第61話 真白堂の夏休み
夏休みに入ってから、真白堂のどら焼きの消費量は三倍になった。
原因は二つある。一つは、帳場の上で口のまわりをあんこだらけにしている白い毛玉。もう一つは――
「……おはよう」
午前十時ちょうど。店の引き戸ががらりと開いて、背の高い女子が入ってきた。黒髪のポニーテール。すっと伸びた背筋。手には、和菓子屋「たちばな」の紙袋。
鷹宮凛。一年一組、学年首席。そして、合宿から帰ってきてからの一週間、一日も欠かさずうちに来ている客だ。
「今日も来たのか」
「通りかかっただけ」
「お前の家から、電車で乗り換え二回だろ。通りかかる距離じゃない」
「……通りかかったの」
鷹宮は短く言い切ると、俺の前を素通りして帳場へ向かった。視線の先には、もちろんルルがいる。
〈む。剣の娘か〉
ルルはどら焼きから顔を上げ、ふんぞり返った。毛玉がどうやってふんぞり返るのかと聞かれても困るが、そうとしか言いようのない姿勢だ。
〈よかろう。今日も撫でることを許す。ただし、食べ終わってからにせよ〉
「……きゅい、って言った。いいってこと?」
「食べ終わってからにしろってさ」
「待つ」
鷹宮は帳場の前の丸椅子に、なぜか正座した。丸椅子に正座。器用な奴だと思う。紙袋から新しいどら焼きを取り出し、ルルの前にそっと置く。そして自分の分も一つ出して、もぐもぐと食べ始めた。
……どら焼きの消費量が三倍になった、二つ目の原因である。
奥多摩の合宿から帰ってきて、一週間。光になって消えた白い鹿の〈……ありがとう〉も、灰原先生が屋上で教えてくれた母さんの最後の言葉――『門を閉じよ』も、まだ耳の奥に残っている。それから、ルルが思い出したという、知らない女の人の声。〈この子を、あの子のところへ〉。
考えなきゃいけないことは山ほどある。
でも、八月の古本屋の帳場は、考えごとをするには少し暑すぎた。
軒先の風鈴が、ちりん、と鳴る。
俺は反射的に耳を澄ませて――ただの風鈴だと気づいて、ため息をついた。合宿以来、鈴っぽい音がするたびにこうだ。そのうち自転車のベルにも返事をしてしまいそうで、自分が怖い。
「おや、また来てたのかい」
町内会の集まりから戻ってきたばあちゃんが、日傘をたたみながら言った。鷹宮が丸椅子から飛び降りるように立ち、きっちり腰を折る。
「お邪魔しています」
「いいよいいよ、座ってな。……それにしても、いい背筋だねえ。剣をやってる背中だ」
「……わかるんですか」
「毎日いろんな背中を見てるからね。本を探してる背中、立ち読みしてる背中、値段を見てがっかりしてる背中。それから、万引きしようか迷ってる背中」
「最後のは見分けたくないだろ」
「見分けられるから、うちは四十年つぶれてないんだよ」
ばあちゃんは得意げに帳場に上がった。鷹宮は、ほんの少しだけ口の端をゆるめていた。この人なりの、笑った顔だ。
ルルがどら焼きを食べ終えると、鷹宮はすかさず両手でルルをすくい上げた。指先で、ふわふわの毛をそっと撫でる。
表情は、ほとんど変わらない。変わらないのに、溶けている。氷が春の日なたに置かれたときの、あの感じだ。
〈む……そこだ、剣の娘。その耳の後ろ……いや、我に耳はないが、そのあたりだ〉
「……ふわふわ」
会話が噛み合っているのか、いないのか。たぶん、どっちも満足しているので問題はない。
しばらくもふもふを堪能すると、鷹宮はルルを肩に乗せたまま、店の棚を眺め始めた。これも、この一週間で覚えた習慣らしい。最初は「古い本は、埃っぽい」と眉をひそめていたくせに、今ではばあちゃんに本の値段の付け方まで聞いている。
「……これ、何」
鷹宮が抜き出したのは、薄い和綴じの本だった。茶色く日焼けした表紙に、筆で書いた太い字が並んでいる。
「手習いの手本だよ。昔の子どもが、字を覚えるのに使ったのさ」
ばあちゃんが老眼鏡を押し上げる。
「いろは歌だね。いろはにほへと、ちりぬるを、ってやつ」
「いろは」
「仮名を四十七、一つずつ全部使って、一つの歌にしてあるんだよ。同じ字は、二度と出てこない」
「……一つずつ、全部」
鷹宮は本を開いたまま、指を折って何かを数え始めた。い、ろ、は、に、と唇が小さく動いている。
「おもしろい」
俺は思わず鷹宮の顔を見た。鷹宮凛が、本を「おもしろい」と言った。四月の講堂で、【剣聖】Sランクを告げられても眉一つ動かさなかった、あの鷹宮が。
「何。……私が本を読んだら、おかしい?」
「おかしくない。ちょっと驚いただけだ」
「百円でいいよ。いい背筋に免じてね」
鷹宮は財布から百円玉を出し、両手でばあちゃんに差し出した。本を受け取るときも両手だった。大事そうに、鞄の一番上にしまう。
……この本が、あとであんなことの役に立つとは、このときの俺はまったく思っていなかった。
◇ ◇ ◇
「ちわーっす! 差し入れ持ってきたぜ!」
昼過ぎ。店の引き戸が、今日二度目の大きな音を立てた。
大河が、両手に大きな紙箱を抱えて立っていた。中身は聞くまでもない。揚げ物の匂いが、古い紙の匂いを一瞬で押しのけて店中に広がる。定食屋いぬかい名物の、からあげだ。
「お、お邪魔します……!」
大河の後ろから、ひよりがひょこっと顔を出した。
「家にいると、弟たちの自由研究を手伝わされるので……逃げてきました……。アサガオの観察日記を三冊同時に書くのは、無理です……」
「三冊?」
「三つ子みたいに、三人とも同じテーマを選んだんです……」
ひよりは遠い目をしていた。六人きょうだいの長女は、夏休みも忙しい。
その隣で、水無瀬がぺこりと頭を下げた。胸に抱えたスケッチブックを開いて、くるりとこちらに向ける。
『こんにちは。おじゃまします』
字の横に、小さな太陽の落書き。太陽にも顔が描いてあって、なぜか汗をかいていた。今日の暑さを、一番正確に表現している気がする。
狭い店内は、あっという間に人でいっぱいになった。大河が上がり框に腰かけてからあげをつまみ、ひよりがばあちゃんに麦茶をもらい、水無瀬が鷹宮の肩のルルをスケッチし始める。
そこへ、常連の松尾さんが入ってきた。八十すぎの元国語教師で、週に一度、時代小説を一冊だけ買っていく人だ。
松尾さんは、店の中をぐるりと見渡して、目をぱちぱちさせた。
「……千代さん。いつから寺子屋を始めたんだい」
「夏の間だけね。月謝はどら焼き払いだよ」
「そりゃあ、安いねえ」
松尾さんは笑って、いつもの棚から一冊抜いていった。……客の前で、孫の友達を寺子屋の生徒扱いしないでほしい。
「あんたたち、店先でからあげ食べるんじゃないよ。二階に上がりな」
ばあちゃんに追い立てられて、俺たちは二階の居間に移った。ちゃぶ台を囲んで、扇風機を回す。氷の入った麦茶のグラスが、すぐに汗をかき始めた。
水無瀬は、さっきの続きを描いていた。ルルがどら焼きを抱えて得意げにしている絵だ。線は少ないのに、ふてぶてしさまで伝わってくる。
「雫ちゃん、それ、ルルちゃんそっくり!」
ひよりが身を乗り出す。水無瀬は少し照れたように肩をすくめて、スケッチブックの隅に書いた。
『ひよりちゃんも、描く?』
「えっ、わ、わたし絵は……。前に描いたら、弟に『おばけ?』って言われました……」
『おばけも、かわいいよ』
「フォローになってないです雫ちゃん……!」
二人のやりとりを、鷹宮がじっと見ていた。
ルルを膝に乗せたまま、ひよりの顔と、水無瀬のスケッチブックを、交互に。唇が、かすかに動いている。声にはなっていない。何かを、練習しているみたいに。
俺はなんとなく、視線をそらした。見ていないふりをするのが、たぶん礼儀だと思ったからだ。
「……ひより」
ぽつりと、鷹宮が言った。
「は、はいっ!?」
ひよりが、ばね仕掛けみたいに背筋を伸ばす。鷹宮がひよりを名前で呼んだのは、たぶんこれが初めてだ。
「……雫」
水無瀬が、ペンを止めて顔を上げた。
鷹宮は、麦茶のグラスの中の氷を見つめていた。誰の顔も見ずに、早口で言う。
「私のことも、凛でいい」
扇風機の首が、かたん、と回った。
一秒。二秒。
「り……凛、ちゃん?」
ひよりが、おそるおそる言った。
「……ちゃん」
「だ、だめでしたか!?」
「……だめじゃない」
鷹宮はそっぽを向いた。ポニーテールの隙間からのぞく耳が、からあげの衣みたいな色になっている。
水無瀬が、スケッチブックの新しいページを開いた。いつもより大きな字で、ゆっくりと書く。
『凛ちゃん』
その横に、ポニーテールの女の子がルルを抱きしめている絵を、さらさらと描き添えた。女の子の顔は、ほんの少しだけ笑っていた。
鷹宮は、そのページを長いこと見ていた。
「……それ、もらってもいい?」
水無瀬がこくりとうなずき、ページを丁寧に切り取って渡す。鷹宮はそれを、さっきの手習い本と同じくらい大事そうに、両手で受け取った。
〈ふむ。名とは、良いものだな〉
膝の上で、ルルがしみじみと言った。……と言っても、みんなには「きゅい」としか聞こえていない。でも、この場の空気を一番うまく訳していたのは、たぶんルルだった。
「よっしゃ! じゃあオレも凛って――」
「犬飼は、犬飼」
「なんでだよ!」
「……なんとなく」
「なんとなくで線引かれた!」
大河がちゃぶ台に突っ伏し、ひよりがその背中をよしよしと撫でる。
ちなみに俺は、最初から数に入っていないらしい。まあ、いいけど。俺も今さら「凛」なんて呼べる気がしない。
ちらりと鷹宮を見ると、一瞬だけ目が合って、すぐにそらされた。
◇ ◇ ◇
夕方。みんなが帰ったあとの店先に、ひぐらしの声が降っていた。
大河の差し入れの空き箱を片づけていると、背中から声がした。
「湊」
振り返ると、ばあちゃんが帳場の奥に立っていた。
手に、何か小さなものを握っている。赤い紐のついた、古い鍵に見えた。
「ちょっとおいで。……話がある」
いつもの、江戸っ子の調子じゃなかった。
静かで、少しだけ、震えている声だった。




