第6話 文字が、ほどける
『大河へ 今日も残さず食べること! 母より』
弁当箱のふたの裏に、マジックでそう書いてあった。
「いや、残すわけねえだろ」
大河はふたに向かって真顔でつっこんでから、一つ目の弁当に箸を突き立てた。
月曜の昼休み。俺たちは中庭の隅のベンチにいた。教室だと、大河の弁当の量に毎回どよめきが起きるので、落ち着いて食べられないのだそうだ。本人は「慣れてっけどな」と笑っていたけれど。
ベンチの上には、弁当箱が三つ。購買の袋の中には、焼きそばパンとメロンパン。
俺の昼飯は、メロンパン一個だ。
〈湊。あの丸くて黄色いのは、甘いのか〉
パーカーのフードの中から、ひそひそ声がした。
「……あとでな」
小声で返す。ルルは結局、本当に学校までついてきた。授業中はフードの底で寝ていて、チャイムが鳴るたびに〈む、なんだこの音は〉と目を覚ます。今のところ、誰にもばれていない。たぶん。
たぶん、というのは、一時間目のことがあるからだ。
数学の先生が黒板に二次方程式を書き始めたとき、ルルがフードの中で目を覚ました。
〈なんだ、あの白い棒で書かれている呪文は。湊、あれは何の儀式だ〉
ごほん、と咳払いでごまかす。
〈湊。おい湊。答えよ〉
ごほん、ごほん。
前の席の男子が「真白、風邪?」と振り返った。「花粉」と答えた。それで終わるはずだった。
ふと、背中に視線を感じた。
振り返ると、後ろの席の水無瀬が、こっちを見ていた。正確には、俺の首の後ろ――フードのあたりを。
長い前髪の隙間から、目が合う。水無瀬はぱっとうつむいて、スケッチブックに何かを描き始めた。
……見られた、だろうか。
フードの中で、ルルが〈なんだ?〉ともぞもぞ動いた。頼むから、じっとしていてくれ。
「湊、今なんか言ったか?」
「独り言」
「お前、独り言多いよな」
大河は一つ目の弁当を、もう空にしていた。早い。三口目くらいで半分なくなるのは、何度見ても手品みたいだ。
「……それ、毎日なのか」
「おう。朝もどんぶり三杯食ってきた」
「三杯」
「で、四時間目には腹が鳴る」
二つ目のふたを開けると、茶色い山が現れた。からあげだ。ぎっしり、十個はある。
「一個食うか? うちの店の味だぜ」
「……いいのか」
「いいって。メロンパンだけじゃ、午後もたねえだろ」
一つもらう。冷めているのに、衣がまだかりっとしていて、噛むと生姜の香りがした。
「……うまい」
「だろ!」
〈湊。我にも寄越せ〉
フードの中から催促が来た。からあげを少しちぎって、首の後ろにそっと差し入れる。もぐもぐという振動のあと、〈む……悪くない。だが、甘くない〉と不満げな感想が聞こえた。贅沢な毛玉だ。
大河は笑いながら、からあげを三つまとめて口に放りこんだ。
「うち、定食屋だろ? 親父が言うんだよ。『お前が食う分で、店の利益が半分飛んでる』ってさ。笑いながら言うんだけど、あれ、たぶん半分は本気だぜ」
「……そうか」
「母ちゃんなんか、毎朝四時に起きて、この弁当三つ作ってくれてんだ。店の仕込みもあんのにさ」
大河の箸が、少しだけ遅くなった。
「中学んときは、ブラックホールとか、残飯処理係とか、いろいろ呼ばれたなあ。給食のおかわり、全部オレが持ってくから。で、天啓の儀で【大食い】だろ? みんな大爆笑。オレも笑ったけどな」
そう言って、大河はまた笑った。
でも、その笑い方は、自己紹介のときとは少し違って見えた。
「親にはさ、ちょっと申し訳ねえなって思ってる。せめて当たりスキルなら、食った分くらい稼げたかもしんねえのに」
大河は三つ目の弁当を膝にのせたまま、ひょいと片手を上げた。
「ま、笑ってくれていいぜ。ほら」
大河の目の前に、半透明の窓が浮かんだ。開示している。
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名前:犬飼 大河
スキル:【大食い】
説明:食事量が増加する。
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「な? 食事量が増加する。増加してどうすんだよって話だろ」
大河は、がははと笑った。
俺は、笑わなかった。
「……笑わないのかよ」
「笑うところじゃないだろ」
「いや、笑うとこだって。ここは」
大河は困ったように頭をかいた。笑ってもらえないほうが、居心地が悪いらしい。そういう生き方を、ずっとしてきたんだろう。
だから、笑わなかった。
――窓の文字は、本当の言葉を、無理やりお前たちの言葉に押し込めたものだ。
土曜日の、ルルの言葉がよみがえる。
実は、昨日の夜、自分の窓で試してみたのだ。じっとにらめば、何か見えるんじゃないかと思って。でも、俺の窓の文字はびくともしなかった。それどころか、端のほうがざらざらして、目の奥が痛くなっただけだった。
自分の窓は、だめだった。でも、他人の窓なら?
「湊?」
「……ちょっと、そのまま開いてて」
俺は、大河の窓を見つめた。
【大食い】。食事量が増加する。
何の変哲もない、日本語の文字だ。教科書と同じ、明朝体みたいな形。見慣れた字。
見つめる。もっと、奥を。文字の、その向こうを。
――ぴし、と。
小さな音が、頭の中でした。
【大食い】の「大」の字の、最後のはらいが、ふるりと震えた。
震えは、すぐに隣の字に伝わった。「食」。「い」。説明文の一文字ずつ。まるで、編み物の毛糸の端を誰かが引っぱったみたいに、文字の線がするするとほどけていく。
ほどけた線は、宙で細い蔓になった。蔓は伸びて、枝分かれして、互いに絡み合っていく。くるりと巻いて、結び目を作って、また伸びて。
見覚えのある形だった。
天啓の日の夜、俺の窓の端で一瞬だけ揺れたもの。水無瀬のスケッチブックの、最後のページの模様。
あれと同じ、蔓の文字。
「――っ」
頭が痛い。
目の奥に釘を打ちこまれたみたいな痛みだった。視界の端がちかちかする。でも、目を逸らしたら、ほどけかけた文字がまた元に戻ってしまう気がした。
絡み合った蔓が、ゆっくりと組み直っていく。並んでいく。文の形になっていく。
そして――意味が、染みこんできた。
紙に落としたインクが、じわりと広がるみたいに。見たこともない文字なのに、何が書いてあるのか、わかる。
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名前:犬飼 大河
スキル:【蓄積】
説明:取り込んだものを力として蓄え、望むときに解き放つ。
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……ちくせき。
蓄積。
取り込んだものを、力として、蓄え。望むときに、解き放つ。
「おい、湊!」
肩を揺さぶられて、我に返った。
大河の窓は、元の文字に戻っていた。【大食い】。食事量が増加する。蔓の文字なんて、どこにもない。
大河の顔が、すぐ目の前にあった。三つ目の弁当が、ベンチの上でひっくり返りかけている。
「大丈夫か!? お前、顔、真っ白だぞ!」
「……名字が真白だからな」
「冗談言ってる場合か!」
頭が、まだずきずきする。こめかみを押さえると、指先が冷や汗で濡れていた。
〈湊……お前、今、何をした……?〉
フードの中で、ルルが震える声で言った。
〈窓の文字が、ほどけて……今のは、本当の――〉
ルルはそこで言葉を切った。自分でも、続きがわからないみたいだった。
俺は、もう一度大河の窓を見た。
食事量が増加する。
さっき読んだ文と、並べてみる。
食べる量が増える。取り込んだものを、蓄える。
……似ている。似ているけれど、全然違う。
食べる量が増えるのは、取り込んだものを蓄えているからだ。そう考えれば、筋は通る。でも、窓の説明には、いちばん大事なところが抜け落ちている。
蓄えたものを、どうするのか。
――望むときに、解き放つ。
大河は、ただ大食いなわけじゃない。食べたものを、どこかに溜めこんでいるんだ。そして、それを、取り出せる。
もし、それが本当なら。
「なあ、本当に大丈夫か? 保健室行くか?」
「大丈夫」
言うべきか、迷った。
ただの見間違いかもしれない。頭痛のせいで、変な夢を見ただけかもしれない。期待させて、違ったら。そのとき大河は、また「笑ってくれていいぜ」と笑うんだろうか。
でも、確かに読んだのだ。ほどけた文字の向こうに、もう一つの文があった。それを黙っているのは、なんだか、ずるい気がした。
「……大河」
俺は、大河の顔を見た。
中学でブラックホールと呼ばれて、天啓の儀で笑われて、それでも自分から笑ってみせた奴。毎朝四時に起きる母親に、申し訳ないと思っている奴。
「お前のスキル、たぶん――【大食い】じゃない」




