第4話 迷宮の隅の毛玉
「真白。お前、目はいいほうか」
更衣室を出たところで、呼び止められた。
初めての実習が終わった直後だった。迷宮管理棟の出口の柱に、灰原先生がもたれている。さっき一層の広間で、ずっとこっちを見ていたときと同じ顔だ。
「……普通、だと思いますけど」
「ふうん」
先生はキャンディの棒を口の端で揺らした。それきり、何も言わない。
一秒。二秒。だるそうな目が、俺の顔を眺めている。何かを確かめているような、何かを思い出しているような。
「そうか」
それだけ言って、先生は背を向けた。右足を少し引きずる、いつもの歩き方で、職員室のほうへ去っていく。
……何だったんだ、今の。
聞き返す暇もなかった。
◇ ◇ ◇
二回目の実習は、その二日後の金曜日だった。
「班は前回と同じな。くじ引き直すの、めんどくせえから」
管理棟の前で、灰原先生はあっさり言った。この前のことなんて、すっかり忘れたみたいな顔だ。俺の考えすぎだったのかもしれない。
「よっしゃ、また湊と一緒だ!」
「森田っす。今日も道は聞かないで」
「早乙女でーす。今日は、気が向く予定」
……予定なのか、それ。
今日潜るのも一層だ。ただし前回とは別の区画で、通路が細かく枝分かれしている。
青い苔の明かりの中を少し進んだだけで、あの音が聞こえてきた。
〈侵入者、確認〉
曲がり角の向こうに、青い塊が二つ。
……やっぱり、聞こえる。
二日たっても、耳は元に戻っていなかった。いや、戻るも何も、これが俺のスキルなんだろう。たぶん。
〈対象、四。一体は右へ。一体は左へ〉
「二匹来る。手前のは右、奥のは左から回り込んでくる」
「マジか!」
言い終わる前に、スライムが動いた。手前の一匹が壁ぎわを這って右へ。奥の一匹が左へ。
「うおっ、ほんとに分かれた!」
〈体当たり、正面〉
「大河、右のが正面から来る!」
「おう!」
大河が腰を落として、両腕で顔をかばう。ぼよん、と青い塊が跳ね返った。今日の大河はびくともしない。前回で慣れたらしい。
〈後退〉
「下がるぞ、今だ」
大河の短剣が、下がりかけたスライムの核を突く。ぱちん、と弾けて光の粒。
もう一匹は――
〈跳躍、頭上〉
「次、跳ぶぞ! 上から来る!」
森田が「ひえっ」と頭を抱えてしゃがむ。その真上を、青い塊が放物線を描いて飛び越えていった。……きれいな放物線だな。いや、感心している場合じゃない。
着地したスライムの横で、早乙女がひょいと半歩ずれた。こっちを見もしないで。その直後、体当たりが早乙女のいた場所を素通りしていく。
「……早乙女。今の、わかってて避けたのか?」
「んー? なんか、こっちの気分だった」
気分で避けられるものなのか。
首をかしげている間に、大河が二匹目も片付けていた。
そのあとも、似たような調子が続いた。俺が聞いて、叫ぶ。大河が突く。森田がしゃがむ。早乙女が気の向いたときだけ、ふらっと避ける。
途中で一度、森田が「こっちのほうが近い気がする」と言い出して、全員で行き止まりにぶつかった。
「森田。道は聞かないでって言ってたよな」
「聞かれてはいない。俺が勝手に言った」
「なお悪い」
ところが引き返そうとしたら、行き止まりの脇に細い抜け道があって、そこを抜けると集合場所の広間のすぐ裏に出た。
「……近道だったな」
「だろ?」
「お前、今『だろ』って言える立場か?」
森田は眼鏡を押し上げて、なぜか得意げだった。釈然としない。
結局、俺たちの班はスライムを六匹倒した。怪我人はゼロ。たぶん、今日もクラスでいちばんだ。
でも、誰も気にしていなかった。その日いちばん注目を集めたのは、通路の真ん中で丸くなって眠っていたクラスメイト――花岡だったからだ。
「花岡ー。迷宮で寝るなー」
「……ふぁい……あと五分……」
「五分で服が溶けるぞー」
灰原先生が心底めんどくさそうに揺り起こし、クラス中が笑った。ちなみに、すぐそばにスライムがいたのに、花岡の服は一ミリも溶けていなかった。【寝坊】、恐るべし。
まあ、そのくらいでちょうどいい。目立つのは苦手だ。
「なあ、湊」
広間へ向かう途中、大河が隣に並んできた。
「お前、なんでわかるんだ?」
「何が」
「全部だよ。右とか左とか、跳ぶとか。六匹ぜんぶ当たってたぞ」
「……勘」
「勘で六連続当たるかよ」
「当たる日もある」
大河はじっと俺を見た。それから、「ふーん」とだけ言った。納得した顔じゃなかった。でも、それ以上は聞いてこなかった。
……悪い、と思う。
嘘をつきたいわけじゃない。ただ、自分でもまだ、うまく説明できないのだ。魔物の声が聞こえる、なんて。
広間に集合して、点呼を待っていたときだった。
〈……誰か……〉
俺は顔を上げた。
かすかな音。でも、スライムの声とは違う。あの短くてそっけない命令の響きじゃない。もっと細くて、震えていて、途切れ途切れで。
〈……誰か……我の声を……〉
泣いている。
音なのに、泣いているとわかった。
周りを見回す。大河は森田と、さっきの近道の話で盛り上がっている。早乙女は天井の苔を数えている。誰も、気づいていない。
声は、広間の隅から聞こえていた。壁ぎわに大きな岩がいくつか転がっているあたりだ。
俺は、そっと列を離れた。
岩と壁のすき間は、苔の光も届かず薄暗い。しゃがんでのぞき込むと、白いものがあった。
手のひらに乗るくらいの、まん丸くて、ふわふわの塊。綿か、ほこりの玉みたいだ。でも、それが小さく震えるたびに、あの泣き声が聞こえる。
〈……誰も……聞いてくれぬ……〉
「……毛玉?」
思わず声が出た。
白い塊が、ぴたりと震えるのをやめた。もぞ、と動く。毛の中から、黒くてつぶらな目が二つ現れた。それから、毛の下に、ちょこんと小さな足が。
〈――っ! い、今、我を毛玉と言ったか! 無礼な!〉
「いや、だって、どう見ても――」
〈……待て〉
毛玉がぴょんと跳ねて、俺の目の前に着地した。黒い目が、まん丸に見開かれている。
〈お前……我の言葉が、わかるのか〉
「……わかる、みたいだな」
〈本当に?〉
「本当に」
〈本当の本当に?〉
「しつこいな」
毛玉は、しばらく固まっていた。それから全身の毛が、ぶわっと膨らんだ。
〈わかるのか……! 我の言葉が……!〉
声がまた震えていた。でも、さっきとは違う震え方だった。
〈ずっと、ここにいたのだ。暗くて、寒くて。誰かが通るたびに呼んだ。だが、誰も我の声を聞かなかった〉
スライムとは明らかに違う。こいつは、ちゃんと会話をしている。
何なんだ、こいつ。魔物、なのか?
〈外へ〉
毛玉が、俺の靴に小さな足をかけた。
〈外へ出たいのだ。上へ。……上へ行かねばならぬ気がする。ずっと、そう思っていた〉
「上って、地上か? でもお前、魔物だろ。魔物は地上に出たら、数分で崩れて消えるって」
〈我を魔物などと一緒にするな!〉
毛玉がぷんすかと跳ねる。
〈我は崩れぬ。……たぶん〉
「たぶんかよ」
「あー、点呼すんぞー」
広間の真ん中から、灰原先生の声がした。
迷宮生物の持ち出しは、校則違反だ。入学の日の説明会で、いちばん最初に言われた。そもそも地上に出たら崩れるかもしれないし、崩れなかったとしても、見つかればただじゃ済まない。
置いていくべきだ。頭ではわかっている。
〈……行ってしまうのか〉
毛玉の声が、しぼんだ。
〈また、誰も、聞いてくれなくなるのか〉
――ああ、もう。
「……崩れそうになったら、すぐ戻すからな」
毛玉をすくい上げて、探索服の胸ポケットに押し込む。ふわふわで、思ったより温かかった。
〈む、むぐ。狭いぞ〉
「静かにしてろ。……いや、どうせ誰にも聞こえないのか」
「真白ー?」
「います!」
列に戻ると、大河が首をかしげた。
「どこ行ってたんだ?」
「……靴紐」
また嘘をついた。今日はこれで二回目だ。
階段を一段上るごとに、心臓の音が大きくなった。
地上に出たら、崩れる。教科書にはそう書いてある。魔物は迷宮の外では体を保てない。光の粒になって、ほどけてしまう。
ポケットの上から、そっと手を当てる。ふわふわが、もぞもぞ動いている。
管理棟の出口をくぐる。四月の夕方の光が、目に飛び込んでくる。
一分。まだ、動いている。
〈おお……明るい……これが、上か……〉
ポケットの中で毛玉が感動したように震えた。その瞬間、隣を歩いていた大河が、ぴたりと足を止めた。
「湊。今、なんか鳴かなかったか? きゅいって」
「……腹の音」
「お前の腹、かわいい音で鳴るんだな」
「ほっとけ」
三分。更衣室で探索服を脱ぎながら、毛玉を制服の下に着ているパーカーのフードに移す。毛玉はフードの底で、満足げに丸くなった。
〈ふむ。悪くない寝床だ〉
五分。十分。
校舎の脇を抜けて、正門へ向かう。部活の勧誘の声。自転車のベル。いつもの放課後の音。首の後ろの小さな重みは、少しも軽くならない。
正門の前で、立ち止まる。深呼吸を一つして、外へ一歩、踏み出した。
首の後ろで、ふわふわが、もぞりと動いた。
〈……外は、温かいな〉
校門を出ても、毛玉は消えなかった。




