第45話 奥多摩合宿、開始
バスの中でいちばんうるさいのは、たぶん俺のフードの中だった。
〈湊! 湊! この箱、走っておるぞ! 山が! 山が後ろへ流れていく!〉
「……静かにしろ。バスってのは、そういうもんだ」
〈なんと。人の子は、山を後ろへ流す箱を作ったのか。恐ろしい種族よ〉
流しているのは山じゃなくて、俺たちのほうだ。説明するのはあきらめた。
夏合宿の初日。一年生全員を乗せたバスが五台、連なって奥多摩の山道を登っている。五組のバスの中は、行楽地に向かう遠足みたいなにぎやかさだった。
「なあ湊、これ食う? うまいぜ」
隣の席の大河が、ポテトチップスの袋を差し出してきた。膝の上には、同じ大きさの袋があと四つ積んである。
「……それ、全部お前の?」
「おう。三泊四日分の非常食だ」
「たぶん、今日の昼で尽きる」
「尽きたら、そのとき考える!」
通路を挟んだ向かいの席では、ひよりと水無瀬が並んで座っていた。水無瀬は窓の外の山並みをスケッチブックに描いていて、ひよりがそれをのぞき込んでは「わあ……」と小さく声を上げている。
前のほうの席では、佐伯がずっとしゃべっていた。誰に、というより、バス全体に向かってしゃべっていた。昨日見たドラマの話、奥多摩の名物の話、合宿の夜に何が起きるかの予想。
「ねえねえ、絶対あるよね、恋バナ大会! あたし司会やるから!」
「誰も頼んでねえ……」と、誰かが寝言みたいに返している。
そして、いちばん前の席では、灰原先生が眠っていた。腕を組んで、口を半開きにして、それでもキャンディの棒だけはくわえたまま。
……寝ながらなめているのだろうか。器用な人だ。
とんとん、と肩をつつかれた。通路の向こうから、水無瀬がスケッチブックを差し出している。
山並みの絵だった。鉛筆の線だけなのに、緑の濃さまで伝わってくる。その山道を、豆粒みたいなバスが登っていて、窓から白い毛玉が身を乗り出していた。
『ルルちゃん、すごくうれしそう』
「うれしそうっていうか、うるさい」
水無瀬は声を出さずに笑って、毛玉の横に『!!』と描き足した。ルルは自分の絵だと気づいたらしく、〈我の雄姿である〉とフードの中でふんぞり返った。
◇ ◇ ◇
奥多摩迷宮の入口は、山の中腹にあった。
切り立った崖に、縦長の大きな裂け目が口を開けている。周りは高いフェンスで囲まれていて、そのすぐ脇に、白い三階建ての建物が建っていた。迷宮庁奥多摩研修所。今日から三晩、俺たちが寝泊まりする場所だ。
バスを降りると、蝉の声が頭の上から降ってきた。川の音もする。空気が、霞ヶ丘よりずっと濃い。
研修所前の広場に、一年生全員が整列した。ルビの五人は、特例の関係で、五組の列の端にまとめて並ばされている。学年主任の先生が、合宿の日程を読み上げる。
「一日目の今日は、一層から九層での基礎訓練。二日目は、十層から十五層の森林層での実地訓練。三日目は――」
森林層。
迷宮の中に、森がある。教科書で写真を見たことはあるけれど、本物はまだ見たことがない。森林層の主は白鹿と呼ばれる白い大鹿で、めったに姿を見せない、と書いてあった。
「――なお、新人戦優勝パーティ『ルビ』については、特例として、パーティ単位での行動を許可する」
一組の列のほうから、ざわめきが起きた。
「なんで五組だけ特例なんだよ」
「鷹宮さんまで五組と一緒とか……」
ひそひそ声。その中で、ひときわ大きな舌打ちが聞こえた。
御堂だった。権藤と細川に挟まれて、腕を組んでこっちを睨んでいる。新人戦の決勝から、もう一か月以上たつ。あれ以来、廊下ですれ違っても、御堂は何も言ってこなかった。ただ睨むだけだ。前より、ずっと険しい顔で。
「せいぜい足引っ張るなよ、外れども」
小声だったのに、はっきり聞こえた。
「――最後に。今回の合宿には、迷宮庁から特別講師をお招きしている」
学年主任が一歩下がった。
代わりに前へ出てきたのは、黒いコートの男だった。
七月の終わりの、蝉がうるさいくらいの真昼に、黒いコート。短い黒髪。表情が、ない。怒っているわけでも、退屈しているわけでもない。ただ、顔の筋肉を一本も動かしていない。
「迷宮庁の黒崎だ」
低くて、平らな声だった。
「以上」
……以上?
広場が、しんとした。学年主任が慌てて「黒崎さんは、迷宮探索の第一線でご活躍されている方で……」と付け足している。
「夏なのに、コート……」
「暑くないのかな……」
前の列で、誰かがささやいた。俺もまったく同じことを思っていた。
隣で、鷹宮の肩がわずかにこわばった。
「……教官」
小さく、鷹宮がつぶやく。
そうだ。迷宮庁の特別育成生。その訓練をしている教官がいると、前に聞いたことがある。
黒崎の目が、列をゆっくりと横切っていった。一組から、二組、三組、四組。そして、五組。
止まった。
俺の上で。
ほんの一秒くらいだったと思う。でも、その一秒で、全身を物差しで測られたような気がした。身長、体重、スキル、それから、もっと奥のほうまで。
目は、すぐに逸れた。
フードの中で、ルルがきゅっと身を縮めるのがわかった。
〈……湊。あの男、変な匂いがする〉
「匂い?」
〈何かを、ぷつりと切る匂いだ。糸でも、縄でもない、もっと見えぬものを〉
ルルの毛が、ぶわりと逆立っていた。いつもなら「我に恐れるものなどない」と言い張るくせに、今日は何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
一層から九層までの訓練は、拍子抜けするくらい順調だった。
奥多摩迷宮の上のほうの層は、乾いた岩の通路が続いている。出てくるのは、苔に覆われた背中の岩猪や、天井に張りつく大きな蜘蛛。霞ヶ丘よりは強いけれど、多摩川迷宮で鍛えたあとだと、手に負えないほどじゃない。
〈侵入者、確認。突進、正面〉
命令文だ。影だ。
灰原先生から聞いたあの言葉を、俺はいつの間にか、頭の中で使うようになっていた。命令文しか言わないものは、影。迷宮が作った、意思のない人形。
確かめるように耳を澄ますたび、少しだけほっとする。それが少しだけ、後ろめたかった。
「大河、正面で受けろ! 鷹宮、右から――大河の隣!」
「おう!」
「……わかってる」
大河の盾が岩猪の突進を止め、そのすぐ右から鷹宮が踏み込む。背中に、白い氷の羽根がふわりと開いた。多摩川迷宮のときより、少しだけ大きい。
「次、来ます! 上です、五秒後!」
ひよりの矢が、天井の蜘蛛の糸を射切った。落ちてきた蜘蛛を、俺の短剣が受け止める。
水無瀬が小さく手を振った。歌はいらない、という合図だ。歌うと疲れるから、本当に必要なときまで取っておく。四人で――いや、五人で決めた約束だった。
九層の階段の前まで来たとき、そこに黒崎が立っていた。
各班の到着を確認する役らしい。手元の端末に、何かを打ち込んでいる。
「ルビ。到着」
感情のない声で読み上げてから、黒崎は鷹宮を見た。
「鷹宮」
「……はい」
「群れているそうだな」
鷹宮の指先が、刀の柄の上でぴくりと動いた。
「並んでいるだけです」
まっすぐな声だった。
黒崎は何も言わなかった。端末に、また何かを打ち込む。それだけだった。
階段を登りながら、大河が小声で言った。
「……なんか、怖え人だな」
「わ、わたし、ずっとぞわぞわしてました……」
「ひより、それ【先触れ】か?」
「たぶん、ただ怖かっただけです……」
ひよりの【先触れ】と、ひよりの普通の怖がりは、本人にも区別がつかないことがある。今回は、たぶん普通のほうだ。
◇ ◇ ◇
夕食はカレーだった。
大河は四回おかわりして、食堂のおばちゃんに「あんた、どこに入ってんの」と真顔で聞かれていた。ルルは俺のフードの中で、福神漬けを一枚だけ要求して、一口かじって〈しょっぱい〉と吐き出した。
部屋に戻る途中、研修所の長い廊下で、向こうから黒いコートが歩いてきた。
俺は壁際に寄った。すれ違うだけだ。何も起きない。
――黒崎の足が、俺の真横で止まった。
見下ろされる。近くで見ると、思っていたより若い。二十代の後半くらいだろうか。でも、目の奥だけが、ずっと年をとっているように見えた。
「君が、真白湊か」
それだけだった。
返事をする前に、黒崎はもう歩き出していた。
黒いコートの裾が、廊下の角を曲がって見えなくなる。足音も、すぐに聞こえなくなった。
俺は、誰もいなくなった廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。
――どうして、俺の名前を知っている。




