……暗号、か」


 迷宮文字と、母さんだけの記号を、混ぜて書いてある。


 ――近所の子と、自分たちだけの字を作って遊んでたこともあったね。


 ばあちゃんの言葉を思い出した。丸とか三角とか、組み合わせて。誰にも読めなかったって、得意そうに。


「母さん。なんで、こんなものまで暗号にしたんだよ……」


 答える人はいない。


 他の十冊には、こんな仕掛けは一つもなかった。ということは、この二冊の後半にだけ、誰にも読まれたくないことが書いてある。


 あるいは――読まれてはいけないことが。


 時計を見ると、夜中の二時を回っていた。頭が痛い。目がしょぼしょぼする。今夜はここまでにしよう、と思って、手帳を閉じかけた。


 そのとき、気づいた。


 研究の記録のあいだに、ときどき、毛色の違うページが挟まっている。日付だけが書いてあって、迷宮の話が一つも出てこないページ。字も、少しだけ丸くて、大きい。


 俺は五冊目の手帳を引き寄せて、そのページを開いた。


 最初の一行を読んで、息が止まった。


『湊が、』


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