第48話 断絶の黒崎
悲鳴が、森の天井に跳ね返った。
白黒の獣たちが、木々のあいだから一斉になだれ込んでくる。狼の形をしたものが先頭で、そのあとに鹿の形、猿の形。どれも、輪郭がざらざらと揺れていた。
ザ――――
「来るぞ! 大河、前!」
「おう!」
大河が大盾を構えた。そこへ、白黒の狼が真正面から体当たりしてくる。がつん、と鈍い音がして、大河の足が苔の上を半歩滑った。
「つめてっ……! なんだこいつ、盾越しでも冷てえ!」
予告が、聞こえない。
四月の合同踏破のときと同じだ。命令文がない。次に何をしてくるのか、まったくわからない。耳の中にあるのは、砂をこすり合わせるような雑音だけだった。
「来ます、左! 二匹!」
ひよりが叫んだ。震えてはいるけれど、声ははっきりしている。鷹宮が左へ跳び、白鷺がひらめいた。白黒の狼が二匹、まとめて斬り裂かれ――
斬られた場所から、ノイズがじわじわと繋がっていく。
「……再生してる」
鷹宮の声が低くなった。
反対側の隣の区域からも、悲鳴が聞こえてくる。五組の班だ。佐伯の声がした。「翻訳くん! こっちにも来てる!」。森田が「どっち!? どっちに逃げればいい!?」と叫んでいる。野々村は泣いている。泣きながら、それでも短剣を握っている。
――聞け。
俺は、目を閉じた。
四月。五層のボス部屋。黙った石の巨人のノイズの奥に、ほんのわずか、命令文の切れ端が残っていた。あのとき、俺はそれを拾った。
だったら、今も。
ザ――――ザザ――――
雑音の、もっと奥。砂嵐の、いちばん底。
〈……ザ……み、ぎ……ザザ……〉
「右だ! 佐伯、右から来る!」
「えっ、うそ、ほんとに来た!」
〈……とび……ザ……〉
「跳ぶぞ! 森田、伏せろ!」
森田が苔の上に転がった。その頭上を、白黒の猿が飛び越えていく。
頭が、きしんだ。
こめかみの奥に、太い釘を一本ずつ打ち込まれていくみたいだった。雑音の底を探るたびに、それが一本ずつ増えていく。鼻の奥が熱い。何かが、つう、と唇の上を流れた。
「湊! お前、鼻血!」
「いい、続ける」
「よくねえよ!」
大河の声が遠い。足元がふらつく。それでも、俺は耳を澄ませた。聞くのをやめたら、誰かが怪我をする。
〈我は……我は隠れているのではないぞ、湊……戦略的に、待機しているのだ……〉
フードの中で、ルルががたがた震えながら言った。こんなときでも見栄を張るのか、と思ったら、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
そのとき。
俺たちと獣の群れのあいだに、黒いものが割り込んだ。
黒いコート。
黒崎は、走ってきたわけではなかった。ただ、歩いてきた。散歩でもするみたいに、白黒の獣の群れの真正面へ。
「下がれ」
短く、それだけ言った。
白黒の狼が、黒崎に向かって跳んだ。
黒崎は、右手を軽く持ち上げた。
「【断絶】」
――音が、消えた。
一瞬だけ。森の中から、すべての音が抜け落ちた気がした。小川の音も、悲鳴も、ノイズさえも。
次の瞬間、俺の耳に聞こえたのは、何かが切れる音だった。
ぷつん。
ぷつん、ぷつん、ぷつん。
糸だ。目に見えない、無数の糸。白黒の獣の一匹一匹から伸びていた何かが、まとめて断ち切られていく。
跳びかかってきた狼が、空中でばらばらにほどけた。
ほどける、というより、崩れた。砂でできた城に、上から水をかけたみたいに。ざらざらの体が輪郭を失って、白と黒の粒になって、苔の上に降り注いで――そして、何も残らなかった。魔石も、光の粒も。
黒崎が、一歩進む。
ぷつん、ぷつん。
また何匹かが崩れる。
黒崎が、もう一歩。
崩れる。崩れる。崩れる。
黒崎の顔は、最初から最後まで、少しも変わらなかった。汗ひとつかいていない。真夏に黒いコートを着ているのに、だ。
俺たちが必死に食い止めていた群れが、三十秒もたたないうちに、半分以下になっていた。
「……な、なんだよ、あれ」
大河が、盾を構えたまま呆然とつぶやいた。
圧倒的だった。強い、という言葉では、たぶん足りない。
残りの群れは、木々の奥へ退いていった。遅れて、先生たちが駆けつけてくる。灰原先生が、右足を引きずりながら、それでも誰より早く、俺たちの前に滑り込んできた。
「怪我人は!」
「だ、大丈夫です、たぶん……!」
ひよりが答える。先生はうなずいて、俺の顔を見て、一瞬だけ顔をしかめた。鼻血のせいだ。
隣の区域から、佐伯たちが転がるように駆け寄ってきた。
「翻訳くん! さっきの、なんでわかったの!? 右とか、跳ぶとか!」
「……なんとなく」
「なんとなくで鼻血出す人いないよ!?」
「た、助かった……マジで助かった……」
森田が眼鏡を押し上げながら、何度も頭を下げた。その後ろで、野々村が「よかったぁ……みんな、無事でよかったぁ……」と、また泣いていた。今日はたぶん、泣いていい日だ。
「……おい、見ろよこれ」
大河が、大盾の表面を指さした。白黒の狼を受け止めたあたりに、びっしりと霜がついている。七月の終わりの、迷宮の森の中で。
「かき氷できそうだぜ」
「……食べないで」
鷹宮が、真顔で言った。それから、刀を鞘に納めながら、黒崎の背中に目をやった。
「教官のスキルよ。【断絶】」
「断絶?」
「あらゆる繋がりを断ち切る。……訓練で、一度だけ見せられたことがある」
鷹宮は、自分の手のひらを見下ろした。
「私の冷気も、あの人の前では切られた。剣と私のあいだにある何かを、ぷつりと。……しばらく、刀がただの鉄の棒みたいに感じた」
繋がり。
俺は、さっきの音を思い出していた。ぷつん、ぷつんと切れていった、目に見えない糸。あれは、どこへ伸びていたんだろう。
足元の苔を見る。白黒の粒が降り注いだあたり。その下の、ずっと深いところ。
糸は、地面の奥へ向かっていた気がした。迷宮の、もっと底のほうへ。まるで、獣たちが操り人形で、その糸の先を誰かが――何かが、握っていたみたいに。
一組の生徒の一人が、黒崎に向かって叫んだ。
「な、何なんですか、あれ! あんな魔物、教科書に載ってない!」
黒崎は、群れが退いた森の奥を見つめたまま答えた。
「あれは黙者」
平らな声だった。
「沈黙に食われた魔物だ」
「しじま……?」
誰かが聞き返した。黒崎は振り返りもしなかった。
「知る必要はない。今は、退け」
黙者。
四月から、ずっと名前のなかったもの。声のない魔物。ノイズの体の、あの獣たち。
それに名前があった。しかも、迷宮庁の人間が、それを当たり前のように知っていた。
それに――しじま。
どこかで聞いた響きだった。思い出すまでに、少しかかった。四月、合同踏破のあと。白黒の狼のことを思い出したルルが、自分でも意味がわからないまま、ぽつりとつぶやいた言葉。
俺はフードを見た。ルルは、毛を逆立てたまま、ぎゅっと目を閉じていた。
ハンカチで鼻を押さえていると、黒崎がこちらへ歩いてきた。
俺の横で、足を止める。昨日の廊下と同じだった。
「真白湊」
「……はい」
「その力、あまり使うな」
黒崎の目は、俺の鼻血を見ていた。
「母親のようになりたくなければ」
一瞬、言われた言葉の意味がわからなかった。
「……母さんを、知ってるんですか」
黒崎は答えなかった。俺の問いが聞こえなかったみたいに、ただ前を向いて、通り過ぎていく。
なんで。
なんで、この人が、母さんのことを。
追いかけようとした、そのときだった。
ザ――――――
さっきよりずっと大きなノイズが、森の東側から押し寄せてきた。
「第二波! 東から来るぞ!」
先生の誰かが叫ぶ。森が、またざわめいた。白黒の獣が、今度は別の方向から、木々をなぎ倒してあふれてくる。
逃げ惑う生徒たち。先生たちの怒鳴り声。黒崎のコートが、東へ翻る。
その混乱の向こう――御堂たちのいた区域の、さらに奥。
明るい茶髪が見えた。
御堂たちの班だ。白黒の群れに背後から追い立てられて、森のいちばん深いほうへ、走っていく。
「御堂班、応答しろ! 御堂班!」
灰原先生が無線機に怒鳴っている。返事はない。
茶髪の頭は、光る木々のあいだに飲み込まれて、すぐに見えなくなった。




