第59話 ルルの欠片
〈……湊〉
蚊の鳴くような声だった。
ルルの声は、いつもは無駄に大きい。我を誰と心得る、とか、どら焼きを持ってこい、とか。大部屋の真ん中でそれをやられたら、他のみんなには『きゅい!』としか聞こえないとはいえ、寝ている連中を起こしかねない。
なのに今夜のルルは、俺の耳にやっと届くくらいの声しか出していなかった。
「……ちょっと、外に出よう」
ルルをそっと両手ですくい上げた。軽い。いつもと同じ重さのはずなのに、今夜はやけに軽く感じた。
大河のいびきをまたいで、押し入れの森田をよけて、俺は大部屋を抜け出した。
研修所の階段の踊り場には、大きな窓があった。
月が出ていた。窓の向こうに、迷宮の入口がある崖が、黒い影になって見えている。ガラス越しの月明かりが、踊り場の床に白い四角を描いていた。
俺は階段に腰を下ろして、膝の上にルルを置いた。
ルルは、しばらく何も言わなかった。小さな身体を丸めたまま、震えている。俺は、その背中を指でゆっくり撫でた。ふわふわの毛が、指のあいだで少しだけ湿っていた。
〈……白鹿が〉
やがて、ルルが言った。
〈白鹿が、光になって消えたとき。……我は、何かを思い出したのだ〉
「何かって」
〈わからぬ。いや、少しだけ、わかる〉
ルルは、もぞもぞと顔を上げた。黒いつぶらな目が、月明かりを映して揺れていた。
〈白いところだった〉
ルルの声は、遠くを見るみたいにぼんやりしていた。
〈何もかもが白い。上も、下も、右も、左もない。地面もなければ、空もない。ただ、白いだけの場所だ。……そこに、誰かがいた〉
「誰か」
〈顔は、見えなかった。見えなかったのか、覚えておらぬのか、それもわからぬ。だが、声だけは覚えている。……やさしい声だった。女の人の声だ〉
ルルは、思い出そうとするように、ぎゅっと目を閉じた。
〈その声が、言ったのだ〉
ルルの口から、ささやくような鈴の音がこぼれた。それは、ルルのいつもの声とは少しだけ違う響きを持っていた。まるで、誰かの言葉を、そのまま写し取ったような。
〈――この子を……あの子のところへ。……届けて〉
胸の奥が、ことりと鳴った。
〈――しじまが、来る前に〉
しじま。
昨日、森の中で、黒崎が言った言葉だ。沈黙に食われた魔物。その「沈黙」を、黒崎はしじまと読んだ。そして四月、合同踏破のあと、ルルが意味もわからずにつぶやいた言葉でもある。
「ルル。しじまって、何なんだ」
〈……わからぬ〉
ルルは、小さく首を振った。
〈意味は、わからぬ。だが、とても冷たい言葉だ。口にするだけで、毛の根元が凍りそうになる。……白鹿の、あの砂嵐の体に似た、冷たさだ〉
俺は、白鹿のノイズの奥から聞こえた声を思い出していた。
さむい。しずかすぎる。だれか。
ルルの言う冷たさは、あれと同じものなのかもしれない。
〈湊〉
ルルが、俺の手のひらに、小さな身体を押しつけてきた。
〈我は、誰かの使いだったのだ〉
「使い?」
〈そうだ。我は、何かを運んでいた。大切な言葉だ。とても、とても大切な言葉。それを、誰かに届けるために、我はどこかから旅をしてきたのだ。……そんな気がする〉
〈長い、長い道を登ってきた気がする。暗くて、細くて、ずっと上へ続いている道だ。……途中で、何か冷たいものに触れた。そこから先は、霞がかかったように、何も見えぬ〉
上へ続く、長い道。冷たいもの。
何のことなのか、俺にはまるでわからなかった。わからないまま、ルルの言葉を一つずつ、頭の中の白いページに書き留めていった。辞書の余白にメモを書き込むみたいに。いつか、意味がわかる日のために。
ルルの震えが、少し強くなった。
〈でも、思い出せぬ〉
声が、ぐしゃりと崩れた。
〈何を運んでいたのか。誰に届けるはずだったのか。「あの子」とは誰なのか。あの声の主は、誰なのか。……何一つ、思い出せぬのだ〉
黒い目から、ぽろりと、小さな涙の粒がこぼれた。毛の上を転がって、俺の手のひらに落ちる。温かかった。
〈我は、大切なものを、どこかに落としてきてしまったのかもしれぬ。届けなければならぬものを、届けずに。……我は、偉大なるルル=ア=ネイアなのに〉
偉大な、と言いながら、ルルは手のひらの上で、ただの小さな毛玉みたいに震えていた。
俺は、ルルを両手で包んだ。
ゆっくりと、撫でる。頭のてっぺんから、背中まで。何度も、何度も。
「……急がなくていい」
ルルが、目を上げた。
「思い出せないなら、今は思い出せなくていい。無理に引っ張り出そうとしたら、たぶん、もっと痛くなる」
〈だが……〉
「思い出したくなったら、そのとき話してくれればいい。少しずつでいい。途中まででもいい。……俺、ちゃんと聞くから」
ルルは、しばらく黙って俺を見ていた。
それから、ふっと、小さく息を吐いた。
〈……湊は〉
ルルの声が、少しだけいつもの調子に戻った。
〈湊は、いつも、我の話を最後まで聞くな〉
「そうか?」
〈そうだ。我が何を言っても、途中で遮らぬ。どら焼きを五つ寄こせと言ったときも、最後まで聞いてから断った〉
「断ったのは覚えてるんだな」
〈当然だ〉
思わず、笑ってしまった。ルルも、小さく、きゅ、と鳴いた。たぶん、笑ったんだと思う。
しばらく、二人で――一人と一匹で、窓の外の月を見ていた。
頭の中で、今夜聞いた言葉が、ぐるぐると回っていた。
門を閉じよ。
この子を、あの子のところへ。届けて。
しじまが、来る前に。
どれも、誰かが最後に残した言葉みたいだった。誰に向けたものなのかもわからないまま、言葉だけがここにある。訳されて、運ばれて、途中で何かを落としながら。
その三つが、どこかで繋がっているような気がした。
気がしただけだ。根拠は何もない。でも、胸の奥で、何かがざわざわと落ち着かなかった。白鹿の森が灰色にくすんでいくのを見ていたときと、少しだけ似たざわめきだった。
「……真白?」
階段の上から、声がした。
見上げると、鷹宮が立っていた。ジャージ姿で、髪をほどいている。ポニーテールじゃない鷹宮を見るのは、初めてだった。
「眠れなくて。……あなたも?」
「まあな」
鷹宮は、俺の膝の上のルルに目を留めた。それから、眉を寄せた。
「……ルル、元気がない」
「ちょっと、怖い夢を見たらしい」
まるきり嘘でもない、と自分に言い訳した。
鷹宮は、俺の隣の段に、少し間を空けて腰を下ろした。それから、遠慮がちに手を伸ばして、ルルの背中に指先を触れさせた。
ルルが、ぴくりと身じろぎした。
〈……剣の娘の手は〉
ルルが、ぽつりと言った。
〈前より、ずっと温かいな〉
俺は、それを訳さなかった。訳さなくても、鷹宮の指先に身体を預けて目を閉じたルルを見れば、たぶん伝わっていた。
鷹宮は何も言わずに、ずっとルルを撫でていた。その横顔は、四月に初めて見たときの、凍ったような顔とは、まるで違っていた。
「……真白」
しばらくして、鷹宮が、ルルを見たまま言った。
「昨日、あなたが迷宮の言葉で、私の名前を呼んだとき」
「ああ」
「翼が、あったかかった。氷なのに。……あんなの、初めてだった」
鷹宮は、自分の指先を見つめていた。ルルの毛に埋もれた、白くて細い指。
「また、やって」
「……鼻血が出ないならな」
「出ても、やって」
「ひどいな」
鷹宮は、ほんの少しだけ、口元をゆるめた。ほとんど笑ったと言っていいくらいに。
月が、ゆっくりと窓の端へ動いていった。
◇ ◇ ◇
いつの間にか、階段の上で眠っていたらしい。
目を覚ますと、窓の外が白み始めていた。山の稜線が、薄い金色に縁取られている。膝の上では、ルルが丸くなって、すうすうと寝息を立てていた。鷹宮の姿は、もうなかった。俺の肩に、研修所の薄い毛布が一枚、掛けられていた。
蝉が、一匹、鳴き始めた。
合宿最終日の朝が、来ていた。




