第51話 逆翻訳
数えるな、と言ったのは俺なのに、頭のどこかが勝手に数えていた。
三十。四十。たぶん、五十は超えている。
〈一斉に、かかれ〉
「来るぞ! 前から六、右から四! 大河、正面! 鷹宮、右!」
「おう!」
「……ええ!」
森狼が、輪の内側へなだれ込んできた。大河の盾が先頭の一匹を弾き飛ばし、鷹宮の白鷺が右の四匹をまとめて薙ぐ。氷の羽根が背中で大きく開いた。ひよりの矢が、枝から跳び下りてきた樹猿を射落とす。
光の粒が、いくつも舞い上がった。
でも、減らない。
〈欠員、補充。包囲、維持〉
倒した分だけ、後ろの茂みから新しい影が出てくる。輪の大きさは、少しも変わらない。
「くそっ、きりがねえ!」
「次、上から三匹です! 四秒!」
「大河、盾を上! 鷹宮は下がれ、大河の後ろ!」
水無瀬が目を閉じた。胸の前で、両手を重ねる。
〈しずまれ、しずまれ。あらぶる足よ、根をおろせ〉
歌が、森の中に広がっていく。輪の最前列の影たちの動きが、目に見えて鈍った。足が、苔に縫いつけられたように重くなる。
でも、それは最前列だけだった。後ろの影たちは、鈍った仲間を押しのけて前に出てくる。
水無瀬の額に、汗が浮かんでいた。歌は、魔力をたくさん使う。この数を相手に、いつまでも歌い続けることはできない。
〈間合い、詰めよ〉
〈間合い、詰めよ〉
〈間合い、詰めよ〉
影たちの声が、重なっていく。
考えろ。
影は、命令文で動いている。灰原先生は言った。迷宮が作る人形。意思はない。命令で動いている。倒せば魔石を残して消える。
意思がない。命令で動く。
――だったら、その命令は、誰の言葉なんだ。
影たちは、自分の口で命令文を鳴らしている。でもそれは、自分で考えた言葉じゃない。誰かに言われたことを、そのまま繰り返しているだけだ。迷宮が鳴らした言葉を、影たちが受け取って、その通りに動いている。
言葉を受け取って、動く。
だったら。
ふいに、真白堂の二階の本棚が頭に浮かんだ。
辞書が並んでいる。英和辞典と、和英辞典。英語を日本語にする辞書と、日本語を英語にする辞書。同じ二つの言葉のあいだを、反対の向きにつなぐ本。
俺は四月から、ずっと英和辞典の側にいた。迷宮の言葉を聞いて、日本語に直す。それだけをやってきた。
でも、橋は、どっちからでも渡れるはずだ。
逆に。
日本語を、迷宮の言葉に。
〈かかれ〉
輪の後ろのほうで、一斉に命令文が鳴った。森狼たちが、身体を低く沈める。跳ぶ気だ。全方向から、一度に。
俺は息を吸った。
知っている。四月から、何百回、何千回と聞いてきた音だ。〈停止〉〈待機〉〈後退〉。影たちが動きを止めるときに鳴らす、短い鈴の音。その音の高さも、長さも、響き方も、耳が覚えている。
喉の奥に、その形を作る。
「――っ」
出なかった。かすれた息が漏れただけだった。
「湊!? 何してんだ!?」
大河の声。もう一度。喉を、鈴にする。言葉の意味を、音の中に流し込む。
止まれ。
止まれ。
〈――止まれ〉
俺の口から出たのは、澄んだ鈴の音だった。
りぃん、と。
森の中に、その音が広がっていった。自分の声じゃないみたいだった。喉から出たのに、胸の奥のもっと深いところから鳴っている気がした。
影たちが、止まった。
跳びかかろうとしていた森狼が、身体を沈めたまま。枝の上の樹猿が、腕を伸ばしかけたまま。五十を超える影が、一斉に、時計の針が止まったみたいにぴたりと動きを止めていた。
森が、しんと静まり返った。
「……え」
ひよりが、目を丸くした。
「今の……湊くんの、口から……」
「抜けろ!」
叫んだ。止まっていられる時間は、たぶん長くない。
「東だ! 大河、鷹宮、正面の三匹を押しのけろ! 走れ!」
大河が我に返って、盾を構えたまま突っ込んだ。止まったままの森狼を三匹、まとめて押し倒す。鷹宮がその隙間を斬り広げる。ひよりと水無瀬が駆け抜け、俺がその後ろに続いた。
輪の外に出た瞬間、背後で影たちの声が戻った。
〈……侵入者、逃走。追え〉
〈――止まれ〉
振り返って、もう一度鳴らした。さっきより音が細い。それでも、追いかけてきた先頭の影たちが、つんのめるように足を止めた。
頭が、割れた。
そう思った。こめかみの奥で、何かが弾けた。視界の端が白く焼ける。鼻の奥が熱い。熱いものが、どっとあふれて、口のまわりを濡らした。
「湊! 鼻血! 鼻血が噴水みてえになってる!」
〈湊! 湊の鼻から、赤い川が流れておるぞ!〉
「……わかってる」
膝が、かくんと折れた。
倒れる前に、身体がふわりと浮いた。大河だった。俺を米袋みたいに小脇に抱えて、そのまま走っている。
「黙って運ばれてろ!」
「……米袋扱いは、どうなんだ」
「文句言えるなら大丈夫だな!」
ひよりが、走りながらポケットティッシュを差し出してきた。六人きょうだいの長女は、ティッシュを切らさない。
◇ ◇ ◇
影たちの声は、まだ後ろから追ってくる。
〈追え。逃がすな〉
でも、その声に、別の言葉が混ざり始めていた。
〈前方、異物。排除、優先〉
俺は大河の脇に抱えられたまま、耳を澄ませた。
異物。影たちは、俺たちを「侵入者」と呼んでいる。そして、黙者のことは「異物」と呼んでいる。迷宮が影を吐き出しているのは、もともと黙者を追い払うためだ。
だとしたら、影たちにとって、黙者のほうが先なんだ。
前方。ノイズのいちばん濃いほう。東の、でっかい木。
「大河、このまま真っ直ぐだ。ノイズのほうへ」
「わかった! ……って、黙者のほうに突っ込むのかよ!?」
「影に、黙者を見つけさせる」
木々が途切れた。
目の前に、とんでもなく大きな木がそびえていた。幹の太さは、大人が十人で手をつないでも届かないくらい。地面から盛り上がった根が、いくつもの洞穴みたいな窪みを作っている。
その根の前で、白黒の狼が三匹、じっと待っていた。
ザ――――
黙者だ。何かを待ち伏せしている。根の窪みの、どれか一つを見張っている。
狼たちがこちらを向いた――その瞬間、俺たちを追ってきた影の群れが、背後の茂みから一斉に飛び出した。
〈異物、確認。排除〉
森狼たちは、俺たちの横を素通りした。まっすぐ、白黒の狼へ。
ノイズと、鈴の音がぶつかった。影と黙者が、もつれ合うようにして木々の奥へ転がっていく。光の粒と、白黒の粒が、入り混じって散った。
残ったのは、静かな巨木だけだった。
「……すげえ。湊、狙ってたのか」
「半分くらいは」
大河に下ろしてもらって、木の根にもたれた。頭がまだぐらぐらする。ティッシュで鼻を押さえていると、水無瀬が隣にしゃがみこんで、俺の額に冷たい手を当てた。熱を測るみたいに。それから、とても心配そうな顔で、スケッチブックに書いた。
『さっきの、なに?』
「……わからない」
正直に答えた。
「影の言葉を、こっち側から言ってみた。翻訳の逆だ。……逆翻訳、とでも言えばいいのかな」
逆翻訳。口に出してみると、なんだか辞書の見出し語みたいだった。
そのとき、目の前に、半透明の窓が勝手に開いた。
[スキル【翻訳】のレベルが3に上がりました]
二度目だった。四月、黙った石の巨人を倒したとき以来の、システムメッセージ。
そして、その下で――
蔓のような文字が、ちらついた。
前のときは、読めそうで読めなかった。でも、今は違う。文字がほどけて、意味になっていく。
〈きこえる?〉
息が止まった。
問いかけだった。たった四文字の。でも、それは命令文とはまるで違っていた。誰かが、誰かに向かって、そっと呼びかけるような。返事を待っているような。
声みたいだ、と思った。
文字なのに。窓の中の、ただのちらつきなのに。誰かの声が、そこから聞こえた気がした。
「……誰だ」
つぶやいたときには、もう文字は消えていた。窓には、レベルが上がったという一文が残っているだけだった。
きこえる?
誰に、聞いているんだ。俺に、か。
「――湊くん!」
ひよりの声が、俺を引き戻した。
ひよりは、巨木の根の窪みの一つを指さしていた。顔が、こわばっている。
「あそこ……誰か、います」
窪みの奥の暗がりに、明るい茶髪が見えた。
膝を抱えて、剣を握りしめたまま、小さくうずくまっている。泥と苔にまみれて、肩が震えていた。
御堂海斗だった。




