第44話 影と住人
ばきり、と飴の割れる音がした。
月曜日の放課後。職員室の隣の、狭い準備室。灰原先生は回転椅子に浅く座ったまま、口の中のキャンディを噛み砕いていた。
いつもなら、飴は最後までなめる人だ。噛むのは、嘘をつくときか、照れたときか。それとも、よっぽど――
「……真白。その話、誰かにしたか」
「ルビのみんなだけです。一緒にいたので」
「そうか」
先生は、棒だけになったキャンディを指でくるりと回した。だるそうな目が、だるそうじゃなくなっていた。
「それは迷宮庁の機密だ」
予想していた答えだった。予想していたのに、背中がすっと冷えた。
「機密でもいいです。知りたいんです」
「知ってどうする」
「わかりません。でも、知らないまま、また迷宮に潜るのは嫌です」
先生はしばらく俺の顔を見ていた。それから、深く、深くため息をついた。立ち上がって、準備室の扉を閉め、ブラインドを下ろす。右足を少し引きずる音が、静かな部屋に響いた。
「……他言無用だ。ルビの連中以外にはな」
「はい」
先生は新しいキャンディの包みを剥いて、口に放り込んだ。
「迷宮に出る魔物にはな、二種類いる」
二種類。
「一つは、迷宮が作るもんだ。魔素を固めて、形を与えて、動かす。人形みてえなもんだな。意思はねえ。命令で動いてる。倒せば魔石を残して消える。……知ってる連中のあいだじゃ、こいつを影と呼んでる。世間じゃ魔物をひっくるめて影って呼ぶ奴も多いけどな。本当に影なのは、こっちだけだ」
影。
俺たちも、ずっと何の気なしに使ってきた言葉だった。
俺の頭の中で、四月からずっと聞いてきた声が、一斉に鳴った。〈侵入者、確認〉〈体当たり、右〉〈鋏、挟み込み〉。短くて、そっけなくて、感情のない言葉。
「お前がいつも聞いてる命令文。あれが、影の中身だ」
「……もう一つは」
「もう一つは、どっかから来た連中だ」
先生は、窓のほうを――ブラインドの隙間を、見るともなく見た。
「言葉がある。暮らしがある。腹も減るし、怪我もするし、泣きもする。倒しても魔石にはならねえ。……住人、って呼ばれてる。人型魔物ってのは、たいてい住人のことだ」
ピノの泣き顔が浮かんだ。ラムネを口に入れて、耳をぴくぴくさせていた顔が。
「どっかって、どこですか」
「知らねえ。迷宮の、もっと奥のどっかだろ。……知ってる奴も、いたかもしれねえがな」
「迷宮庁は、知ってるんですか」
「知ってる。知ってて、公表してねえ」
淡々とした声だった。それが余計に重かった。
「なんで」
「さあな。混乱するから、だろ。魔石は社会の燃料だ。その魔石を取るために、毎日何万人も迷宮に潜ってる。そこに『実は言葉の通じる相手もいました』なんて話が出てみろ。めんどくせえことになる」
めんどくせえこと。先生がいつも言う言葉なのに、今日だけは、ちっとも冗談に聞こえなかった。
「見分ける方法は、ないんですか」
「普通の奴にはねえよ。影も住人も、人間の耳にはりぃんとしか聞こえねえんだから。人の形をしてりゃ住人のことが多い、ってくらいだ。それだって、当てにはならねえ」
先生は、キャンディの棒の先で俺を指した。
「ちゃんと聞き分けられたのは、俺の知る限り、一人だけだった。……今は、二人になったな」
誰のことかは、聞かなくてもわかった。
「……先生は、なんでそんなこと知ってるんですか」
先生は、少しだけ黙った。
「昔、お前の母さんと、仕事で一緒だったことがある」
「はい」
「お前の母さんは、住人と話してた。【通訳】でな。俺は横で見てただけだ」
息が止まった。
母さんが。
「小鬼族のガキに、迷宮文字の読み方を教わってたこともある。研究者が逆だろって笑ったら、あの人、言葉は誰からでも習えるのよ、ってな。けろっとした顔で」
先生の口の端が、ほんの少しだけ上がった。懐かしいものを見るときの顔だった。
「母さんの研究は……」
「公表されなかった」
先生はキャンディの棒を噛んだ。
「……されなかったんだよ」
それ以上は、聞けなかった。聞いてはいけない気がした。
「それと、真白。今日の話は、外で言うな。住人を見たってこともだ。迷宮庁に目ぇつけられる」
「……はい」
「まあ、お前はもう、とっくにつけられてるけどな」
「え」
「なんでもねえ。独り言だ」
先生は、本当に独り言みたいにそっぽを向いた。聞き返しても、たぶん答えてくれない。この人の「なんでもねえ」は、だいたい、なんでもなくない。
準備室を出る前に、一つだけ尋ねた。
「先生。ルルは、どっちなんですか」
先生は回転椅子をくるりと回して、俺に背中を向けた。
「俺は何も見てねえ。最初からな」
四月とほとんど同じ答えだった。
◇ ◇ ◇
「――じゃあ、ピノみたいな奴が、魔物ってことで狩られてたのかよ」
部室。全部を話し終えたとき、最初に口を開いたのは大河だった。握った拳が、膝の上で震えている。
「……たぶん、な」
「ふざけんなよ……」
大河の声は低かった。怒鳴るより、ずっと怖い声だった。
ひよりは、目に涙をいっぱいにためていた。
「ピノくん、おかあさんって、泣いてました……。うちの末っ子も、迷子になったとき、ああやって泣くんです。おんなじ、でした……」
水無瀬が、スケッチブックに書いた。
『ピノくん、ちゃんと帰れたかな』
その下に、小さな絵。大きな耳の子どもが、誰かに抱きしめられている。顔は描かれていない。でも、それがピノの母親だということは、誰が見てもわかった。
水無瀬は少し迷うようにペンを止めてから、もう一行、書き足した。
『言ってることが、ちがうふうに聞こえるの、すごくつらいと思う』
その字は、いつもより少しだけ、筆圧が強かった。
声が出ないだけで、無視していると言われてきた水無瀬。泣いて母親を呼んでいるのに、ただの鳴き声だと思われてきたピノ。
……同じじゃない。同じじゃないけれど、水無瀬にしかわからない痛みが、きっとそこにはあるんだと思った。
俺は、ずっと考えていたことを口にした。
「……俺さ。今まで、魔物を倒すの、何とも思ってなかった」
みんなが、俺を見た。
「命令文しか言わないから。人形みたいなもんだって、なんとなく感じてた。先生の話だと、それは合ってたんだと思う。影には、意思がない。でも――」
もし、また、ピノみたいな相手に出会ったら。
俺が聞き逃したら。俺が聞き間違えたら。
「影は斬る」
静かな声が、俺の考えを断ち切った。
鷹宮だった。腕を組んで、窓際の壁にもたれている。
「住人は斬らない。……それでいいでしょう」
簡単なことみたいに、鷹宮は言った。
「区別がつかないなら、つく人に聞けばいい。あなたの耳は、そのためにあるんでしょう」
「……鷹宮」
「だから」
鷹宮は少しだけ目を伏せた。
「次は、私の手を止めて。あのときみたいに」
十二層の洞穴で、俺が押さえた手首。冷たかったけれど、凍ってはいなかった手。
「……ああ。止める」
「だな」
大河が、ぱん、と膝を叩いた。
「影はぶっ飛ばす。住人とは話す。湊が聞き分ける。それでいこうぜ。簡単だ」
簡単、か。
たぶん、本当は全然簡単じゃない。でも、大河がそう言ってくれると、少しだけ息がしやすくなった。
「わ、わたしも、ぞわっとしたら、すぐ言います。相手が怖がってるときも、なんとなく、わかる気がするので」
ひよりが涙をぬぐいながら言った。水無瀬がこくこくとうなずいて、スケッチブックに丸を描いた。
フードの中で、ルルがもぞもぞと動いた。
〈……湊。我も、住人というものなのか〉
「……かもな」
ルルは言葉を話す。意思がある。地上に出ても崩れない。先生の説明に当てはめるなら、たぶん、そういうことになる。
〈ふむ。住人。悪くない響きだ〉
ルルはしばらく考えるように黙っていたが、やがて胸を張った。
〈ならば、我にも暮らしが必要だな。具体的には、どら焼きのある暮らしが〉
「今もあるだろ」
〈足りぬ。住人の権利として、一日三個を要求する〉
俺が通訳すると、部室の空気が、ふっとゆるんだ。大河が笑い、ひよりが泣き笑いになり、水無瀬がスケッチブックの隅に、どら焼きを三つ描き足した。鷹宮は、どら焼きを要求する毛玉を見て、何かに耐えるように唇を噛んでいた。たぶん、もふりたいのを我慢している。
窓の外では、蝉が鳴き始めていた。
――七月の終わり。
夏合宿の日が、来た。




