第58話 最後の言葉は「門を閉じよ」
「……知りたいです」
自分の声が、風に流されて、少し遠く聞こえた。
灰原先生は、すぐには答えなかった。手すりにもたれたまま、星を見ている。キャンディの棒が、口の端でゆっくりと上下していた。
「聞いたら、たぶん、もう戻れねえぞ」
「戻るって、どこにですか」
「何も知らねえで、普通に迷宮に潜って、普通に卒業して、普通に生きてく道にだ」
先生の声は、いつもより低かった。
「お前の母さんの話は、そういう話だ。俺は八年、それを抱えてきた。……正直、ガキに背負わせるもんじゃねえと思ってる」
俺は、手すりを握った。夜風で冷えた金属が、手のひらに食い込む。
「それでも、知りたいです」
四月から、ずっとそうだった。
聞こえるものを、聞こえないふりはできなかった。スライムの声も、ルルのすすり泣きも、ノイズの奥の「さむい」も。聞こえてしまったものは、もう、なかったことにはできない。
母さんの言葉なら、なおさらだ。
先生は、長く息を吐いた。白くはならなかった。それでも、ため息が形になって見えた気がした。
「……詩織さんの最後の言葉は、記録に残ってる」
先生が、俺のほうを向いた。
「隊長が持ち帰った記録端末に、音声でな。第百層で、お前の母さんが最後に話した言葉だ。迷宮語で録音されてた」
迷宮語。
母さんは、最後に、迷宮の言葉で話した。
「それを、迷宮庁の翻訳装置が訳した。その文が――」
先生は、少しだけ言葉を切った。
「――『門を閉じよ』だ」
門を、閉じよ。
その言葉が、頭の中に落ちてきた。重い石みたいに。ずしん、と。
「門……?」
「何の門なのかは、知らねえ。第百層で何を見つけたのかも、俺は知らねえ。報告書は黒塗りだらけだ。全部知ってるのは、隊長だけだ」
先生は、自嘲するみたいに口の端を上げた。
「迷宮庁じゃ、それが真白詩織の遺言ってことになってる。隊長も、そう信じてる。……あの人が最後に、迷宮を閉じろと言い残した、ってな」
閉じよ。
母さんが、そう言った。迷宮を、閉じろと。
「……先生は、信じてるんですか。それが、母さんの言葉だって」
先生は、すぐには答えなかった。
「……わからねえ」
しばらくして、絞り出すような声が返ってきた。
「あの人は、住人のガキに文字を教わって、泣いて喜んでた人だ。迷宮の壁に耳を当てて、何時間でも聞いてた人だ。……その人が最後に、閉じろ、って言ったのか。俺には、どうしても、うまく飲み込めねえ」
先生は、キャンディの棒を指で折れそうなほど強くつまんでいた。
「でも、記録にはそう残ってる。俺は、その場にいなかった。だから、わからねえ。わからねえから、八年も抱えてんだ」
――本当に?
その問いは、先生だけのものじゃなかった。
背筋に、冷たいものが走った。夜風のせいじゃなかった。
「先生。その翻訳装置って、どういう機械なんですか」
「あ?」
「迷宮語を、どうやって日本語にしてるんですか」
先生は、少し考えるように眉を寄せた。
「詳しいことは知らねえよ。迷宮石を使った機械だ。……ステータス窓の翻訳の仕組みを、そのまま借りてるって話だったな。窓は、迷宮の文字をそれぞれの国の言葉で表示するだろ。あれを真似て作ったんだと」
頭の中で、何かがかちりと噛み合った。
ステータス窓の、翻訳の仕組み。
【大食い】は、【蓄積】だった。
【臆病】は、【先触れ】だった。
【無口】は、【静謐の歌】だった。
【剣聖】の説明文は、「単独行動時、全能力が上昇する」だった。本当は、「独りのとき、剣は心を削る」だった。
窓の訳は、間違っている。四月から、俺はそれを何度も見てきた。いい意味に聞こえる誤訳も、ひどい意味に聞こえる誤訳もあった。でも、どれ一つとして、本当の名前と同じじゃなかった。
その仕組みを、そのまま借りた機械が。
母さんの最後の言葉を、訳した。
「……先生」
声が、かすれた。
「それ、誤訳かもしれない」
先生は、何も言わなかった。
「窓の訳は、全部間違ってるんです。俺が読めた名前は、全部、表示と違ってた。翻訳装置が窓と同じ仕組みなら、同じ間違い方をするかもしれない。母さんの言葉も――」
言いながら、自分の手が震えているのに気づいた。
もし、そうだったら。
母さんが本当に言ったことは、まったく別のことだったかもしれない。八年間、誰もそれを知らないまま、「門を閉じよ」という言葉だけが、母さんの遺言として残ってきたのかもしれない。
「……お前なら、そう言うと思った」
先生が、ぽつりと言った。
「俺には、確かめようがねえ。迷宮語は、りぃんとしか聞こえねえからな。……でも、お前は違う」
「その録音、聞けませんか」
身を乗り出していた。
「俺が聞けば、わかるかもしれない。母さんが、本当は何て言ったのか」
先生は、ゆっくりと首を振った。
「迷宮庁の最高機密だ。長官しか聞けねえ」
「……長官、だけ」
「俺だって、一度も聞いたことはねえよ。報告書に、訳した文が一行、書いてあっただけだ」
長官。御堂玄十郎。御堂の父親。母さんと一緒に第百層まで行って、一人だけ帰ってきた人。
その人だけが、母さんの最後の声を聞ける。
今朝、洗面所で、ぶっきらぼうに「真白」と言った御堂の横顔が浮かんだ。昨日、根の窪みの前で、親父は俺が勇者だから俺を見てるんだ、と言った声も。
あいつの父親が、母さんの最後の声を持っている。
そのことを、どう受け止めればいいのか、わからなかった。怒ればいいのか。悲しめばいいのか。それとも、ただ、知らなかったことに驚けばいいのか。どれも少しずつ違う気がして、胸の中で言葉が渋滞していた。
俺は、母さんの声を思い出そうとした。
よく笑う人だった。本を読む声が、きれいだった。寝る前に、布団の横で、いろんな国の絵本を読んでくれた。英語も、中国語も、どこの言葉かわからない言葉も。俺が「それ、なんて意味?」と聞くと、母さんは嬉しそうに、ゆっくり訳してくれた。
――言葉はね、湊。ちゃんと最後まで聞かないと、わからないのよ。
そう言っていた気がする。八年前の声だ。もう、細かいところまでは思い出せない。
その声が、最後に何かを言った。
訳された言葉じゃなくて、母さんの声で、それを聞きたかった。
「……今日は、もう寝ろ」
先生が、手すりから身体を起こした。
「頭、まだ痛えんだろ。顔に書いてある」
「……はい」
「それと」
先生は、ポケットをごそごそと探って、キャンディを一本差し出してきた。
「食うか」
受け取って、包みを剥がす。口に入れた瞬間、すうっとした冷たさと、強烈な酸っぱさが同時に来た。
「……なんですか、これ」
「ハッカ梅。うまいだろ」
「……微妙です」
「贅沢言うな。禁煙中の大人の命綱だぞ」
先生は、少しだけ笑った。それから、右足を引きずって、屋上の扉へ歩いていった。
扉の前で、一度だけ立ち止まる。
「真白。今の話は、まだ誰にもするな。……少なくとも、ここではな」
振り返らずにそう言って、先生は階段を降りていった。
一人になった屋上で、俺はハッカ梅のキャンディを舐めながら、星を見上げた。
門を閉じよ。
口の中の酸っぱさが、なかなか消えなかった。
◇ ◇ ◇
部屋に戻ると、大部屋の明かりはもう消えていた。
大河のいびきが、地鳴りみたいに響いている。森田は、なぜか自分の布団ではなく、押し入れの中で寝ていた。早乙女は、布団を三枚重ねた上で丸くなっていた。いつもの五組の夜だった。
自分の布団に潜り込もうとして、手が止まった。
枕元に、白い毛玉がいた。
ルルだった。
でも、いつもの丸い形じゃなかった。ぎゅっと縮こまって、小さな足を身体の中に引っ込めている。白い毛が、細かく、細かく震えていた。
「……ルル?」
小声で呼んだ。
ルルは、顔を上げなかった。
暗がりの中で、黒いつぶらな目だけが、ぼんやりと濡れて光っていた。




