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第57話 灰原先生の昔話

 歯ブラシをくわえたまま、鏡の中の自分と目が合った。


 ひどい顔だった。目の下には、くっきりと隈ができている。鼻の下には、拭き残した血の跡が、うっすらと茶色く残っていた。


 合宿三日目の朝。研修所の洗面所には、まだ眠そうな一年生たちが並んでいた。隣では大河が、歯ブラシを口に突っ込んだまま半分寝ている。


「……ふぁ。湊、今日、迷宮入んねえんだよな」


「らしいな。迷宮庁の調査が入るって」


「じゃあ、一日中食って寝てられんのか……天国だな……」


「講義はあるぞ」


「地獄だな……」


 そのとき、洗面所の入口で、こつ、こつ、と硬い音がした。


 振り返ると、御堂が立っていた。脇の下に、研修所の救護室で借りたらしい松葉杖を挟んでいる。左の足首には、昨日ひよりが巻いた包帯の上から、新しい包帯がぐるぐると巻き直されていた。


 御堂は、俺の隣の流しまで来て、蛇口をひねった。


 しばらく、水の音だけがしていた。


 御堂は顔を洗って、タオルで拭いて、それから鏡越しに、俺を見た。


「……おい」


「なんだ」


「真白」


 歯ブラシが、口から落ちそうになった。


 御堂は、それ以上、何も言わなかった。言いかけた言葉を飲み込むみたいに唇を引き結んで、鏡から目を逸らした。


「……昨日の礼は、言わねえからな」


 それだけ言うと、松葉杖を鳴らして、洗面所を出ていこうとした。


「――今、真白って言ったよな!?」


 大河が、歯磨き粉の泡を飛ばしながら叫んだ。完全に目が覚めたらしい。


「言ってねえ」


「言った! オレ聞いたぞ! 翻訳野郎じゃなくて、真白って!」


「うるせえ、犬飼。耳がおかしいんじゃねえのか」


「おかしくねえよ! オレの耳は正常だ! なあ湊!」


 御堂は振り返りもせずに、こつこつと廊下へ消えていった。耳の先が、少しだけ赤かった気がする。


 俺の頭の上で、ルルがフードから身を乗り出していた。


〈……湊。金色のが、お前の名を呼んだぞ〉


「……ああ」


〈ふん。ようやく礼儀というものを覚えたか〉


 昨日の夜から黙りこんでいたルルが、久しぶりに口をきいた。それが少しだけ嬉しくて、俺は歯ブラシをくわえ直した。


 真白、か。


 四月から、ずっと「外れ」だった。「翻訳野郎」だった。


 ……まあ、いいけど。




◇ ◇ ◇




 三日目は、迷宮に入らない一日になった。


 朝から迷宮庁の職員が何人もやってきて、奥多摩迷宮の入口を封鎖していた。生徒たちは研修所の講義室で、探索理論の講義を受けたり、班ごとに事情を聞かれたりした。


 俺たちルビは、昼過ぎに、一人ずつ小さな会議室へ呼ばれた。


 俺の番のとき、部屋にいたのは黒崎だけだった。


 机を挟んで、向かい合う。黒崎は手元の書類に目を落としたまま、しばらく何も言わなかった。


「……包囲を、どう抜けた」


 来た、と思った。


「運がよかったんです。影が、急に止まったので」


 嘘じゃない。全部本当でもないけれど。


 黒崎は、顔を上げなかった。書類に何かを書き込んでいる。


「そうか」


 それだけだった。拍子抜けするほど、あっさりしていた。


 立ち上がって、部屋を出ようとしたとき、背中に声がかかった。


「白鹿は」


 振り返る。黒崎は、まだ書類を見ていた。


「最後に、何か言ったか」


 息をのんだ。


 影の声は、普通の人間にはりぃんとしか聞こえない。黙者には、そもそも声がない。それなのに、この人は、白鹿が「何か言った」かどうかを聞いている。


 少し迷って、答えた。


「……ありがとう、って」


 黒崎のペンが、止まった。


 長い間があった。


「……そうか」


 黒崎は、それ以上何も聞かなかった。俺も、何も言わずに部屋を出た。


 扉を閉める直前、ちらりと振り返ると、黒崎は書類から顔を上げて、窓の外を見ていた。迷宮の入口のある、崖のほうを。




 夕方、研修所のラウンジに戻ると、水無瀬がソファの隅でスケッチブックを広げていた。


 のぞき込むと、白鹿の絵だった。


 白黒のノイズの姿じゃない。最後に見た、雪のように白い姿。銀色の角。黒くて、深くて、静かな目。鉛筆だけで描かれているのに、ちゃんと白く見えた。


 絵の隅に、小さな字で書いてあった。


『わすれないように』


 俺は何も言えずに、隣に座った。水無瀬は、鉛筆を動かしながら、少しだけ肩を寄せてきた。


 ひよりは、向かいのソファで大河と並んで、おやつのせんべいを分け合っていた。というか、大河がほとんど食べていた。鷹宮は窓際で、膝の上のルルを無言で撫で続けていた。ルルは、されるがままになっていた。いつもなら〈無礼な〉くらいは言うのに。




 最後の夜の夕食は、研修所の庭でのバーベキューだった。


 昨日のことがあったせいか、一年生たちは最初こそ静かだったけれど、肉が焼ける匂いが漂ってくると、だんだんいつもの調子に戻っていった。佐伯がしゃべり、野々村が泣き、森田が網の場所を見失って隣のクラスのテーブルにいた。


 大河は肉を十五皿食べて、焼き係の先生に「頼むから野菜も食え」と懇願されていた。


 皿を片づけていると、灰原先生が通りがかりに、俺の肩を軽く叩いた。


「真白。あとで、屋上来い」


 それだけ言って、先生はキャンディをくわえ直し、行ってしまった。




◇ ◇ ◇




 研修所の屋上は、風が強かった。


 山の夜風が、汗ばんだ首筋をひやりと撫でていく。見上げると、一日目の夜と同じ、とんでもない数の星があった。


 灰原先生は、屋上の手すりにもたれて、星を見ていた。俺が来たのに気づいても、振り返らなかった。


「……昨日のあれ」


 先生が、星を見たまま言った。


「影に、命令したろ」


 ごまかしても、無駄だと思った。


「……はい。迷宮の言葉を、こっちから言ってみたら、できました」


「そうか」


 先生は、キャンディの棒をくるりと回した。


「……あの人と、同じだな」


 あの人。


 先生がそう呼ぶ人は、一人しかいない。


「真白。八年前のこと、どこまで知ってる」


「……母さんが、東京大穴の調査に行って、帰ってこなかったこと。公式には、殉職ってことになってること。それくらいです」


「第七次深層調査隊、って名前は」


「聞いたことは、あります。詳しいことは、どこにも載ってないけど」


 先生は、しばらく黙っていた。風が、先生のよれたスーツの裾をはためかせる。


「隊員は、六人だった」


 ぽつりと、先生が言った。


「目標は、東京大穴の第百層。それまで誰も行ったことのねえ場所だ。隊長は――御堂玄十郎」


 頭の中が、一瞬、真っ白になった。


「御堂、って……」


「迷宮庁の長官だ。今朝、犬飼が研修所じゅうに言いふらしてたろ。御堂が真白って呼んだって。……その御堂の、親父だよ」


 御堂の父親が。


 母さんと、一緒に。


「隊員の一人が、言語研究官の真白詩織。お前の母さんだ。……それから、もう一人」


 先生は、手すりに置いた自分の右手を見下ろした。


「A級探索者、灰原透。俺だ」


 風の音だけが、しばらく聞こえていた。


 知っていた、と言えば嘘になる。でも、どこかで、そうなんじゃないかと思っていた。四月から、先生はずっと、母さんのことを知っていた。母さんの言葉を覚えていた。俺の避け方を、最初から最後まで見ていた。


「……先生も、行ったんですか。第百層まで」


「行ってねえ」


 先生は、自分の右足を、軽く叩いた。


「第六十層で、こいつをやられた。俺はそこで降りた。……そういうことに、なってる」


 なってる。


 その言い方が、少しだけ引っかかった。でも、先生の横顔を見たら、聞き返せなかった。


「その先は、記録でしか知らねえ。母さんと隊長は、第百層まで行った。残りの三人は、途中で帰ってこなかった。……戻ってきたのは、隊長一人だけだ」


 母さんは、第百層まで行った。


 そして、帰ってこなかった。


「お前の母さんはな」


 先生が、ようやく、こっちを向いた。


 だるそうな目じゃなかった。遠いものを、見ている目だった。


「迷宮の声が聞ける人だった。……今のお前みたいに」


 胸の奥が、ぎゅっとなった。


「影の命令文を聞いて、くすくす笑ってたよ。『この子、さっきから右、右って、そればっかり』ってな。壁の文字を読んでは、勝手に感動して泣いてた。住人と話すときは、いつも膝をついて、相手と目の高さを合わせてた」


 十二層の洞穴で、ピノの前に膝をついた自分を思い出した。


 同じだった。俺は、知らないうちに、母さんと同じことをしていた。


「お前が影を止めたのを見て、心臓が止まるかと思った。……あの人が、そこにいるのかと思った」


 先生は、また星のほうを向いた。


 それから、少しだけ間を置いて、低い声で言った。


「――最後の言葉、知りたいか」


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