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第49話 置き去りの勇者

「点呼! 五組、全員いるか!」


 十層の入口、九層へ戻る階段の前の広場。森の中でいちばん開けたその場所に、一年生たちが次々と逃げ込んできていた。先生たちが階段の前に防衛線を張り、黒崎は東の森へ向かったきり戻ってこない。


 灰原先生が、五組の名簿を片手に怒鳴っていた。


「佐伯!」「はい!」「野々村!」「は、はい……」「早乙女!」「いるよー」「森田!」


「ここっす」


 森田は、広場のいちばん奥、階段のすぐ前に座っていた。誰よりも先に。


「……森田。お前、なんで一番乗りなんだ」


「いや、逃げてたら、気づいたらここにいて」


「お前、【方向音痴】だろうが」


「俺もそう思うんすけどね」


 森田本人が、いちばん不思議そうな顔をしていた。灰原先生は何か言いかけて、やめて、名簿にチェックを入れた。


 五組は、全員いた。


 俺たちルビも、広場の隅に固まっていた。鼻血はようやく止まったけれど、頭の奥ではまだ鈍い痛みが脈を打っている。水無瀬が、ポケットティッシュを袋ごと俺の手に押しつけてきた。それから、スケッチブックに短く書く。


『むりしないで』


 字が、少し震えていた。


「……悪い。ありがとな」


 ひよりは、大河の大盾の陰で膝を抱えていた。【先触れ】のぞわぞわが、まだ抜けないらしい。大河は鞄から栄養補助食品のバーを取り出して、包みを破っては口に放り込んでいる。三本、四本。食べられるうちに食べて、溜められるうちに溜めておく。【蓄積】の大河にとって、それは戦いの準備そのものだ。


 鷹宮は、一人だけ立ったまま、森の奥を見ていた。刀の柄から、手を離していない。


 問題は、一組のほうだった。


「御堂班、応答しろ。御堂班!」


 一組の担任の先生が、無線機に向かって繰り返している。雑音しか返ってこない。少しして、森の中から一組の生徒が三人、泣きながら駆け込んできた。御堂班の三人だ。


「は、はぐれました……! 途中で、みんなばらばらになって……!」


「御堂くんと、権藤くんと、細川くんが、まだ……!」


 広場の空気が、一段冷えた。


 俺は、森の奥を見つめた。光る木々が、どこまでも続いている。その向こうから、まだかすかに、ザ――という音が聞こえていた。




◇ ◇ ◇




 御堂海斗は、走っていた。


 逃げたかったわけじゃない。第二波が来たとき、先生たちは「階段まで下がれ」と叫んだ。でも海斗は、下がらなかった。勇者が真っ先に逃げてどうする。前に出て、群れを食い止めて、それで――それで、どうしたかったのかは、自分でもよくわからない。


 ただ、あの五組の連中の前で、二度と背中を見せたくなかった。


 気づいたときには、群れは前からではなく、横から、後ろから来ていた。押し返すどころか、追い立てられていた。森の奥へ、奥へ。


 光る葉が、頬をかすめて後ろへ流れていく。足元の苔がやけに滑る。息が苦しい。肺の中に、冷たい砂でも詰め込まれたようだった。


「御堂さん! ど、どこまで逃げるんすか!」


「うるせえ! 黙って走れ!」


 後ろから、権藤と細川の荒い息が聞こえる。一組の他の三人とは、とっくにはぐれていた。最初は六人で、白黒の群れに背後から追い立てられて、気づいたときには三人になっていた。


 ザ――――


 音が、ずっとついてくる。


 振り返るたびに、木々のあいだに白黒のものが見えた。狼の形。鹿の形。数はわからない。わかりたくもなかった。


 腰の無線機に手を伸ばした。ない。どこかで落としたらしい。


 巨木の根元で、海斗は足を止めた。


「……やるぞ。ここで迎え撃つ」


「え、えっ、マジっすか」


「俺は勇者だ。逃げ回るのは、性に合わねえ」


 剣を抜く。迷宮庁から支給された、白銀の剣。勇者の剣。父が、天啓の儀のあとに用意させたものだ。


「【勇者】!」


 叫んだ。


 いつもなら、この瞬間に、身体の中に何かが満ちてくる。熱い、明るい、どこまでも力が湧いてくる感覚。それが【勇者】だった。全能力に高い補正。人々の希望を背負う。


 ――来なかった。


 何も、満ちてこない。剣の刃が、ちかちかと頼りなく光って、すぐに消えた。


「……は?」


 もう一度。


「【勇者】!」


 空気が、おかしかった。


 ざらざらしている。息を吸うたびに、肌の上を砂が這うような感じがする。いつもは身体の周りにあって当たり前だった何かが、ノイズにかき乱されて、手を伸ばしても指のあいだからこぼれていく。


 出力が、上がらない。


 白黒の狼が、茂みから飛び出してきた。


 海斗は剣で受けた。重い。冷たい。腕の骨まで凍りつくような衝撃が来て、身体が後ろへ吹き飛ばされた。巨木の根に背中を打ちつける。左の足首に、嫌な痛みが走った。


「御堂さん!」


 立ち上がろうとした。足首が言うことを聞かない。剣を杖にして、なんとか膝をつく。


 ――四月と、同じだ。


 霞ヶ丘迷宮の五層。黙った石の巨人の前で、身体が動かなくなった。剣を握る手が震えて、一歩も前に出られなかった。鷹宮が一人で戦っていて、そこへあの外れどもが駆け込んできた。


 あの翻訳野郎は、何かを聞いていた。ノイズの中から、何かを拾って、叫んでいた。


 俺には、何も聞こえない。


「……む、無理だ」


 権藤が、後ずさった。


「こんなの、無理っすよ……! 勇者の力、出てねえじゃないすか!」


「待て、権藤……」


「勇者なら一人でなんとかしろよ!」


 細川が叫んだ。


 叫んで、背を向けた。権藤も続いた。二人の背中が、光る木々のあいだを転がるように遠ざかっていく。


「待てよ……」


 海斗の声は、自分でも驚くほど小さかった。


 二人は、振り返らなかった。


 白黒の狼が、ゆっくりと距離を詰めてくる。一匹。二匹。三匹。足音がしない。息づかいも聞こえない。ただ、ざらざらと揺れる輪郭だけが、近づいてくる。


 海斗は、巨木の根のあいだにできた窪みへ、這うように身体を押し込んだ。


 狭い。暗い。苔の匂いがする。背中に当たる木の根が、ごつごつと痛い。狼たちは窪みの入口をうろうろと嗅ぎまわり、それから、少し離れた場所で動きを止めた。待っている。獲物が出てくるのを。


 ――お前は勇者だ。二度と負けるな。


 父の声が、頭の中で鳴った。


 新人戦のあと、家の広い食卓で言われた言葉。父は、海斗の顔を見ずにそう言った。いつもそうだ。父は、海斗の顔を見ない。勇者という名前だけを見ている。


 天啓の儀の日、講堂は割れるような歓声に包まれた。Sランク。勇者。御堂長官の息子。その夜、父は珍しく早く帰ってきて、海斗の窓をしばらく黙って見つめていた。それから一言だけ、「そうか」と言った。


 あのとき、少しだけ嬉しかったのを覚えている。父が、自分を見てくれた気がしたから。


 でも、父が見ていたのは、窓の文字のほうだった。


 だったら、勇者じゃない自分は、何なんだ。


 剣の柄を、握りしめた。手が震えて、うまく力が入らない。寒い。夏なのに、骨の芯まで冷えていく。


 助けて、とは言わなかった。


 言ったところで、誰も来ないことを、海斗は知っていた。




◇ ◇ ◇




 権藤と細川が広場に転がり込んできたのは、それから十分ほどたったころだった。


 二人とも泥まみれで、顔が真っ青だった。権藤は膝ががくがく震えていて、細川は誰とも目を合わせようとしなかった。


「御堂は!」


 一組の担任が詰め寄る。


「……お、置いて……」


 権藤の声がかすれた。


「置いてきちまった……。御堂さん、足、やられてて……勇者の力も出なくて……オレら、怖くて……」


 広場が、しんとなった。


 細川が、うつむいたまま、小さく付け足した。


「東の、でっかい木のとこ……。白黒の奴らに、囲まれてて……」


「なんで一緒に逃げてこなかったんだ!」


 一組の担任の声が裏返った。権藤がびくりと肩を縮める。


「だって……だって、御堂さん、勇者なんすよ……! オレらより、ずっと強えはずなんすよ……! なのに、全然、力が出てなくて……オレら、どうしていいか……」


 言い訳だった。たぶん、本人たちもわかっている。わかっているから、二人とも、泥だらけの靴の先ばかり見ていた。


 灰原先生が、無線機をつかんだ。


「黒崎さん、聞こえるか。御堂が東の森で孤立してる。……ああ? そっちも手一杯?」


 無線の向こうから、平らな声が途切れ途切れに返ってくる。東の森で、黙者の本隊を足止めしている。今は動けない。そういう内容だった。


 先生たちが顔を見合わせた。広場には、まだ百人以上の生徒がいる。九層へ避難させるには、先生全員の手がいる。白黒の群れがいつ戻ってくるかもわからない。


 誰も、すぐには動けなかった。


 俺は、森の東を見た。


 光る木々の向こう。黒崎が向かったのとは、少し違う方角。ノイズがいちばん濃く聞こえる場所。


 御堂が、一人で、あそこにいる。


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