第50話 嫌いでも、見捨てない
嫌いな奴を助けに行く理由を、俺はたぶん、うまく言えない。
御堂海斗のことは、好きじゃない。
四月の講堂で、俺のスキルを笑った声。廊下で「翻訳くん」と呼んで、魔物と通訳でもするのかと嘲った顔。学食で水無瀬のスケッチブックを取り上げさせた、あの薄ら笑い。新人戦の前に「公開処刑してやる」と言い放った口。
思い出せば、腹が立つことばかりだ。
それでも。
巨木の根元で、一人で、ノイズに囲まれている御堂を想像したら、足が勝手に森のほうを向いていた。
「……俺、行く」
広場の隅で、ルビの四人に向かって言った。
誰も驚かなかった。たぶん、みんな同じことを考えていたんだと思う。
「あいつ、嫌いだけど」
最初に口を開いたのは、鷹宮だった。
「顔も、声も、態度も、全部」
「全部かよ」
「全部よ。新人戦のときも、私に作戦を一度も相談しなかった。勝手に突っ込んで、勝手に怒鳴って」
それは鷹宮もわりと同じだった気がするけれど、言わないでおいた。
「……でも、行くわ」
鷹宮は、刀の柄を握り直した。
「独りで凍えるのがどういうことか、私は知ってるから」
大河が、最後のバーを口に放り込んで、ばりばりと噛み砕いた。
「嫌いでも、見捨てるのはナシだろ」
当たり前のことを言うみたいな声だった。
「オレだって、あいつにはむかついてる。でもよ、ここで行かなかったら、オレたち、あいつらと同じになっちまう」
大河の視線の先には、広場の真ん中でうなだれている権藤と細川がいた。
ひよりは、まだ大盾の陰で膝を抱えていた。肩が小さく震えている。それでも、ゆっくりと顔を上げた。
「こわい……です」
涙のにじんだ目で、まっすぐ俺を見た。
「すごく、こわいです。さっきのぞわぞわが、ずっと消えないんです。……けど、行きます」
ひよりは短弓を握りしめて、立ち上がった。
「わたしがいないと、みんな、来るものがわからないでしょう?」
水無瀬は、何も書かなかった。ただ、俺の目を見て、深くうなずいた。それから、スケッチブックを探索服の胸ポケットに押し込んで、両手を空けた。歌うときの準備だ。
〈……金色のを、助けに行くのか〉
フードの中で、ルルがぼそりと言った。
〈あの者は、我を見て「なんだその毛玉」と言った。無礼な男だ〉
「知ってる」
〈……ふん。だが、我は反対はせぬ。寒いのは、いやなものだからな〉
ルルは、それきり黙って、フードの奥に丸まった。
灰原先生は、階段の前で生徒たちの誘導をしていた。九層へ、少しずつ、順番に。白黒の群れがいつ戻ってきてもいいように、先生たちが周りを固めている。
「先生」
「却下」
まだ何も言っていない。
「……御堂を、助けに行かせてください」
「却下だっつってんだろ。生徒を森に放り込めるか」
先生は振り返りもせずに言った。キャンディの棒が、口の端で苛立たしげに上下している。
「俺なら、聞こえます」
先生の動きが、止まった。
「黙者の声は聞こえない。でも、ノイズがどこで濃くなってるかはわかる。御堂は、たぶん、いちばん濃いところにいる。それに、森の影の声も聞こえる。影がどこに集まってるか、どこを避ければいいか」
「……真白」
「ひよりがいれば、危ないものは先にわかります。大河が盾になる。鷹宮は一組でいちばん強い。水無瀬の歌は、あのノイズを鎮められる。……俺たちが、いちばん、行ける」
先生は、長いあいだ黙っていた。
広場には、まだ百人以上の生徒がいる。先生たちの数は、ぜんぜん足りていない。黒崎は東の森で動けない。そして先生の右足は、森の中を走れるようにはできていない。
全部、わかっていて、言った。ずるいのは、わかっていた。
先生は、がり、とキャンディを噛み砕いた。
「……めんどくせえ」
低い声だった。
「生徒が勝手に動くのが、世の中でいちばんめんどくせえんだよ」
そう言って、先生は腰のポーチから何かを取り出し、俺の胸に押しつけた。無線機と、筒のような形の信号弾が一本。
「御堂を見つけたら、それを撃て。無理だと思ったら、御堂担いで逃げろ。逃げるのも仕事のうちだ。わかったな」
「……はい」
「鷹宮。お前がいちばん強え。だから、いちばん前には出るな。犬飼の隣だ」
「……はい」
「真白。お前がいちばん弱え。だから、いちばん後ろで聞いてろ。聞くのが、お前の仕事だ」
「はい」
先生は、俺たち五人の顔を、一人ずつ見た。最後に、俺のフードを見た。そこで少しだけ目を細めて、何も言わずに背を向けた。
「――行け。俺も、後から行く」
背中ごしに、それだけ聞こえた。
広場を出ようとしたところで、五組の連中が駆け寄ってきた。
「翻訳くん……行くの?」
佐伯だった。さっきまであれだけしゃべっていたのに、今は言葉を選ぶみたいに、ゆっくり話している。
「……ああ」
「そっか。……そっかぁ」
佐伯は何か言いたそうに口を開けて、閉じて、それから俺の肩をばしんと叩いた。
「絶対、帰ってきてよ! 帰ってこなかったら、あたし、一生しゃべり続けるからね! 翻訳くんの悪口を!」
「それは困る」
「でしょ!」
森田が、ポケットから何かを取り出して、俺の手に握らせた。小さな方位磁針だった。
「持ってけ。森の中じゃ、方角わかんなくなるだろ」
「……お前のじゃないのか」
「俺が持ってても、なぜか役に立たないんだよ、それ」
【方向音痴】の持ち主が言うと、妙に説得力があった。野々村は、もう何も言えずに泣いていた。泣きながら、ひよりの手をぎゅっと握って、それから離した。
広場を出るとき、権藤と細川の前を通った。
権藤が、顔を上げた。
「……なんでだよ」
かすれた声だった。
「お前ら、あいつのこと、嫌いなんじゃねえのかよ。あいつ、お前らのことずっと馬鹿にしてたじゃねえか。なのに、なんで……」
大河が立ち止まった。
「嫌いだぜ」
あっさりと、大河は言った。
「でも、それとこれとは別だろ」
権藤は、何も言い返さなかった。細川は、ずっと下を向いていた。
俺たちは、光る森の中へ踏み込んだ。
◇ ◇ ◇
森は、また静かになっていた。
さっきの白黒の群れは、黒崎のいる東の奥へ移っていったらしい。遠くで、ときどき、何かが崩れるような音がする。
ひよりが先頭を歩いた。【先触れ】のぞわぞわを頼りに、危ないほうを避けていく。俺はそのすぐ後ろで、耳を澄ませていた。
森田の方位磁針は、ちゃんと北を指していた。持ち主が変わると働くらしい。おかげで、東がどっちかもわかる。
大河が鷹宮と並んで、俺の前を歩いている。「腹は満タンだ。いつでもいけるぜ」と、さっきから三回言った。たぶん、自分に言い聞かせている。水無瀬は俺のすぐ隣を、足音を立てないように歩いていた。ときどき、俺の顔をちらりと見上げる。鼻血が止まっているか、確かめているのだと思う。
その力、あまり使うな。母親のようになりたくなければ。
黒崎の声が、頭の隅でまだ鳴っていた。
母さんのように。それは、どういう意味なんだろう。母さんは、この力を使いすぎたから、帰ってこなかったのか。それとも――
考えるのをやめた。今は、聞くのが仕事だ。
東の、でっかい木。ノイズの濃いところ。
ザ……ザザ……
かすかに聞こえる。少しずつ、近づいている。
そのとき、別の声が混ざった。
〈……異物、確認〉
足が止まった。
黙者のノイズじゃない。命令文だ。影の声。さっき〈退避〉と言って森から消えていった、あの影たちの声。
〈異物、排除。全個体、集結〉
〈侵入者、多数。包囲せよ〉
一つじゃなかった。右から。左から。頭の上の枝から。後ろの茂みから。
森中の影が、戻ってきている。白黒のノイズを追い払うために、迷宮が――まるで、身体に入り込んだ悪いものを追い出そうとするみたいに、影を次々と吐き出している。
そして、その影たちにとって、俺たちもまた、迷宮に入り込んだ「侵入者」だった。
「……湊くん」
ひよりの声が、震えていた。
「ぜんぶの方向から、ぞわっと、します」
木々のあいだに、光る目が浮かび上がった。
森狼の目。樹猿の目。一対、二対、十対、二十対。数えきれない。枝の上にも、茂みの奥にも、苔の陰にも。
大河が大盾を構え、鷹宮と背中合わせになる。ひよりが矢をつがえ、水無瀬が俺の袖をぎゅっとつかんだ。
「……何匹いるんだよ、これ」
「数えるな。数えたら、怖くなる」
「もう怖えよ!」
鷹宮が、白鷺の切っ先をわずかに持ち上げた。
「斬り開く?」
「無理だ。数が多すぎる。一か所に穴をあけても、すぐにふさがれる」
影たちの命令文が、重なり合って聞こえてくる。〈包囲、維持〉〈間合い、詰めよ〉〈一斉に、かかれ〉。一匹一匹は単純な言葉なのに、それが何十も重なると、巨大な一つの意志みたいに聞こえた。
輪が、じりじりと縮まってくる。
〈包囲、完了〉
俺たちは、影の大群の真ん中にいた。




