第62話 開かずの書庫
真白堂の店の奥には、俺が一度も入ったことのない部屋がある。
帳場の裏の細い廊下を進んだ突き当たり。黒ずんだ木の扉に、古い南京錠がぶら下がっている。小さいころから、俺はそこを「開かずの書庫」と呼んでいた。
十歳のとき、一度だけヘアピンで開けようとしたことがある。刑事ドラマの見よう見まねだった。三十分格闘して、ヘアピンを二本曲げたところでばあちゃんに見つかった。
「あんたに鍵開けの才能はないね。安心したよ」
怒られるより、そっちのほうがこたえた。
その扉の鍵が今、居間のちゃぶ台の上に置かれている。
赤い組紐のついた、真鍮の鍵だった。持ち手のところが、何度も握られたみたいにすり減って光っている。
「……あの子がね」
ばあちゃんは、湯呑みを両手で包んだまま言った。店はもう閉めてある。窓の外では、すずらん通りの街灯がぽつぽつと灯り始めていた。
「出かける前の晩に、あたしに言ったんだよ。『湊が十五になって、自分の言葉を持ったら渡して』って」
「自分の、言葉?」
「あたしにも、よくわからなかったさ」
ばあちゃんは、少しだけ笑った。
「十五になったら、すぐ渡そうかとも思ったんだよ。でもね、四月のあんたは、まだ人の言葉を借りて黙ってる顔をしてた。笑われても『まあ、いいけど』って、そればっかり」
……図星すぎて、何も言えない。
「合宿から帰ってきてからのあんたは、ちがう。夜中に、迷宮庁の古い記事を読んでるだろう。二階の明かり、下から見えてるんだよ」
「……ばれてたのか」
「何か、自分で決めた顔をしてる。だから、今だと思ったのさ」
ばあちゃんは湯呑みを置いて、窓の外を見た。
「あの子はね、小さいころから言葉が好きな子だった」
ぽつり、ぽつりと、ばあちゃんは話し始めた。
「字を覚えたら、すぐに国語辞典を読み始めてね。声に出して、頭から順番に。『あ』の項目だけで三日かかってた」
「……え」
「あんたと同じだよ。あんたが辞書を読み始めたとき、あたしは笑っちまったもんさ。血は争えないねって」
知らなかった。俺が辞書を好きなのは、てっきり自分で見つけた趣味だと思っていた。
「近所の子と、自分たちだけの字を作って遊んでたこともあったね。丸とか三角とか組み合わせて、手紙を回すんだよ。学校の先生に取り上げられても、誰にも読めなかったって、得意そうに帰ってきてさ」
ばあちゃんは、懐かしそうに目を細めた。
「大学のときに【通訳】をもらって、卒業して、迷宮庁に入った。言語研究室ってところだよ。最初の年なんか、帰ってくるなり玄関で叫んでたね。『お母さん、迷宮の壁がね、しゃべるの!』って」
「壁が?」
「あたしにはさっぱりだったよ。でも、あんなに楽しそうな顔は、あとにも先にも見たことがない」
少し、間があった。
ばあちゃんの声が、低くなる。
「最後の朝は、早かったよ。まだ外が暗いうちでね。あたしは握り飯を三つ作って持たせた。梅と、おかかと、昆布」
俺は、ちゃぶ台の木目を見ていた。
「あの子は玄関で靴を履いて、一回だけ振り返った。二階の階段を見上げてね。ちょっと笑って、『湊に、よろしく』って」
膝の上で、手のひらを握る。
あの朝、俺は二階にいた。それだけは、覚えている。
「あたしはね、言葉を売る店をやってるくせに、あの子に気の利いたことなんか一つも言えなかった。『気をつけてね』って、それだけさ。……もっと何か、言えばよかったんだけどね」
ばあちゃんは、鍵を俺のほうへ押した。
「行っておいで。あたしも一緒に行くから」
◇ ◇ ◇
廊下の突き当たりで、南京錠に鍵を差し込む。
回らない。
もう一度、力をこめる。びくともしない。八年以上、誰も触っていなかったのだから当然だ。錆びついているのかもしれない。
〈どうした湊。力が足りぬのではないか〉
フードの中から、ルルがのぞき込んでくる。
「錆びてるんだよ、たぶん」
〈ふん。我が手を貸してやってもよいが〉
「お前、手ないだろ」
〈……心の手だ〉
余計に役に立たない。
「貸しな」
ばあちゃんが俺を押しのけた。鍵を差したまま、扉の下のほうを、草履のつま先で、こん、と蹴る。それから鍵をひねると、がちゃり、とあっけなく錠が外れた。
「古い戸はね、ここを蹴るんだよ」
「……今のは、蹴る前に教えてほしかった」
「聞かれなかったからね」
ばあちゃんは涼しい顔で、扉を引いた。
ぎい、と蝶番が鳴る。
埃の匂いが、どっと流れ出してきた。古い紙と、乾いたインクと、それから、何の匂いだかわからない、ほんの少しだけ甘いもの。
〈へくちっ〉
フードの中で、ルルがくしゃみをした。毛玉もくしゃみをするらしい。新しい発見だった。
壁のスイッチを入れると、裸電球がちかちかと瞬いて、部屋を照らした。
狭い部屋だった。四畳半くらいだろうか。その四方の壁が、天井まで本で埋まっている。
背表紙を目でたどる。英和辞典。中日辞典。韓日辞典。スワヒリ語の入門書。エスペラントの文法書。アラビア文字の練習帳。見たこともない文字の辞書が、何冊も、何十冊も並んでいる。
「……すげえ」
思わず声が漏れた。本屋の孫として、それなりに本は見てきたつもりだった。でも、こんなに「言葉」が詰まった部屋は初めてだった。
振り返ると、ばあちゃんは戸口に立ったままだった。敷居の向こうから、一歩も入ってこようとしない。
「……ばあちゃんは、入らないのか」
「あたしは、いいよ」
ばあちゃんは本棚を見上げて、小さく息をついた。
「あの子がいなくなってから、一度も開けてないんだ。鍵はずっと帯の中に入れて持ち歩いてたけどね。開けたら、あの子がもう帰ってこないって、認めちまう気がしてさ」
何か言おうとして、言葉が見つからなかった。
「年寄りの、ただの意地だよ。気にしなさんな」
ばあちゃんはそう言って、ひらひらと手を振った。
本棚の一段だけ、本の代わりに写真立てが置かれていた。手に取って、埃を指でぬぐう。
若い女の人が、赤ん坊を抱いて笑っていた。肩までの黒髪。少し眠たそうな、とろんとした目。
……毎朝、洗面所の鏡で見ている目と、同じ形だった。
写真の中の母さんは、俺の記憶の中の母さんより、ずっと若かった。腕の中の赤ん坊は、口を大きく開けて泣いている。たぶん、俺だ。せっかくの写真なのに、と思う。泣き止んでから撮ってほしかった。
写真立てを、そっと元の場所に戻す。
床には段ボール箱がいくつも積まれている。側面に、丸みのある、少し右上がりの字で中身が書いてあった。
『大学ノート』
『辞書』
『湊の絵(捨てるな)』
最後の箱で、手が止まった。
蓋を開ける。クレヨンで描いた絵が、何十枚も、きれいに重ねてしまってあった。一番上の一枚は、黄色い丸に棒が四本生えた何か。裏に、同じ丸みのある字でメモがある。
『湊・四さい。「おかあさん」(たぶん)』
「たぶんって何だよ……」
声が、少しだけ裏返った。
たしかに、お世辞にも人間には見えない。俺が母親でも、たぶんと書くと思う。でも、捨てるな、とも書いてある。
〈湊〉
フードの中で、ルルが鼻――どこにあるのか知らないが――をひくひくさせていた。
〈……なにか、懐かしい匂いがする〉
「懐かしい? お前、ここに来たの初めてだろ」
〈うむ。初めてだ。……初めてのはずなのだが〉
ルルはそれきり黙って、部屋の奥をじっと見つめた。
ばあちゃんが、黙って奥を指さす。
本棚と本棚のあいだ。いちばん奥の、壁際。そこに、一つだけ、他とは違う箱があった。
段ボールではない。木でできた、蓋つきの箱だ。埃をかぶってはいたけれど、角だけが丸くすり減っていた。誰かが、何度も手で触れていたみたいに。
俺は膝をついて、蓋の上の埃を手のひらで払った。
下から、字が現れた。
丸みのある、少し右上がりの、見慣れはじめた字。
『湊へ』
蓋を持ち上げる。
中には、深い緑色の布で装丁された手帳が、何冊も重ねて、麻の紐でひとまとめに結わえてあった。




