↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
54/70

第54話 真名詠唱

 名前を呼ぶ、ということを、俺はずっと日本語でやってきた。


 四月。霞ヶ丘迷宮の五層で、俺は叫んだ。大河、【蓄積】だ。小日向、【先触れ】。それだけで、二人の力は跳ね上がった。新人戦の決勝でも、鷹宮に【比翼の剣】の名前を告げた。名前を呼ぶと、スキルは応える。本当の名前なら、なおさら。


 でも、その本当の名前は、もともと日本語じゃない。


 窓の文字がほどけて、蔓のような迷宮文字に組み直っていくとき、俺はいつも、頭の奥でかすかな音を聞いていた。鈴のような、風鈴のような。文字そのものが鳴っているような音。


 あれは、名前の「音」だったんじゃないか。


「……俺も、やる」


 御堂の声で、我に返った。


 御堂は剣を杖にして、根の窪みの前に立っていた。包帯を巻いた左足が、小刻みに震えている。


「その足で、無理だろ」


「うるせえ。【勇者】は出ねえ。でも、剣は振れる」


 御堂は、白鹿を睨んだまま言った。


「見てるだけは、もう、ごめんだ」


 白鹿の角の先で、雑音がばちばちと弾ける。次が来る。


 俺は、息を吸った。


 さっき、影の群れを止めたとき。俺は、日本語の「止まれ」を、迷宮の言葉にして鳴らした。英和辞典の反対側。和英辞典の向き。


 だったら、名前も。


「みんな、聞いてくれ」


 声を張り上げた。大河が、鷹宮が、ひよりが、水無瀬が、こっちを見る。


「今から、名前を呼ぶ。――迷宮の言葉で」


 返事を待たなかった。


 喉を、鈴にする。さっきよりも、ずっと深いところから。窓の文字がほどけたときに聞こえた、あの音を思い出す。


 最初は、ひよりだ。


〈――【先触れ】〉


 りぃん、と澄んだ音が、森の中に響いた。


 ひよりの身体が、ふわりと淡い光に包まれた。夜明け前の空みたいな、薄い金色の光。


「あ……」


 ひよりが、目を見開いた。


「見え……ます。白鹿さんの、角が……次と、その次と、その次まで……っ」


 次は、大河。


〈――【蓄積】〉


 大河の身体が、燃えるような橙色に光った。霜に覆われていた大盾の表面から、白い氷がばりばりと剥がれ落ちていく。


「うおっ……なんだこれ、腹の底から力が……二倍、いや、それ以上……!」


 大河は自分の拳を見下ろして、それから叫んだ。


「でも腹は減ってる!」


「それはいつもだろ!」


 水無瀬。


〈――【静謐の歌】〉


 水無瀬の身体を、月の光みたいな、青白い輝きが包んだ。真っ白だった頬に、少しずつ血の色が戻ってくる。水無瀬は驚いたように自分の手を見て、それから、俺を見た。


 前髪の奥の目が、まっすぐだった。


 最後に、鷹宮。


〈――【比翼の剣】〉


 鷹宮の背中で、氷の羽根が、一気に開いた。


 さっきまでの、頼りなく揺れていた羽根じゃない。大きい。鷹宮の身長より、ずっと大きい。透き通った氷の羽根が何十枚も重なって、本物の鳥の翼みたいに広がっていた。羽根の一枚一枚が、光る葉の明かりを受けて、きらきらと輝いている。


「……っ」


 鷹宮が、息をのんだ。


 それから、自分の肩越しに、そっと翼に触れた。


「……あったかい」


 氷の翼なのに。鷹宮は、信じられないものを見るような顔で、そうつぶやいた。


 四人の光が、俺のまわりで重なった。迷宮語で呼んだ名前が、それぞれの身体の奥で鳴り響いているのがわかる。共鳴している。まるで、一つの和音みたいに。


 まだだ。まだ、足りない。


 俺は、もう一度、四つの名前を続けて鳴らした。一つずつじゃなく、ひと続きの歌みたいに。


〈【先触れ】【蓄積】【静謐の歌】【比翼の剣】――!〉


 光が、ひときわ強く燃え上がった。金色と、橙色と、青白い色と、透き通った氷の色。四つの光が、森の灰色を押し返すように広がっていく。白鹿が、初めて、たじろぐように一歩下がった。


 仲間の本当の名前を、迷宮の言葉で唱える。


 ――のちに、真名詠唱(しんめいえいしょう)と呼ぶことになる力だった。


 その瞬間、頭の中で、何かが焼き切れる音がした。


 鼻から、どっと熱いものがあふれた。視界の端が、白く明滅する。足がもつれる。


「湊くん!」


「いい! 来るぞ、ひより!」


 ひよりが、弾かれたように顔を上げた。


「――来ます! 右の角で薙ぎ払い、それから左の前脚で踏み込み、最後に頭から突っ込んできます! 全部で、十秒!」


 十秒。


 今までのひよりは、五秒先までしか読めなかった。それが倍になっている。しかも、一つじゃない。次と、その次と、その次まで。


「大河、最初の角を受けろ! 鷹宮、二つ目の踏み込みで脚を足場にして、角を落とせ! 三つ目は全員で避ける!」


「任せろォ!」


 白鹿の角が、右から薙いだ。


「【蓄積】――解放ッ!」


 大河の盾が、角を正面から受け止めた。


 今度は、滑らなかった。


 大河の足が、苔にしっかりと根を張っている。それどころか、大河は盾ごと角を押し返していた。白鹿の巨体が、ぐらりと揺れる。


「押し……返したァ!」


 踏み込んできた白鹿の左の前脚を蹴って、鷹宮が翔んだ。


 跳ぶ、じゃない。翔ぶ、だった。氷の翼が大きく羽ばたいて、鷹宮の身体が、白鹿の頭の高さまで一気に舞い上がる。


 白鷺が、ひらめいた。


 白鹿の左の角が、根元から斬り落とされた。


 大きな角が、ゆっくりと宙を回って、苔の上に落ちた。白黒の粒が、雪のように散った。


「三つ目、来ます!」


「全員、左!」


 白鹿の頭突きが、俺たちのいた場所を通り過ぎていった。背後の木が一本へし折れる。全員、無事だった。


〈しずまれ、しずまれ。こごえる森よ、ねむりなさい〉


 水無瀬の歌が、さっきよりもずっと強く広がっていく。白鹿の体の表面で弾かれていた旋律が、今度は、ほんの少しだけ、ノイズの中へ染み込んでいくのが聞こえた。


 白鹿の動きが、わずかに鈍った。


 いける。


 俺は、振り返った。


「御堂! 窓を開けろ!」


「……はあ!? なんで今!」


「いいから! 開示しろ!」


 御堂は一瞬ためらって、それから舌打ちした。御堂の胸の前に、半透明の窓が開く。


 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 名前:御堂 海斗

 スキル:【勇者】

 説明:全能力に高い補正。人々の希望を背負う。

 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 俺は、その文字を見つめた。


 集中する。ほどけろ。いつもみたいに。蔓の文字に、組み直れ。


 ――ほどけない。


 ノイズが、分厚かった。


 鷹宮の窓のときも、なかなかほどけなかった。でも、あのときとは手ざわりが違う。しかも、それ以上に固い。文字の上に、何重にも何重にもペンキを塗り重ねたみたいに、ざらついた膜が張りついている。剥がそうとすると、その下からまた新しい膜が出てくる。どこまで剥がしても、本当の文字にたどり着かない。


 こめかみの奥で、また何かが弾けた。


「……っ、読めない」


「は?」


「お前の窓、ノイズがひどすぎる。……今は、読めない」


 御堂の顔が、こわばった。


「……なんだよ、それ」


 低い声だった。


「あいつらのは読めて、俺のだけ読めねえのかよ」


「悪い。……読めないだけだ。お前の窓の奥にも、たぶん、本当の名前はある」


「わけわかんねえよ……!」


 御堂は窓を乱暴に閉じた。


「勇者の力は出ねえ、名前も読めねえ。……俺は、何なんだよ」


 吐き捨てるような声だった。それは、俺に向けた言葉じゃなかったと思う。もっと遠くにいる誰かに向けた言葉だった。


 答えられなかった。読めないものを、読めたふりはできない。それをやったら、俺のスキルは本当に、ただの外れになる。


 でも、御堂の目は、白鹿から逸らしていなかった。剣を握る手は震えていたけれど、もう、根の窪みに戻ろうとはしていなかった。


「――湊くん!」


 ひよりの悲鳴が、俺の背中を叩いた。


 振り返る。


 苔の上に落ちた白鹿の角が、ざらざらと崩れていく。その白黒の粒が、風に巻かれるように白鹿の頭へ吸い寄せられていく。斬り落とされた根元から、ノイズが伸びる。枝分かれする。形になる。


 五秒もかからなかった。


 白鹿の頭には、さっきと同じ、大きな角が戻っていた。鷹宮が最初につけた前脚の傷も、大河が押し返したときにできたひびも、もうどこにもない。


 さっきより、再生が速い。


 まるで、削れば削るほど、ノイズが濃くなっていくみたいに。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。