第60話 閉門計画
帰りのバスは、行きのバスと同じ色をしていた。
研修所の前の広場に、白い車体が五台並んでいる。三日前、ここに降り立ったときと同じバスだ。なのに、それに乗りこむ一年生たちの顔は、少しだけ違って見えた。
合宿最終日の朝。奥多摩迷宮の入口は、迷宮庁の職員によって封鎖されたままだった。黄色いテープが、崖の裂け目の前に何重にも張られている。
「――以上が、今回の件についての説明です」
出発前の集会で、学年主任が読み上げた文章は、短かった。
一年生の実地訓練中、森林層において異常個体の群れが発生。迷宮庁の特別講師と教員が対処し、生徒は全員無事に避難した。一部生徒に軽傷者あり。
それだけだった。
ルビの名前は、どこにも出てこなかった。白鹿のことも。御堂を助けに森の奥へ入ったことも。
「……また、なかったことにされてんな」
大河が、小声でぼやいた。
「別にいいよ。目立ちたくないし」
「お前はそうだろうけどよ」
大河は不満そうだった。でも、五組の列の中では、ひそひそと別の話が回っていた。
「ねえ、聞いた? 翻訳くんたち、森の奥まで御堂くんを助けに行ったんだって!」
「でっかい鹿、倒したって本当?」
「森田が見たって言ってたぞ。なんか光ってたって」
「見てない見てない。俺が見てたのは、たぶん階段の壁の苔」
噂というのは、こうやって尾ひれがついていくものらしい。
佐伯の声が、いちばん大きかった。たぶん、公式発表より佐伯のほうが、ずっと早く広まる。
◇ ◇ ◇
バスに荷物を積み込んでいると、一組のバスの前で、こつ、こつ、と松葉杖の音がした。
御堂だった。
足首には、昨日麓の病院で巻き直してもらった、真新しい包帯。肩にかけた大きなスポーツバッグが、松葉杖の邪魔をして、ひどく歩きにくそうだった。
その御堂の前に、二つの人影が立った。
権藤と、細川だった。
「……御堂さん」
権藤が、大きな身体を縮こまらせていた。細川は、その後ろで、ずっと地面を見ている。
「あの……すんませんでした」
「オ、オレらも……怖くて、つい……」
二人とも、声がひどく小さかった。四月から、廊下で俺を笑っていたときの声とは、まるで別人みたいだった。
御堂は、二人を見なかった。
まっすぐ前を見たまま、何も言わない。権藤と細川は、頭を下げたまま、その場に固まっていた。気まずい時間が、長く続いた。
やがて、御堂が、ぼそりと言った。
「……荷物、持て」
権藤と細川が、同時に顔を上げた。
「え」
「肩、重いんだよ。バスまで持て。聞こえなかったのか」
「は、はいっ!」
「持ちます! 持たせていただきます!」
二人は転がるように御堂のスポーツバッグに飛びついて、二人がかりで持ち上げた。一つのバッグを、なぜか二人で。御堂はそれを横目で見て、ふん、と鼻を鳴らした。
許した、とは言っていない。
でも、許していない人間は、たぶん、自分の荷物を預けたりはしない。
御堂は松葉杖を鳴らして歩き出し、五組のバスの前を通りかかったところで、足を止めた。
俺の前だった。
しばらく、御堂は何も言わなかった。俺も、何も言わなかった。真夏の朝の蝉が、やけにうるさかった。
「……借りは返す」
ほとんど聞き取れないくらいの、小さな声だった。
「貸した覚えはない」
「うるせえ。返すっつったら返す」
御堂はそれだけ言うと、ぷいと顔を背けて、一組のバスへ歩いていった。権藤と細川が、バッグを抱えて慌ててその後を追っていく。
「……今の、あれか」
大河が、俺の横で腕を組んだ。
「ツンデレってやつか」
「ツ、ツンデレ……」
ひよりが、なぜか顔を赤くして繰り返した。
水無瀬が、スケッチブックにさらさらと何か描いた。くるりと向けられたページには、松葉杖の御堂が、頭から湯気を出している絵があった。吹き出しに『かりはかえす』。妙に似ていた。
「あ、そうだ。御堂! 連絡先、交換しとこうぜ!」
大河が、スマホを振り回しながら一組のバスへ走っていった。俺たちも、なぜか全員まとめて引っぱっていかれた。「これで全員友達な!」と言いながら、大河は御堂のスマホと俺たちのスマホを、片っぱしから突き合わせていく。御堂は心底迷惑そうな顔をしていたけれど、最後には、黙ってスマホを差し出した。
「――真白」
バスに乗ろうとしたところで、呼び止められた。
鷹宮だった。一組のバスに乗る前に、こっちへ寄ってきたらしい。いつものポニーテールに戻っている。
「夏休み、どうするの」
夏休み。
合宿が終われば、霞高は八月いっぱい休みになる。去年までの俺なら、真白堂の店番をして、辞書を読んで、たまに大河とラーメンを食べに行って終わりだった。
でも、今年は。
「……母さんのこと、調べる」
口に出すと、それがもう決まっていたことみたいに聞こえた。
門を閉じよ。母さんの、最後の言葉。本当に、母さんはそう言ったのか。それを確かめる方法があるのかどうかも、まだわからない。でも、何もしないまま夏を過ごすことは、もうできなかった。
鷹宮は、少しのあいだ、俺の顔を見ていた。
「……そう」
それから、ほんの少しだけ目を伏せて、付け足した。
「手伝えることがあったら、言って」
俺のフードから、ルルがぴょこんと顔を出した。
〈剣の娘。夏のあいだも、我を撫でに来るがよい。特別に許す〉
「……ルルが、夏休みも撫でに来いってさ」
鷹宮の目が、すっと細くなった。真剣な顔だった。新人戦の決勝のときより、真剣だったかもしれない。
「毎日、行く」
「毎日は多い」
「毎日」
それだけ言って、鷹宮はくるりと背を向けた。ポニーテールが、楽しそうに揺れていた。
バスの座席に座ると、通路の向こうから、水無瀬がスケッチブックを差し出してきた。
『夏休み、いっぱい会えるといいね』
その横に、小さな太陽と、ひまわりの絵。
「……ああ」
うなずくと、水無瀬は嬉しそうに、ひまわりの横にもう一輪描き足した。前の席では、大河とひよりが、夏休みにどこへ行くかで盛り上がっていた。大河の案は全部、食べ物屋だった。
「あー、全員乗ったな。点呼……は、もういい。乗ってるだろ、たぶん」
いちばん前の席で、灰原先生が適当なことを言っていた。
「森田は乗ってるか」
「乗ってまーす」
「よし。じゃあ全員いる。帰りは寝る。起こすな。何かあっても起こすな」
先生は腕を組んで、行きと同じ格好で目を閉じた。昨日の夜、屋上で星を見ていた人と同じとは思えない。でも、キャンディの棒だけは、やっぱりくわえたままだった。
バスが、ゆっくりと動き出した。
窓の外を、山が後ろへ流れていく。フードの中で、ルルが〈また山が流れていくぞ〉と、少しだけいつもの調子で言った。
俺は、窓ガラスに額をつけて、遠ざかっていく奥多摩の山を見ていた。
さむい、と言った白鹿の声。ありがとう、と言った最後の声。窓の端でちらついた、きこえる、という四文字。この子をあの子のところへ、と言った、誰かの声。
そして、門を閉じよ。
全部、この三泊四日のあいだに、俺の耳に届いた言葉だった。
どれも、まだ、ちゃんと訳せていない気がした。
◇ ◇ ◇
霞が関。迷宮庁本部、最上階。
長官室の窓の外では、夕暮れの東京が、橙色に染まっていた。無数のビルの窓が、沈みかけた太陽を反射して、ちかちかと瞬いている。
黒崎冬馬は、長官の机の前に立っていた。
「――奥多摩迷宮の件は、以上です」
平らな声で、報告を締めくくる。
「黙者の大規模発生。森林層の主、白鹿の黙獣化。生徒の被害は軽傷のみ。ご子息も、足首の捻挫で済んでいます」
「そうか」
机の向こうの男は、短く答えた。
御堂玄十郎。迷宮庁長官。白髪まじりの短い髪に、きちんと仕立てられた背広。穏やかな目元。物腰の柔らかい、紳士然とした男だった。
息子の怪我については、それ以上、何も聞かなかった。
「それと、もう一点」
黒崎は、少しだけ間を置いた。
「真白湊は、"逆翻訳"を使いました」
玄十郎の指が、机の上で止まった。
「影の群れに、停止と後退を。……迷宮に、命令を」
長官室が、静まり返った。
玄十郎は、ゆっくりと椅子を回して、窓のほうを向いた。夕陽が、その横顔を橙色に縁取る。
「……詩織くんと、同じだ」
ひとりごとのような声だった。
黒崎は、何も言わなかった。白鹿が最後に何を言ったのかについても、報告しなかった。報告書のその欄は、空白のままだった。
玄十郎は、しばらく窓の外を見つめていた。暮れていく街を。そのどこかで今も口を開けている、国内最大の迷宮の方角を。
「閉門計画を、急ぐ」
静かに、玄十郎は言った。
「春分までに」
黒崎は、一拍だけ遅れて、頭を下げた。
「――はい」




