第55話 森の歌、白鹿の声
〈ねえ、そこにいるの。すなあらしの、もっと奥に〉
水無瀬の歌が、変わった。
それに気づいたのは、白鹿の角が元に戻ってから、二度目の攻撃をしのいだあとだった。
真名詠唱の光は、まだみんなの身体に残っている。でも、少しずつ薄れてきていた。大河の盾には、また霜がつき始めている。ひよりは「次、来ます」と言うたびに、肩で息をするようになっていた。鷹宮の翼も、さっきより一回り小さい。
俺の頭も、限界が近かった。鼻の下を何度ぬぐっても、手の甲が赤くなる。
削っても、削っても、白鹿は元に戻る。このままじゃ、先にこっちが尽きる。
しかも、白鹿のまわりから、森の色が抜けていく範囲が広がっていた。光っていた葉が灰色にくすみ、苔が白く乾いていく。最初は白鹿の足元だけだった灰色が、今は巨木の根元まで届きそうになっている。
このまま放っておいたら、森ごと、全部。
無線機が、また雑音を吐いた。灰原先生の声が、途切れ途切れに聞こえる。「――あと少し――持ちこたえ――」。その「あと少し」が、どのくらいなのか、誰にもわからなかった。
つん、と袖を引かれた。
水無瀬だった。スケッチブックを開いて、ペンを走らせている。戦いの最中だから、字が大きい。いつもの丁寧で小さな字じゃなくて、殴り書きみたいな字だった。
『もっと、ちかくで、うたう』
「……だめだ。危なすぎる」
水無瀬は首を振った。強く。それから、またペンを走らせる。
『とおいと、はじかれる。ちかくなら、とどくかもしれない』
ページをめくって、もう一行。
『あの子のおくに、なにか、ある気がする』
あの子。
水無瀬は、白鹿のことを、そう書いた。
「……何かって、何だ」
水無瀬は少し迷って、胸のあたりを、きゅっと押さえた。うまく書けない、という仕草だった。言葉にならない何か。でも、確かにそこにある何か。
それを、水無瀬は感じ取っている。
声が出ないことの苦しさを、誰よりも知っている水無瀬が。
「……わかった」
俺は、うなずいた。
「大河、鷹宮! 水無瀬を白鹿の胸の前まで連れていく! 角と脚を全部止めてくれ! ひより、読んでくれ! 俺は水無瀬の隣にいる!」
「む、無茶だろ! ……いや、やる! 任せろ!」
鷹宮は、すぐには答えなかった。白鷺を構えたまま、水無瀬を見た。
「……水無瀬。無理はしないで」
水無瀬は、ほんの少しだけ笑った。それから、スケッチブックの隅に小さく書いて、鷹宮に見せた。
『鷹宮さんも』
鷹宮は、一瞬だけ目を見開いた。それから、ふいと前を向いた。
「……行って。全部、止める」
「来ます、正面から角で突き! そのあと右の前脚! 八秒です!」
俺は水無瀬の手を取った。冷たかった。でも、しっかりと握り返してきた。
走る。
白鹿の角が、正面から突き出されてくる。大河がその前に飛び込んで、盾で角の先を跳ね上げた。続いて振り上げられた右の前脚を、鷹宮の翼が受け流す。
「次、左の後ろ脚で蹴り上げ! 三秒後です!」
「大河、左に回れ!」
「おうッ!」
大河が盾ごと体当たりするようにして、白鹿の左の後ろ脚にぶつかった。蹴り上げようとした脚が、大河の重さに押さえつけられて、地面から浮かない。
「今だ、湊! 行けェ!」
その脇を、俺と水無瀬は駆け抜けた。
白黒の巨体が、目の前に迫る。冷たい。顔に当たる空気が、真冬の夜みたいだ。ノイズの音が、耳の中で嵐になる。
ザ――――――――
そのとき、横から細い枝が鞭のように飛んできた。白鹿が角で弾いた木の枝だ。
俺が短剣を構えるより先に、白銀の刃がそれを叩き落とした。
「……ぼさっとすんな、翻訳野郎」
御堂だった。左足を引きずりながら、それでも俺たちのすぐ後ろについてきていた。
「行けよ。後ろは、俺が見てる」
返事をする暇はなかった。でも、たぶん、それでよかった。
白鹿の胸の前。水無瀬が、目を閉じた。
両手を、胸の前で重ねる。
〈こわくない。ここにいる。こごえた声よ、ほどけて、おいで〉
歌が、すぐ近くで鳴った。
さっきまでとは違った。遠くから投げかけるような歌じゃない。耳元で、そっと語りかけるような歌だった。泣いている子どもの背中を、ゆっくり撫でるみたいな。
白鹿の体の表面で、ノイズが震えた。
弾かれない。
歌が、染み込んでいく。分厚い砂嵐の層の、一枚目、二枚目、三枚目。水無瀬の旋律が、少しずつ、その奥へ、奥へと沈んでいく。
俺は、耳を澄ませた。
ザ――――ザザ――――
ノイズの、いちばん奥。さっきは、どこまで探っても底が見えなかった場所。
そこに、水無瀬の歌が届いた。
――そして。
〈……さむ、い……〉
背中が、ぞくりと震えた。
命令文じゃなかった。
〈……さむい……しずか、すぎる……〉
かすれていた。途切れ途切れで、今にも消えそうで、ノイズに半分飲み込まれていた。それでも、確かに、声だった。
〈……だれか……〉
誰か。
白鹿が、誰かを呼んでいた。
「……湊! どうした、何が聞こえる!」
大河の声。俺は、振り返らずに答えた。声が、震えた。
「寒い、って……言ってる」
みんなの動きが、一瞬止まった。
「静かすぎる、って。誰か、って。……こいつ、誰かを呼んでる」
「……寒がってんのか、こいつ」
大河が、盾を構えたまま、呆然とつぶやいた。
「苦しい、って……言ってるんですか」
ひよりの声が、涙でにじんでいた。
鷹宮は、何も言わなかった。ただ、白鷺の切っ先が、ほんのわずかに下がった。
御堂は、俺の背中を見つめていた。
「……誰か、か」
かすれた声で、御堂がつぶやくのが聞こえた。
「呼んでたのかよ。ずっと、そうやって」
根の窪みの奥で、一人でうずくまっていた御堂が、白黒の巨体を、さっきまでとは違う目で見上げていた。
――わかった、気がした。
四月の石守。崩れる瞬間に、ノイズの奥から聞こえた声。〈……さむ、かった……〉。あのとき胸が痛くなった理由が、今、やっとわかった。
黙者は、声のない魔物じゃない。
声を、奪われたものなんだ。
何かに飲み込まれて、言葉を取り上げられて、寒くて、静かで、誰にも届かない場所に閉じこめられている。命令文さえ鳴らせないまま。誰かを呼ぶ声さえ、砂嵐にかき消されたまま。
ずっと、一人で。
ずっと、誰かを呼んでいた。
だから、倒すことは、ただ壊すことじゃない。この砂嵐の檻から、出してやることなんだ。
〈……湊〉
フードの中で、ルルが鼻をすする音がした。
〈我は泣いてなどおらぬぞ。……泣いてなど、おらぬ〉
「……ああ。わかってる」
水無瀬の歌は、まだ続いていた。
〈こわくない、こわくない。ここにいるよ、ここにいる〉
白鹿の動きが、ゆっくりと止まっていく。振り上げかけた前脚が、宙で静止する。角の先で弾けていた雑音が、ひとつ、またひとつと消えていく。
胸の表面のノイズが、薄くなった。
その奥に、何かが見えた。
光だった。淡い、白い光。小さな星みたいに、ノイズの奥で、ちかちかと瞬いている。今にも消えてしまいそうな、弱々しい光。
「……あそこです」
ひよりが、息をのんだ。
「あそこだけ、ぞわってしないんです。白鹿さんの身体で、あそこだけ……あったかい感じがします」
核だ。
白鹿の、本当の声が残っている場所。
あの光を砕いたら、この声も消えてしまうんだろうか。
一瞬、そう思った。でも、すぐに首を振った。違う。あの光は、砂嵐の檻のいちばん奥に閉じこめられている。檻を壊さなければ、声は永遠に、寒くて静かな場所に置き去りにされたままだ。
出してやるんだ。あそこから。
でも、ノイズの壁はまだ厚い。水無瀬の歌で薄くなっているけれど、そこまで届かせるには、一撃じゃ足りない。鷹宮の剣だけでも、たぶん足りない。
もう一つ、力がいる。
俺は、振り返った。
御堂が、剣を構えて立っていた。
その剣の刃が――光っていた。
さっきまで、ちかちかと頼りなく瞬いては消えていた白銀の刃が、今は、ぼんやりとした光を宿している。水無瀬の歌で、森のざらついた空気が、少しずつ澄んでいる。その中で、御堂の剣に、光が戻り始めていた。
御堂自身も、驚いた顔で自分の剣を見下ろしていた。
迷っている暇は、なかった。
「御堂!」
俺は叫んだ。
「一緒に来い!」




