第54話 真名詠唱
名前を呼ぶ、ということを、俺はずっと日本語でやってきた。
四月。霞ヶ丘迷宮の五層で、俺は叫んだ。大河、【蓄積】だ。小日向、【先触れ】。それだけで、二人の力は跳ね上がった。新人戦の決勝でも、鷹宮に【比翼の剣】の名前を告げた。名前を呼ぶと、スキルは応える。本当の名前なら、なおさら。
でも、その本当の名前は、もともと日本語じゃない。
窓の文字がほどけて、蔓のような迷宮文字に組み直っていくとき、俺はいつも、頭の奥でかすかな音を聞いていた。鈴のような、風鈴のような。文字そのものが鳴っているような音。
あれは、名前の「音」だったんじゃないか。
「……俺も、やる」
御堂の声で、我に返った。
御堂は剣を杖にして、根の窪みの前に立っていた。包帯を巻いた左足が、小刻みに震えている。
「その足で、無理だろ」
「うるせえ。【勇者】は出ねえ。でも、剣は振れる」
御堂は、白鹿を睨んだまま言った。
「見てるだけは、もう、ごめんだ」
白鹿の角の先で、雑音がばちばちと弾ける。次が来る。
俺は、息を吸った。
さっき、影の群れを止めたとき。俺は、日本語の「止まれ」を、迷宮の言葉にして鳴らした。英和辞典の反対側。和英辞典の向き。
だったら、名前も。
「みんな、聞いてくれ」
声を張り上げた。大河が、鷹宮が、ひよりが、水無瀬が、こっちを見る。
「今から、名前を呼ぶ。――迷宮の言葉で」
返事を待たなかった。
喉を、鈴にする。さっきよりも、ずっと深いところから。窓の文字がほどけたときに聞こえた、あの音を思い出す。
最初は、ひよりだ。
〈――【先触れ】〉
りぃん、と澄んだ音が、森の中に響いた。
ひよりの身体が、ふわりと淡い光に包まれた。夜明け前の空みたいな、薄い金色の光。
「あ……」
ひよりが、目を見開いた。
「見え……ます。白鹿さんの、角が……次と、その次と、その次まで……っ」
次は、大河。
〈――【蓄積】〉
大河の身体が、燃えるような橙色に光った。霜に覆われていた大盾の表面から、白い氷がばりばりと剥がれ落ちていく。
「うおっ……なんだこれ、腹の底から力が……二倍、いや、それ以上……!」
大河は自分の拳を見下ろして、それから叫んだ。
「でも腹は減ってる!」
「それはいつもだろ!」
水無瀬。
〈――【静謐の歌】〉
水無瀬の身体を、月の光みたいな、青白い輝きが包んだ。真っ白だった頬に、少しずつ血の色が戻ってくる。水無瀬は驚いたように自分の手を見て、それから、俺を見た。
前髪の奥の目が、まっすぐだった。
最後に、鷹宮。
〈――【比翼の剣】〉
鷹宮の背中で、氷の羽根が、一気に開いた。
さっきまでの、頼りなく揺れていた羽根じゃない。大きい。鷹宮の身長より、ずっと大きい。透き通った氷の羽根が何十枚も重なって、本物の鳥の翼みたいに広がっていた。羽根の一枚一枚が、光る葉の明かりを受けて、きらきらと輝いている。
「……っ」
鷹宮が、息をのんだ。
それから、自分の肩越しに、そっと翼に触れた。
「……あったかい」
氷の翼なのに。鷹宮は、信じられないものを見るような顔で、そうつぶやいた。
四人の光が、俺のまわりで重なった。迷宮語で呼んだ名前が、それぞれの身体の奥で鳴り響いているのがわかる。共鳴している。まるで、一つの和音みたいに。
まだだ。まだ、足りない。
俺は、もう一度、四つの名前を続けて鳴らした。一つずつじゃなく、ひと続きの歌みたいに。
〈【先触れ】【蓄積】【静謐の歌】【比翼の剣】――!〉
光が、ひときわ強く燃え上がった。金色と、橙色と、青白い色と、透き通った氷の色。四つの光が、森の灰色を押し返すように広がっていく。白鹿が、初めて、たじろぐように一歩下がった。
仲間の本当の名前を、迷宮の言葉で唱える。
――のちに、真名詠唱と呼ぶことになる力だった。
その瞬間、頭の中で、何かが焼き切れる音がした。
鼻から、どっと熱いものがあふれた。視界の端が、白く明滅する。足がもつれる。
「湊くん!」
「いい! 来るぞ、ひより!」
ひよりが、弾かれたように顔を上げた。
「――来ます! 右の角で薙ぎ払い、それから左の前脚で踏み込み、最後に頭から突っ込んできます! 全部で、十秒!」
十秒。
今までのひよりは、五秒先までしか読めなかった。それが倍になっている。しかも、一つじゃない。次と、その次と、その次まで。
「大河、最初の角を受けろ! 鷹宮、二つ目の踏み込みで脚を足場にして、角を落とせ! 三つ目は全員で避ける!」
「任せろォ!」
白鹿の角が、右から薙いだ。
「【蓄積】――解放ッ!」
大河の盾が、角を正面から受け止めた。
今度は、滑らなかった。
大河の足が、苔にしっかりと根を張っている。それどころか、大河は盾ごと角を押し返していた。白鹿の巨体が、ぐらりと揺れる。
「押し……返したァ!」
踏み込んできた白鹿の左の前脚を蹴って、鷹宮が翔んだ。
跳ぶ、じゃない。翔ぶ、だった。氷の翼が大きく羽ばたいて、鷹宮の身体が、白鹿の頭の高さまで一気に舞い上がる。
白鷺が、ひらめいた。
白鹿の左の角が、根元から斬り落とされた。
大きな角が、ゆっくりと宙を回って、苔の上に落ちた。白黒の粒が、雪のように散った。
「三つ目、来ます!」
「全員、左!」
白鹿の頭突きが、俺たちのいた場所を通り過ぎていった。背後の木が一本へし折れる。全員、無事だった。
〈しずまれ、しずまれ。こごえる森よ、ねむりなさい〉
水無瀬の歌が、さっきよりもずっと強く広がっていく。白鹿の体の表面で弾かれていた旋律が、今度は、ほんの少しだけ、ノイズの中へ染み込んでいくのが聞こえた。
白鹿の動きが、わずかに鈍った。
いける。
俺は、振り返った。
「御堂! 窓を開けろ!」
「……はあ!? なんで今!」
「いいから! 開示しろ!」
御堂は一瞬ためらって、それから舌打ちした。御堂の胸の前に、半透明の窓が開く。
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名前:御堂 海斗
スキル:【勇者】
説明:全能力に高い補正。人々の希望を背負う。
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俺は、その文字を見つめた。
集中する。ほどけろ。いつもみたいに。蔓の文字に、組み直れ。
――ほどけない。
ノイズが、分厚かった。
鷹宮の窓のときも、なかなかほどけなかった。でも、あのときとは手ざわりが違う。しかも、それ以上に固い。文字の上に、何重にも何重にもペンキを塗り重ねたみたいに、ざらついた膜が張りついている。剥がそうとすると、その下からまた新しい膜が出てくる。どこまで剥がしても、本当の文字にたどり着かない。
こめかみの奥で、また何かが弾けた。
「……っ、読めない」
「は?」
「お前の窓、ノイズがひどすぎる。……今は、読めない」
御堂の顔が、こわばった。
「……なんだよ、それ」
低い声だった。
「あいつらのは読めて、俺のだけ読めねえのかよ」
「悪い。……読めないだけだ。お前の窓の奥にも、たぶん、本当の名前はある」
「わけわかんねえよ……!」
御堂は窓を乱暴に閉じた。
「勇者の力は出ねえ、名前も読めねえ。……俺は、何なんだよ」
吐き捨てるような声だった。それは、俺に向けた言葉じゃなかったと思う。もっと遠くにいる誰かに向けた言葉だった。
答えられなかった。読めないものを、読めたふりはできない。それをやったら、俺のスキルは本当に、ただの外れになる。
でも、御堂の目は、白鹿から逸らしていなかった。剣を握る手は震えていたけれど、もう、根の窪みに戻ろうとはしていなかった。
「――湊くん!」
ひよりの悲鳴が、俺の背中を叩いた。
振り返る。
苔の上に落ちた白鹿の角が、ざらざらと崩れていく。その白黒の粒が、風に巻かれるように白鹿の頭へ吸い寄せられていく。斬り落とされた根元から、ノイズが伸びる。枝分かれする。形になる。
五秒もかからなかった。
白鹿の頭には、さっきと同じ、大きな角が戻っていた。鷹宮が最初につけた前脚の傷も、大河が押し返したときにできたひびも、もうどこにもない。
さっきより、再生が速い。
まるで、削れば削るほど、ノイズが濃くなっていくみたいに。




