第3話 スライムは、しゃべる
霞高の敷地の北の端には、穴がある。
正確には、高いフェンスと、コンクリートの四角い建物に囲まれた穴だ。建物の名前は「迷宮管理棟」。その中に、地下へ続く大きな階段がぽっかり口を開けている。
霞ヶ丘迷宮。全十層。国内でもかなり浅くて、出てくる魔物も弱い、いわば初心者用の迷宮だ。この学校は、迷宮の上に建てられたと言ったほうが正しい。
「あー、全員そろったか」
管理棟の前で、灰原先生がキャンディをくわえたまま点呼をとっていた。入学から三日目。今日は、五組にとって初めての迷宮実習だ。
俺たちは全員、学校から貸し出された探索服を着ている。厚手の布でできた、ジャージとつなぎの中間みたいな服だ。肘と膝には硬いパッド。腰には、訓練用の短剣を一本ずつ。
「説明すんぞ。めんどくせえから一回しか言わねえ」
先生は、ちっとも説明したくなさそうな顔で言った。
「今日潜るのは一層だけ。出てくるのはスライムだ。体当たりしかしてこねえし、新入生でも死にはしねえ。……まあ、たまに服が溶けるくらいだ」
「と、溶けるんですか!?」
小日向が悲鳴を上げた。
「探索服は溶けにくいから安心しろ。溶けにくいってだけだが」
「ひゃっ……」
小日向が青い顔で固まる。先生はかまわず続けた。
「四人一組の仮班で動け。班は――」
先生は少し考えて、ポケットから紙の束を取り出した。
「出席番号順だと面白くねえから、くじだ。引け」
……面白さの問題なのか。
ともあれ、くじの結果、俺の班は四人になった。俺と、大河と、森田という眼鏡の男子と、早乙女という、ふわふわした茶髪の男子。
「よっしゃ湊、同じ班だな!」
「声がでかい」
「森田っす。よろしく。……先に言っとくけど、俺、【方向音痴】だから。道は聞かないで」
「早乙女リク。【気まぐれ】。気が向いたら頑張るよー」
……大丈夫なのか、この班。
◇ ◇ ◇
階段を降りると、空気が変わった。
ひんやりしていて、少し湿っている。雨上がりの、土の匂いがした。
通路の壁は灰色の岩でできていて、ところどころに青白く光る苔が生えている。そのおかげで、明かりがなくても足元くらいは見えた。天井は思ったより高い。声を出すと、遠くまで反響していく。
これが、迷宮。
二十三年前に突然現れて、世界を変えた場所。母さんが、毎日のように潜っていた場所。
……そして、母さんが帰ってこなかった場所。
「湊、どうした?」
「いや。なんでもない」
首を振って、前を向く。今はそういうことを考える時間じゃない。
「おっ、いたいた! あれだろ、スライム!」
大河が指さした先――通路の曲がり角に、青い塊がいた。
バスケットボールくらいの大きさで、半透明。ゼリーみたいにぷるぷる震えていて、体の真ん中に小さな石が浮かんでいる。あれが魔石の元になる「核」だ。教科書の写真で見たとおりの姿だった。
「よし、オレが行く!」
「待て、作戦とか――」
「作戦? 殴る!」
大河が駆け出した。止める暇もない。
スライムがぷるん、と大きく震えた。
その瞬間だった。
〈侵入者、確認〉
――え?
鈴を鳴らしたような、澄んだ音。天啓の儀で迷宮石に触れたときに聞いた、あの音に似ていた。でも今度は、もっとはっきりしていた。
音なのに、意味がわかる。
スライムの体の奥から、また音が鳴った。
〈体当たり、正面〉
「大河、正面から来るぞ!」
「え? ――うおっ!?」
スライムが弾丸みたいに飛んだ。大河がとっさに腕を上げて、顔の前で受け止める。ぼよん、と間抜けな音がして、スライムが跳ね返った。
「いってえ! ……いや、そんなに痛くねえ! びっくりしただけだ!」
「お前、なんで正面ってわかったの?」
森田が目を丸くしてこっちを見る。
なんで、って。
「……鳴いただろ、今。スライムが」
「鳴いた? ああ、あのりぃんって音?」
早乙女が首をかしげる。
「あれ、魔物の鳴き声でしょ。攻撃の前に鳴くって、教科書にも書いてあったよ。意味はないって」
意味はない。
……本当に?
跳ね返ったスライムが、床の上でぷるぷると体勢を立て直している。俺は、それをじっと見つめた。耳を澄ませる。
〈対象、四。後退〉
スライムが、すっと一歩ぶん下がった。
〈体当たり、右〉
「右だ!」
叫ぶのと同時に、俺は左に跳んでいた。さっきまで俺の右肩があった場所を、青い塊が猛スピードで通り過ぎていく。壁にぶつかって、べちゃ、と潰れて、また元に戻る。
「すげえ! 湊、今の避けたのかよ!」
「……偶然、じゃない」
口の中でつぶやく。心臓がうるさい。
聞こえる。
スライムが、攻撃の前に、何をするか言っている。
〈体当たり、左〉
「次、左!」
今度は森田が狙われた。俺の声に、森田が慌てて右へ転がる。スライムは空振りして、床を滑っていく。
〈後退〉
〈後退〉
〈体当たり、正面〉
毎回だ。毎回、動く前に必ず、鈴みたいな音で「予告」している。
しかも、その予告は、俺にだけ意味がわかる。他のみんなには、ただの「りぃん」という鳴き声にしか聞こえていない。
――翻訳。
日常会話の翻訳を、補助する。
まさか。いや、でも。
これが「翻訳」なんだとしたら。俺のスキルは、魔物の言葉を――
〈後退〉
「大河、今だ! あいつ、今から下がる!」
「お、おう! よくわかんねえけど任せろ!」
スライムが下がった瞬間、大河が踏み込んで、訓練用の短剣を突き出した。切っ先が、青いゼリーの真ん中――核を、正確に貫く。
ぱちん、と小さな音がして、スライムが弾けた。
青い体が、光の粒になってふわりとほどけていく。後には、小指の先くらいの、青く透き通った石が一つだけ転がっていた。魔石だ。
「……や、やった! 倒した! オレたち、倒したぞ!」
「おー、初討伐じゃん」
「なあ真白、お前さっきから、どうしてわかるんだ?」
森田がずり落ちた眼鏡を押し上げながら聞いてくる。俺は、答えに詰まった。
魔物の声が聞こえる、なんて言ったら、どんな顔をされるだろう。
「……なんとなく。動きを見てたら、そんな気がした」
「ふーん。お前、目がいいんだな」
森田はあっさり納得した。早乙女は「へー」とだけ言って、もう別のことに興味が移ったみたいに、壁の苔をつついている。大河だけが、まだ首をかしげていた。
「なあ湊。お前、本当に見てただけか?」
「……ああ」
嘘をついた。
自分でも、まだよくわからなかったからだ。
そのあと、俺たちの班は通路を進んで、スライムをさらに三匹倒した。
三匹とも、同じだった。
〈侵入者、確認〉
〈体当たり、正面〉
〈後退〉
単語の並びは少しずつ違う。でも、どれも「次に何をするか」を言っている。まるで、誰かに命令されて動いているみたいに、短く、そっけなく。
俺はそのたびに「右」「左」「今だ」と叫んで、そのたびに大河や森田が動いた。早乙女は気が向いたときだけ動いた。
ほかの班は、スライム一匹に苦戦して、何人か服の袖をちょっとだけ溶かされていた。小日向の悲鳴が、通路の向こうから何度も聞こえてきた。
俺の頭の中では、ずっと同じ言葉がぐるぐる回っていた。
聞こえる。
魔物の声が、聞こえる。
それも、ただの鳴き声じゃない。言葉として。意味のある文として。
昨日、講堂で笑われたスキル。説明文は「日常会話の翻訳を補助する」。全人類が同じ表示を読めるこの世界で、何の役にも立たないと思っていた力。
でも、もしかしたら。
この世界には、俺たちがまだ知らない「言葉」があるのかもしれない。
◇ ◇ ◇
「よし、今日はここまでだ。全員、地上に戻れー」
実習の終わり、一層の入口近くの広間に集合したとき、灰原先生が言った。ほとんどの班はくたくたで、何人かは袖や裾が微妙に溶けていた。
うちの班は、四匹倒して、誰も怪我をしていない。たぶん、五組でいちばんの成績だ。
とはいえ、スライム四匹である。自慢するほどのことでもない。誰も気にしていないし、俺も気にしてほしくなかった。
……そう思っていたのだけれど。
階段に向かって歩きながら、ふと視線を感じて振り返った。
広間の隅。壁にもたれて、灰原先生がこっちを見ていた。
くわえたキャンディの棒が、ゆっくり口の端で揺れている。だるそうな目。いつもと同じ顔。
なのに、その目だけが、少しも笑っていなかった。
まるで、俺の避け方を――最初から最後まで、ずっと見ていたみたいに。




