第53話 黙獣・白鹿
足音が、しなかった。
二階建ての家ほどもある鹿が、苔の上を一歩、また一歩と近づいてくる。あれだけの巨体なのに、足が地面に下りるたびに聞こえるはずの音が、どこにもない。
音が、消されていた。
白鹿が通ったあとの木々は、葉の光が弱まっていた。緑色のやわらかい光が、灰色にくすんでいく。苔も、色が抜けたみたいに白っぽくなっていた。まるで、そこだけ古い白黒写真に塗り替えられたように。
ザ――――――
耳の中のノイズが、今まででいちばん分厚かった。
「……あれ、教科書に載ってた」
ひよりが、震える声で言った。
「森林層の主……白い、大鹿……」
白鹿。奥多摩迷宮の森林層に棲む、白い大鹿の影。めったに姿を見せない、と教科書には書いてあった。挿絵の白鹿は、雪のように白くて、きれいだった。
目の前のそれは、白と黒の砂嵐だった。枝分かれした大きな角の先で、ばちばちと雑音が弾けている。顔があるはずの場所には、ざらついた揺らぎしかない。
冷たい風が吹きつけてきた。真夏の迷宮の中で、吐く息が白くなった。
無線機が、ざりざりと鳴った。
「――ルビ、聞こえるか」
黒崎の声だった。
「そちらに大型の反応がある。……黙獣だ」
「もくじゅう……?」
「大型の黙者だ。通常の黙者とは比較にならない。交戦するな。退け」
「退けません! 御堂が足をやられてて――」
「――真白!」
灰原先生の声が割り込んだ。後ろで、何かが崩れる音と、黒崎の「【断絶】」という低い声が聞こえる。
「くそっ……こっちは今、黙者の本隊に挟まれてる。黒崎さんと二人で食い止めてんだ。俺たちが抜けたら、こいつら全部、広場の生徒んとこへ行っちまう。……すぐには、行けねえ」
先生の声が、珍しく苦しそうだった。
「持ちこたえろ。いいな。絶対に、持ちこたえろ」
無線が、雑音に戻った。
「……大河、御堂を背負えるか」
「おう、任せろ!」
大河が、窪みの中の御堂に手を伸ばした。逃げるしかない。あれと戦うなんて、考えるだけでも――
白鹿の頭が、こちらを向いた。
顔のないはずの場所が、まっすぐ俺たちを見た気がした。
次の瞬間、白鹿の角が横に薙いだ。
予告は、なかった。
俺たちの背後に並んでいた木が、三本まとめてへし折れた。めきめきと裂ける音が、途中でぷつりと消える。倒れた幹が、来た道を完全にふさいでいた。
逃げ道が、なくなった。
「……やるしか、ねえか」
大河が大盾を構え直した。籠手を打ち合わせて、深く息を吸い込む。
「さっきのバー、全部溜めてある。いけるぜ」
「鷹宮、大河の隣。ひより、読めるだけ読んでくれ。水無瀬、歌を」
声が、自分でも驚くほど落ち着いていた。たぶん、怖すぎて、一周回っている。
「来ます! 角、右から……五秒後!」
ひよりの声。大河が右へ回り込んで、盾を斜めに構える。
「【蓄積】――解放ッ!」
白鹿の角が、大河の盾に叩きつけられた。
音が、なかった。ぶつかった瞬間の衝撃音さえ、ノイズに飲み込まれた。ただ、大河の身体が、苔の上を三メートルも後ろへ滑っていくのが見えた。
「ぐっ……! 重てえ……っ、それに、冷てえ……!」
盾の表面が、一瞬で真っ白な霜に覆われていた。
その隙に、鷹宮が跳んだ。
背中に氷の羽根が開く。白鷺が、白鹿の前脚を深々と斬り裂いた。ざらついた身体に、大きな裂け目ができる。
――裂け目が、じわじわと閉じていく。
ノイズが、ノイズを埋めていく。三秒もたたないうちに、傷は跡形もなくなっていた。
「……斬れない」
鷹宮が着地して、低く言った。
「斬れるけど、残らない」
鷹宮の背中の羽根が、ちらちらと頼りなく揺れていた。白鹿の冷気が、鷹宮の冷気を押し返している。それに、大河は吹き飛ばされて離れた場所にいる。並び立つ相手が、隣にいない。
水無瀬が、目を閉じていた。
〈しずまれ、しずまれ。こごえる森よ――〉
歌が、白鹿へ向かって流れていく。でも、白鹿の体の表面で、何かに弾かれるように散っていった。分厚いノイズの壁に、歌が染み込んでいかない。
水無瀬の唇から、血の気が引いていくのがわかった。
「同じところを狙う!」
俺は叫んだ。
「鷹宮、さっきの前脚だ! 閉じる前に、もう一回同じ場所を斬れ! ひより、傷口に矢を撃ち込んで、ふさがるのを邪魔してくれ! 大河、角は全部お前が受けろ!」
「無茶言うぜ……! でも、任せろ!」
大河が白鹿の正面に踏み込み、振り下ろされる角を盾で受け止める。足が苔にめり込む。その真横から、鷹宮がさっきと寸分違わない場所を斬り裂いた。裂け目が開く。そこへ、ひよりの矢が二本、三本と突き刺さる。
「来ます、左の脚! 三秒!」
「鷹宮、下がれ!」
鷹宮が跳び退いた直後、白鹿の左の蹄が、さっきまで鷹宮のいた地面を踏み抜いた。
前脚の傷口が、矢を飲み込みながら、じわじわと閉じていく。矢は、ノイズの中へ溶けるように消えていった。
だめだ。削っても、削っても、追いつかない。
白鹿の角が、枝をかすめた。折れた太い枝が、ひよりの頭上へ落ちてくる。
「ひより!」
考えるより先に、身体が動いていた。ひよりの前に飛び込んで、灰原先生の短剣で枝を斜めに受け流す。腕がしびれる。枝が、ひよりのすぐ横の苔に突き刺さった。
「み、湊くん……!」
「怪我は」
「な、ないです……!」
お前の武器は耳だ。でも、耳だけじゃ生き残れねえ。
この短剣をもらった日に、灰原先生に言われた言葉だった。耳が役に立たない今、俺に残っているのは、この古い刃一本だけだ。
四月からずっと、俺は予告に頼ってきた。聞こえるから、指示が出せた。聞こえるから、みんなの役に立てた。
その耳が、今は、何も拾えない。
聞け。
俺は、耳を澄ませた。四月の石守のときみたいに。さっきの森の黙者たちのときみたいに。ノイズの奥の、どこかに、命令文の切れ端が――
ザ――――――――
何も、なかった。
どれだけ奥を探っても、砂嵐の底が見えない。ノイズが何重にも何重にも塗り重ねられていて、その向こうに何があるのか、まったくわからない。
だったら。
〈――止まれ〉
喉を鈴にして、鳴らした。さっき、影の群れを止めた言葉。
白鹿は、止まらなかった。
俺の声は、白鹿に届く前に、ノイズに飲み込まれて消えた。りぃん、という音さえ、途中でかき消されていた。
鼻の奥が、また熱くなった。
……そうか。
影は、命令文で動いている。だから、命令文で止められた。でも黙者には、声がない。言葉がない。言葉のないものに、言葉は届かない。
白鹿が、前脚を高く振り上げた。
「来ます……全部です! まわり、全部!」
ひよりの悲鳴と同時に、白鹿の蹄が地面に叩きつけられた。
苔が波打った。地面がめくれ上がるように揺れて、俺たちは全員、立っていられずに投げ出された。背中を木の根に打ちつける。息が詰まる。
フードの中で、ルルが震えていた。
〈湊……湊、我は今、心の底から帰りたいぞ……〉
「……俺もだよ」
身体を起こす。視界が揺れる。鼻血をぬぐう。
大河が、霜だらけの盾を杖にして立ち上がっていた。鷹宮が、膝をついたまま刀を構えている。ひよりは泣きながら、それでも矢筒に手を伸ばしていた。水無瀬は、白い顔で、もう一度目を閉じようとしていた。
誰も、あきらめていなかった。
でも、勝てる気が、まったくしなかった。
ふと、視界の端に、根の窪みが見えた。その暗がりの中で、御堂がこちらを見ていた。
泥だらけの顔で、目だけを大きく見開いて。霜まみれの盾を構える大河を。膝をついたまま刀を離さない鷹宮を。泣きながら矢をつがえるひよりを。血の気の引いた顔で歌おうとする水無瀬を。そして、鼻血をぬぐう俺を。
四月の五層で、御堂は動けなかった。今日も、動けなかった。
その目が、何かを噛みしめるように、ぎゅっと細められた。
白鹿の角の先で、雑音がばちばちと弾けた。次が来る。予告は聞こえない。ひよりにも、あと何回読めるかわからない。
――そのとき、後ろで、何かが動く気配がした。
根の窪みから、御堂が這い出してきていた。
包帯を巻いた左足を引きずりながら、剣を杖にして、ゆっくりと立ち上がる。顔は真っ青だった。剣を握る手も、まだ震えていた。
それでも、御堂は、白鹿をまっすぐ睨んでいた。
さっきまでの、根の奥でうずくまっていた顔じゃなかった。
御堂は、剣を握り直した。
「……俺も、やる」




