第47話 静かすぎる森
「……何も、来なかったな」
朝の食堂で、大河がトーストをかじりながら言った。五枚目だ。
昨夜、ひよりが跳ね起きたあと、ベンチで寝ていたはずの灰原先生が、誰より早く芝生に駆けつけてきた。ほとんど同時に、どこからか黒崎も現れた。二人は迷宮の入口まで行って、しばらく中をのぞき込んでいた。
何も出てこなかった。
ただ、俺だけは聞いた気がした。入口の暗がりの奥から、ほんの一瞬だけ。
ザ……という、音。
ラジオの周波数が合っていないときのような、ざらついた雑音。四月の、合同踏破の日に聞いたのと同じ音だった。
すぐに消えた。耳を澄ませても、もう何も聞こえなかった。でも、そのことは灰原先生にだけ伝えた。先生の顔は、あの日の――三層の報告をしたときと、同じ顔になった。
「ご、ごめんなさい……わたしの、勘違いだったのかも……」
ひよりは、ほとんど朝食に手をつけていなかった。
「勘違いじゃないだろ。ひよりのぞわっとは、外れたことがない」
「でも、何も来ませんでした……」
「来なかっただけだ」
俺が言うと、ひよりは小さくうなずいた。水無瀬が、ひよりの皿にそっと自分の卵焼きを一切れ乗せた。卵焼きは、水無瀬の好物だ。それを分けるのは、たぶん、水無瀬なりのいちばんの励ましだった。
食堂の入口のほうから、声が聞こえてきた。
「予定は変更しない」
黒崎だった。学年主任と灰原先生を前に、平らな声で言っている。
「黒崎さんよ。ガキの勘ってのは、馬鹿にできねえぞ」
「承知している」
黒崎は表情一つ変えなかった。
「だから、私が同行する」
◇ ◇ ◇
迷宮の中に、森があった。
九層から続く長い階段を降りきった瞬間、俺は足を止めた。後ろから来た大河が、俺の背中にぶつかって「うおっ」と声を上げ、その大河も、すぐに黙った。
木だった。
見渡すかぎり、木が生えていた。白っぽい幹がまっすぐ上へ伸びて、はるか頭上で枝葉を広げている。その葉っぱが、うっすらと光っていた。緑色の、やわらかい光。地面は一面の苔で、足を下ろすとふかふかと沈む。どこかで、小川の流れる音がする。
空はなかった。代わりに、ずっと高いところに迷宮の天井があって、そこに生えた苔が、曇り空みたいにぼんやりと白く光っている。
「……迷宮の中に、森って」
大河がつぶやいた。
「どうなってんだ、これ」
「わ、わかんないです……でも、きれい……」
ひよりが、口を半開きにして見上げている。水無瀬はもうスケッチブックを開いて、すごい速さで鉛筆を動かしていた。目が輝いている。描きたくてたまらない、という顔だった。
奥多摩迷宮、十層から十五層。森林層。
教科書の写真で見るのと、本物はまるで違った。
「各班、指定区域で実地訓練を開始。範囲外には出るな。異常があれば、すぐに無線で報告しろ」
黒崎の声が、森の静けさを切った。
一年生は班ごとに、決められた区域に散っていく。先生たちが要所に立ち、黒崎はいちばん奥の区域へ向かった。俺たちルビには、無線機が一台渡された。魔石で動く、迷宮用の通信機だ。
御堂たちの班は、隣の区域だった。御堂は権藤と細川、それに一組の何人かを連れて歩いていたが、境目の大木の前で立ち止まり、こっちを振り返った。
「おい、翻訳野郎。こっちの区域に一歩でも入ってきたら、そこで倒した分は全部俺の手柄だからな」
「さすが御堂さん!」
「勇者様の区域っすからね!」
権藤と細川が、いつもどおり調子を合わせる。俺は何も言い返さなかった。言い返す気にならなかった、というほうが近い。
近くで見た御堂の目の下に、うっすらと隈ができていた。昨夜、石段で一人スマホを見つめていた横顔を思い出す。声も、どこか張りつめている。いつもの傲慢さに、焦りみたいなものが混ざっていた。
御堂は舌打ちをひとつして、森の奥へ歩いていった。
「……あいつ、昨日寝てねえのかな」
大河がぼそりと言った。大河はああ見えて、人の顔色にはよく気づく。
「さあな」
俺はそれだけ答えた。気になったけれど、気にしてどうなる相手でもなかった。
「よし、行こうぜ!」
大河が大盾を構え直して、苔の上を歩き出した。
森の影は、霞ヶ丘とも多摩川とも違っていた。
〈侵入者、確認。枝上、待機〉
「上だ。木の上に何かいる」
見上げると、枝の上に、細長い腕をした猿のようなものが三匹、じっとこちらをうかがっていた。樹猿だ。枝から枝へ飛び移って、上から襲ってくる。
〈落下、急襲。中央を狙え〉
「真ん中を狙ってくるぞ! 大河、盾を上に!」
「おう!」
落ちてきた樹猿を大河の盾が弾き、そこを鷹宮の刀が斬る。ひよりの矢が、逃げようとした一匹を枝ごと射落とした。
順調だった。
森の中は歩きにくいけれど、命令文はよく聞こえる。木々のあいだを抜けてくる森狼も、樹猿も、ちゃんと動く前に予告してくれる。
休憩のとき、水無瀬がスケッチブックを見せてくれた。さっきの階段の下から見上げた森の絵だった。光る葉っぱの一枚一枚まで、細かく描き込んである。鉛筆一本なのに、ちゃんと光って見えた。
『ここ、また来たい。今度は、ゆっくり』
「……合宿じゃないときにな」
水無瀬はうなずいて、絵の隅に小さく五人と一匹を描き足した。全員、木の根元で弁当を食べていた。大河の弁当だけ、やたらと大きかった。
十二層に降りたころ、鷹宮が、急に立ち止まった。
苔の上に、丸いものがいくつも転がっている。白っぽくて、ふわふわしていて、手のひらくらいの大きさ。
苔の玉だった。どうやら、そういう植物らしい。
「……ルルが、たくさん」
鷹宮が、小さな声で言った。
「違う。苔だ」
「わかってる」
わかっている、と言いながら、鷹宮はしゃがみこんで、苔玉の一つを指でつついていた。それから、俺のフードを見上げた。
〈我をあのような草と一緒にするでない〉
ルルが憤慨して、きゅいきゅい鳴いた。鷹宮は、その鳴き声を聞いて、なぜか満足そうな顔をした。
……まあ、いいけど。
異変に気づいたのは、十三層の奥へ入ったときだった。
〈侵入者、確……ザ……〉
足が止まった。
前方の茂みから、森狼が一匹、姿を見せていた。いつもなら次の命令文が聞こえてくる。〈飛びかかり、右〉とか、〈包囲、開始〉とか。
〈……ザザ……認……ザ――〉
声が、途切れていく。
森狼は牙をむいたまま、こちらを見ていた。それから、ぴたりと動きを止めて――くるりと背を向け、森の奥とは反対の方向へ、駆け去っていった。
「……逃げた?」
大河が首をかしげる。
影は、逃げない。少なくとも、俺はそんなもの聞いたことがない。命令がなければ、影は動かない。命令があれば、その通りに動く。それだけのはずだ。
だったら、今のは――
〈全個体……退避……〉
遠くから、かすかに聞こえた。一匹の声じゃない。森のあちこちから、同じ命令文が、重なり合うように響いている。
〈退避。退避。退避〉
影たちが、逃がされている。迷宮そのものが、自分の作った人形たちを、どこかから遠ざけようとしている。
そして、その声も、一つずつ消えていった。
静かになった。
小川の音は、まだ聞こえる。でも、それ以外が何もない。枝の上で葉がこすれる音も、遠くの影の気配も。木々のあいだを抜けていた、やわらかい風さえ、止まっていた。
静かすぎる。
四月の三層と、同じだった。
ルルが、フードの中で震え出した。〈いやだ……湊……この感じ、いやだ……〉
「ひより」
振り返ると、ひよりがその場に膝をついていた。
両腕で自分の身体を抱きしめている。歯が、かちかちと鳴っていた。今まで見たどの【先触れ】よりも、ひどい震え方だった。
「何か……来ます……」
かすれた声だった。
「大きい……それに、たくさん……すごく、たくさん……っ」
水無瀬がひよりの背中を抱きかかえた。鷹宮が刀を抜く。大河が大盾を前に構える。俺は無線機をつかんだ。
「こちらルビ、十三層! 異常発生、何か大きいのが――」
言い終わる前に、森の奥で、木が鳴った。
めきめき、と。
何本もの幹が、一度にへし折れていくような音。それが、だんだん近づいてくる。
別の区域から、悲鳴が上がった。
木々のあいだから、それが現れた。
狼の形をしたもの。鹿の形をしたもの。猿の形をしたもの。どれも、白と黒の砂嵐でできていた。テレビの映らないチャンネルみたいな、ざらざらと揺れる体。
ザ――――
俺の耳には、あの音しか聞こえなかった。
一匹じゃない。十匹でも、二十匹でもない。
森の奥を埋め尽くすほどの、声のない獣の群れだった。




