第52話 勇者と翻訳
「……なんで来た」
根の窪みの奥から、かすれた声がした。
御堂は、剣を抱えるようにして座り込んでいた。泥まみれの顔を上げて、俺を睨んでいる。睨んでいるけれど、目に力がない。唇が、紫色になりかけていた。
「来ちゃ悪いか」
「……笑いに来たのかよ、翻訳野郎」
「笑うほど元気そうに見えないけどな」
御堂の顔が歪んだ。何か言い返そうとして、そのまま咳き込んだ。
「は、はい、どいてください、湊くん」
ひよりが、俺を押しのけるようにして窪みの中へ入っていった。さっきまで震えていたのが嘘みたいな手際で、御堂の身体をざっと見ていく。腕、肩、背中。それから、左の足首で手を止めた。
「ここ、ひねってますね。すごく腫れてます」
「触んな……っ、いっ……!」
「動かないでください!」
ぴしゃり、とひよりが言った。
御堂が、目を丸くして固まった。
「弟たちだって、もっとおとなしくしてます。じっとしててください」
「お、弟……?」
「三人います。全員、御堂くんより聞き分けがいいです」
ひよりは探索服のポーチから包帯を取り出すと、くるくると手早く足首に巻きつけていった。御堂は、勇者の顔のまま、借りてきた猫みたいにおとなしくなっていた。
……強い。この状況で、いちばん強いのは、たぶんひよりだ。
「湊、信号弾!」
大河の声で、我に返った。
灰原先生に渡された筒の紐を引く。しゅぽん、と間の抜けた音がして、赤い光の玉が、光る木々のあいだをまっすぐ上へ昇っていった。迷宮の天井近くで、ぱっと花のように開く。
無線機から、雑音まじりの灰原先生の声が返ってきた。
「――見えた。真白、御堂は無事か」
「見つけました。足をひねってますけど、意識はあります」
「よし。……こっちは今、ちょっと手が離せねえ。黒崎さんと合流して、そっちへ向かう。それまで、そこを動くな」
それきり、無線は雑音に戻った。
水無瀬が、窪みの入口にしゃがみこんだ。御堂の足首を見て、それから目を閉じる。
〈ほどけて、ほどけて。こごえた骨よ、ぬくもりを思い出して〉
小さな歌だった。森を鎮めたときのような大きな歌じゃない。手のひらで温めるくらいの、ささやかな旋律。
御堂の肩から、ふっと力が抜けた。
「……なんだ、これ」
御堂が、自分の足首を見下ろした。
「痛みが……引いてく」
水無瀬は目を開けて、ほんの少しだけ微笑むと、また窪みの外へ戻っていった。御堂は、その背中を、しばらくぽかんと見送っていた。
「……水無瀬の、スキルか。今の」
「ああ」
「無口、じゃなかったのかよ」
「違う。あれは歌だ」
御堂は何か言いかけて、やめた。代わりに、窪みの外に立っている鷹宮のほうへ目をやった。
「鷹宮。……お前まで来たのかよ」
「来たくて来たわけじゃない」
鷹宮は、振り返りもせずに答えた。
「あなたのことは、嫌いだから」
「知ってるよ! さっきから全員そればっかじゃねえか!」
御堂が声を荒らげた拍子に、俺のフードから白い毛玉がひょっこりと顔を出した。騒ぎが気になったらしい。
御堂の目が、ルルに止まった。
「……なんだその毛玉」
〈二度目だぞ、金色の! 二度目だ! 無礼にもほどがある!〉
ルルがきゅいきゅいと猛抗議したけれど、御堂には当然、鳴き声にしか聞こえていない。御堂は「なんか怒ってねえか、こいつ」と眉をひそめた。
「怒ってる」
「なんでわかんだよ」
「翻訳だから」
御堂は、意味がわからない、という顔をした。この時点では、それでいいと思った。
大河と鷹宮、それにひよりと水無瀬が、巨木の周りを固めた。
遠くでは、まだ影と黙者がぶつかり合う音がしている。鈴の音と、ノイズ。ときどき、何かが崩れる気配。ここに戻ってくるかもしれないし、来ないかもしれない。
「腹減ってるだろ。食え」
大河が、最後の一本だったはずのバーを、御堂の前に放った。どこから出てきたのかは、聞かないでおく。
「……いらねえ」
ぐうう、と御堂の腹が鳴った。
しばらく、誰も何も言わなかった。気まずい間だった。
御堂は無言でバーをつかむと、包みを乱暴に破いて、かじりついた。大河はにやりと笑って、何も言わずに見張りに戻っていった。
窪みの入口に、俺と御堂だけが残った。
何を話せばいいのか、わからなかった。たぶん、御堂も同じだった。二人で黙って、光る葉の隙間から見える、迷宮の白い天井を見上げていた。
「……なんで来た」
しばらくして、御堂がもう一度言った。今度は、さっきより静かな声だった。
「わからない」
正直に答えた。
「お前のことは、嫌いだ」
「……はっ。正直だな」
「でも、来た。理由は、うまく言えない」
御堂は鼻で笑った。笑ったけれど、それ以上、何も言い返さなかった。
バーの最後の一口を飲み込んで、御堂は、自分の剣を見下ろした。白銀の、立派な剣。勇者の剣。
「……【勇者】が、出なかった」
ぽつりと、御堂が言った。
「いつもなら、名前を呼べば、身体の中に何かが満ちてくるんだ。熱くて、明るくて、どこまでも行けそうな。それが、今日は全然来なかった。空気が、ざらざらしてて……手を伸ばしても、何もつかめなかった」
御堂の指が、剣の柄を握りしめた。
「権藤も細川も、逃げた。当たり前だよな。勇者の力が出ねえ勇者なんか、ただの足手まといだ」
「……」
「親父はさ」
御堂の声が、少しだけ揺れた。
「親父は、俺が勇者だから、俺を見てるんだ」
俺は、黙って聞いていた。
「天啓の儀の夜、親父、珍しく早く帰ってきたんだよ。俺の窓を見て、そうか、って言った。それだけ。でも、あのとき初めて、親父がちゃんと俺のほうを見た気がした」
御堂は、自嘲するみたいに口の端を上げた。
「新人戦で負けたら、もう見なくなった。二度と負けるな、だってさ。俺の顔なんか、一回も見ねえで」
光る葉が、一枚、ひらひらと落ちてきた。
「勇者じゃなかったら、俺なんか……」
その先を、御堂は言わなかった。言えなかったのかもしれない。
俺は、人の心を読めない。迷宮の言葉なら聞こえるけれど、人間の心の声は聞こえない。
でも、今の御堂の言葉の裏にあるものくらいは、わかる気がした。新人戦の決勝で、「外れ風情が」と叫んだ御堂の剣は、焦っていた。怯えていた。あれは、たぶん、ずっと同じものに怯えていたんだ。
見てもらえなくなることに。
「……俺さ」
気づいたら、口が動いていた。
「母さんが、八年前にいなくなったんだ。迷宮の調査に行って、帰ってこなかった」
御堂が、こっちを見た。
「最後の朝、母さんが何か言ってた気がする。でも俺、布団かぶってて、ちゃんと聞いてなかった。……それから、ずっと、何かを聞き逃してる気がしてる」
なんでこんなことを、御堂に話しているんだろう。最後の朝のことは、大河にも話したことがないのに。
「聞き逃したくないんだよ。たぶん、もう、何も」
御堂は、しばらく黙っていた。
「……だから、来たのかよ」
「さあな」
「……意味わかんねえ」
そう言いながら、御堂の声から、さっきまでの棘が少しだけ抜けていた。
「おい、翻訳野郎」
「何だ」
「合同踏破のとき。……お前、何が聞こえてた」
四月。黙った石の巨人の前で、俺は叫んでいた。右から来る、振り下ろす、と。御堂は、それを見ていたんだ。
少し迷って、答えた。
「魔物の声。……聞こえるんだよ、俺には。迷宮の言葉が」
御堂は目を見開いた。それから、乾いた笑いを漏らした。
「……翻訳って、そういうことかよ」
「そういうことだ」
「くそ。……外れなのは、俺のほうじゃねえか」
それは独り言みたいに小さかった。俺は、聞こえなかったふりをした。
――そのとき、地面が揺れた。
足元の苔が、波打つように震える。巨木の枝が、ざわざわと鳴った。
「湊くん!」
ひよりの悲鳴。
「来ます……っ、すごく、大きいのが……!」
森の奥で、木が倒れる音がした。一本じゃない。めきめきと、何本も、何本も。その音が、こちらへ近づいてくる。
なのに、倒れる音の途中で、音そのものがふっと途切れる。まるで、何かに飲み込まれていくみたいに。
光る木々をなぎ倒して、それは現れた。
鹿だった。
とんでもなく大きな、鹿。二階建ての家くらいある。頭の上で、木の枝のような角が、何本にも分かれて広がっている。
その全身が、白と黒の砂嵐でできていた。




