第5話 我が名はルル=ア=ネイア
〈我が名は、ルル=ア=ネイア〉
机の上で、毛玉が胸を張った。どこが胸なのかは、よくわからないけれど。
真白堂の二階、俺の部屋。窓の外では、すずらん通りの街灯がぽつぽつと灯り始めている。
〈偉大なる……偉大なる……〉
「偉大なる?」
〈…………〉
「……偉大なる、何だよ」
〈忘れた〉
毛玉は、ぺしょりと縮んだ。
学校から家までの三十分、こいつは一度も崩れなかった。それどころか、電車の窓から見える景色にいちいち〈おお〉とか〈なんだあれは〉とか感動していて、俺はずっと咳払いでごまかしていた。まわりの乗客には「きゅい」としか聞こえていなかったはずだけど、それはそれで怪しい。
「名前以外は? どこから来たとか」
〈気がついたら、あの暗い岩の陰にいた。その前のことは……霧がかかったようで、思い出せぬ〉
「全然?」
〈ただ……上へ行かねばならぬ、と。それだけは、ずっとこのあたりにあった〉
毛玉は小さな足で、自分の体の真ん中あたりをとんとんと叩いた。
〈何のためだったかは、わからぬ。だが、大事なことだった気がするのだ〉
記憶喪失の毛玉。しかも、上へ行かなきゃいけない理由だけを忘れている。
「お前、何なんだ? 魔物じゃないなら」
〈我を誰と心得る〉
「だから、誰なんだよ」
〈……それを今、思い出そうとしておるのだ〉
話が一周した。
「とりあえず、名前が長い。ルルでいいか」
〈略すな! ……いや、まあ、よい。特別に許す〉
許されたらしい。
「湊、ご飯だよ。……おや」
ふすまが開いて、ばあちゃんが顔を出した。
しまった。隠す暇もなかった。机の上で胸を張ったままの白い毛玉と、ばあちゃんの目が合う。
〈なんだ、この背筋のまっすぐな人間は〉
「……きゅい?」
ばあちゃんが首をかしげた。やっぱり、ばあちゃんにもそう聞こえるのか。
「えっと、ばあちゃん、これは……」
「迷宮で拾ってきたのかい」
「……なんでわかるの」
「こんな生き物、ペットショップにはいないだろう」
ごもっともだった。
俺は観念して、全部話した。一層の隅で泣いていたこと。外に出たがっていたこと。地上に出ても崩れなかったこと。それから、迷宮生物の持ち出しは校則違反だということも。
ばあちゃんは黙って聞いていた。それから、しゃがみこんで、毛玉に顔を近づけた。
「拾っちまったもんは、しょうがないね。……ちゃんと面倒みな」
「いいの?」
「いいも悪いも、もう連れてきちまったんだろう。それに――」
ばあちゃんの細い指が、毛玉の頭をそっと撫でた。毛玉は一瞬びくっとして、それから、まんざらでもなさそうに目を細めた。
「可愛いじゃないか」
……そこなのか。
「名前は?」
「ルル、らしい」
「らしい?」
「本人がそう……いや、なんとなく、そんな顔してるから」
「ふうん。あたしには、きゅいきゅい言ってるようにしか聞こえないけどねえ。じゃあ、きゅいちゃんだね」
「いや、ルルだって」
「きゅいちゃん」
〈我はルルだ!〉
精いっぱいの抗議は、ばあちゃんの耳には、きゅいー、としか届かなかったらしい。
「ほら、返事した」
ばあちゃんは満足げにうなずいた。ルルはわなわなと震えていたが、ばあちゃんに顎の下を撫でられると、すぐに丸くなった。チョロい。
部屋を出ていく前に、ばあちゃんはもう一度だけ振り返って、ルルを見た。
「……なんだか、懐かしい感じのする子だねえ」
「懐かしい?」
「さあね。年寄りの気のせいだよ」
◇ ◇ ◇
翌朝は土曜日で、俺は店番をしていた。
真白堂の休日は静かだ。客は午前中に二人。一人は文庫本を一冊買い、もう一人は立ち読みだけして帰った。帳場の奥の座布団の上では、ルルが日なたぼっこをしている。
〈人間の住処は、ずいぶん紙くさいのだな〉
「古本屋だからな」
〈ふむ。……嫌いではない〉
「月曜から、また学校だからな。お前は留守番」
〈いやだ〉
即答だった。
「いやだって言われても。学校に連れていけるわけないだろ」
〈いやだ。……あの暗いところで、ずっと一人だったのだ〉
ルルの声が、急に小さくなった。
〈もう、一人で待つのは、いやだ〉
そう言われると、弱い。昨日の広間の隅で聞いた、あの泣き声を思い出してしまう。
「……フードの中から、絶対に顔出すなよ」
〈ふん。我を誰と心得る。隠れるのは得意だ〉
なんの自慢にもならないし、そもそもお前が誰なのか、お前がいちばんわかってないだろ。
そこへ、ばあちゃんが買い物から帰ってきた。手に、白い紙袋を提げている。
ルルが、がばっと起き上がった。
〈な、なんだ、この匂いは〉
「たちばなのどら焼きだよ。お茶にしようかね」
近所の和菓子屋「たちばな」のどら焼きは、すずらん通りの名物だ。ふっくら焼いた皮に、甘さ控えめのつぶあんがぎっしり詰まっている。
ばあちゃんが一つを半分に割って、ルルの前に置いた。
ルルは、しばらく固まっていた。それから、小さな体ごと、どら焼きに飛びこんだ。
〈――――っ!〉
声にならない声がした。
〈甘い……! ふかふかの……茶色い……中に、黒くて甘いものが……! なんだこれは、この世の宝か!〉
帳場に、きゅいいいい、という歓声が響きわたった。
「あらま。いい食べっぷりだねえ」
ルルは半分のどら焼きを、あっという間に平らげた。自分の体より大きかったはずなのに。食べ終わったルルは、ひと回り丸くなっていた。
「お前、体積どうなってんだ」
〈もう半分を所望する〉
「聞けよ」
結局、ルルは一個まるごと食べた。ばあちゃんは「たちばなの奥さんに自慢しなきゃね」と笑っていた。どら焼きを気に入った毛玉の話を、どう自慢するつもりなんだろう。
昼過ぎ、店番を交代して部屋に戻ると、ルルが机の上から俺を見上げてきた。
〈湊。お前は、なぜ我の言葉がわかるのだ〉
「たぶん、スキルのせいだと思う」
〈すきる?〉
俺は説明した。十五歳になると、迷宮石に触れて、一つだけ力を授かること。それをスキルと呼ぶこと。ステータスと念じると、名前とスキル名と説明文が書かれた窓が出ること。
「見るか?」
開示と念じると、半透明の窓が濃くなる。
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名前:真白 湊
スキル:【翻訳】
説明:日常会話の翻訳を補助する。
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ルルは窓の前までぴょんと跳ねて、黒い目を細めた。じっと、窓をのぞき込む。
しばらくして、ルルの毛が、ぞわりと逆立った。
〈……なんだ、この訳は〉
「え?」
〈ひどいものだ〉
「……訳?」
ルルは、窓の文字を小さな足でちょいちょいとつついた。もちろん、足は窓をすり抜けてしまう。
〈この窓の文字は、本当の言葉を、無理やりお前たちの言葉に押し込めたものだ。大きな服を、小さな箱に詰めこむようにな〉
それから少し間を置いて、自信なさげに付け足した。
〈……と、思う。よく覚えておらぬ〉
「本当の言葉って、何語だよ」
〈それも、覚えておらぬ。ただ――〉
ルルは、もう一度窓を見つめた。
〈これは、ずれておる。服のボタンを、一つずつ掛け違えたような。そういう気持ちの悪さがあるのだ〉
そう言うと、ルルはふわあ、と大きなあくびをした。どら焼きで腹がふくれて、眠くなったらしい。俺の枕の上によじのぼると、すぐにすうすうと寝息を立て始めた。
……言うだけ言って、寝やがった。
俺は窓を開いたまま、しばらく動けなかった。
日常会話の翻訳を、補助する。
ステータス窓は、その人の母語で表示される。日本人なら日本語。アメリカ人なら英語。世界中の誰もが、自分の言葉で、自分のスキルを読める。だから俺の【翻訳】は、何の役にも立たない。そう言われて、講堂で笑われた。
でも、もし。
もし窓の文字そのものが、もともと別の言葉で書かれていて、それを誰かが――何かが、日本語に「訳して」見せているのだとしたら。
本棚の、いちばん手の届きやすい段に目をやる。分厚い英和辞典。国語辞典。ばあちゃんの店から勝手に持ってきた、古い漢和辞典。俺は昔から、辞書を読むのが好きだった。
だから、知っている。
言葉と言葉は、ぴったり重なったりしない。一つの単語に、いくつもの意味がある。訳す人によって、まるで違う文になることもある。
そして、どんなに丁寧に訳しても――訳には、必ず間違いが紛れこむ。
窓の文字を、もう一度見る。
【翻訳】。日常会話の翻訳を補助する。
これが、訳だとしたら。
――誤訳も、あるんじゃないか?




