第43話 迷子の小鬼
「……今の音、なんだか、泣いてるみたいでした」
ひよりが、割れ目の暗がりを見つめたまま言った。
ひよりたちの耳には、細い鈴の音にしか聞こえていないはずだ。それでも、わかるものなのかもしれない。泣いている音、というのは。
「子どもが泣いてる。おかあさん、って言ってる」
「子ども!? 迷宮の十二層にか!?」
大河の声が裏返った。鷹宮が刀の柄に手をかけ、水無瀬がスケッチブックを胸に抱き寄せる。
割れ目は狭い。俺は身体を横にして、岩のあいだに肩をねじ込んだ。ひより、水無瀬、鷹宮が続く。最後に大河が――
「ふんっ……! 腹、へこめ……! へこめオレの腹……!」
「さっきの弁当の分だな」
「まだ食ってねえよ!」
大河がすぽん、と抜けてきたところで、俺たちは小さな洞穴に出た。天井に光る苔がまばらに生えていて、ぼんやりと青い。
その奥の隅に、何かがうずくまっていた。
小さい。ひよりよりも、まだ小さい。小学校の低学年くらいの背丈だ。布の服を着て、腰に小さな袋を下げている。肌は緑がかっていて、頭の両脇から、大きな耳がぴんと横に突き出していた。
それが、こっちに気づいて顔を上げた。
大きな、まん丸の目。涙でぐしゃぐしゃになっている。
〈……にんげん!〉
悲鳴のような鈴の音。それは壁に背中を押しつけて、がたがたと震え出した。
しゃりん、と金属の擦れる音がした。
鷹宮が、白鷺を半分ほど抜いていた。
「……人型魔物」
低い声。新人戦で見た、あの凍った横顔に近い目をしていた。
「待て、鷹宮」
俺は、鷹宮の手首を押さえた。冷たい。でも、凍ってはいない。
「こいつ、喋ってる」
「魔物は鳴くものでしょう」
「違う。命令文じゃないんだ」
俺は、自分の耳に聞こえているものを、もう一度確かめた。
魔物たちの声は、いつも短くて、そっけない。〈侵入者、確認〉〈鋏、右〉。誰かに命令されて動いているみたいな、感情のない言葉。
でも、今聞こえているのは違う。
〈こないで……こわい……おかあさん……〉
「……会話してるんだ。怖がってる。助けを呼んでる」
鷹宮の手から、ゆっくりと力が抜けた。白鷺が、鞘に戻る。
俺は膝をついて、目の高さを合わせた。
「大丈夫だ。何もしない」
言ってから、気づいた。俺には、こいつの言葉がわかる。でも、こいつには、俺の言葉がわかるんだろうか。
案の定、子どもはきょとんとしていた。
〈……ふん。我の出番のようだな〉
フードの中から、ルルがもぞもぞと這い出してきた。
〈湊の言葉は、我が伝えてやろう。偉大なる我が、通訳をしてやるのだ。感謝せよ〉
「……頼む」
〈うむ〉
ルルが、子どもに向かってきゅい、と鳴いた。俺には〈この者たちは、お前を傷つけぬ〉と聞こえる。
子どもの目が、ルルに釘付けになった。
〈……ふわふわ!〉
〈ふわふわとは何だ、無礼な。我を誰と心得る〉
〈だれ?〉
〈……忘れた〉
思わず吹き出しそうになって、こらえた。子どものほうも、泣き顔のまま、ちょっとだけ口元をゆるめていた。
そのとき、ひよりがそっと前に出た。
探索服のポケットをごそごそと探って、取り出したのは、小さなラムネの包みだった。
「あの……これ、甘いですよ。弟たちがすぐ泣くから、いつも持ってるんです」
しゃがみこんで、手のひらに一粒のせて、差し出す。ゆっくり。驚かせないように。
六人きょうだいの長女の手つきだった。さっきまで「ひゃっ」と肩を跳ねさせていたのと、同じ人とは思えない。
子どもはおそるおそる手を伸ばして、ラムネをつまみ、口に入れた。
大きな耳が、ぴくぴくっと動いた。
〈……あまい!〉
「甘いってさ」
「よかった……」
ひよりがほっと笑う。子どもはもう一粒ねだるようにひよりの手を見て、それから、ひよりの探索服の袖をきゅっとつかんだ。
〈ちいさいひと、やさしい〉
「……小さい人、優しい、だって」
「ち、ちいさい……? わたし、百五十センチ、あります……」
「お前より小さい人間を見たことないんだろ」
水無瀬が、スケッチブックで口元を隠して肩を震わせていた。
落ち着いた子どもは、ぽつぽつと話してくれた。俺が聞いて、ルルが伝えて、子どもが答える。それを俺がみんなに訳す。言葉が、三人のあいだを行ったり来たりする。
〈ぼく、ピノ。小鬼族の、ピノ〉
〈ぬけみちで、まいごになったの。ずっと、ずーっと、つながってるみち。でも、まちがえた〉
〈深いところに、里がある。おかあさん、そこにいる〉
抜け道。里。
頭の中で、言葉がうまくつながらない。迷宮の深いところに、里がある。こいつには、母親がいて、帰る場所がある。
それは、魔物の話じゃない。
誰かの暮らしの話だ。
〈ことばのひとは、どうしてぼくのことば、わかるの?〉
「……俺にも、よくわからない」
正直に答えると、ルルがそのまま伝えた。ピノは首をかしげて、大きな耳を片方だけぱたんと倒した。どうやら、それが小鬼族の「ふしぎ」の仕草らしい。
そのあいだに、水無瀬がスケッチブックにペンを走らせていた。
さらさら、さらさら。一分もかからなかったと思う。くるりと向けられたページには、ラムネを頬ばって笑うピノの顔が描かれていた。大きな耳も、まん丸の目も、そっくりだ。
〈……ぼくだ!〉
ピノが跳び上がった。水無瀬はそのページを丁寧に切り取って、ピノの手に持たせた。それから、もう一枚の紙に短く書いて、俺に見せる。
『おかあさんに、見せてあげて』
「お母さんに見せてあげて、だって」
ルルが伝えると、ピノは絵を胸にぎゅっと抱きしめて、何度もうなずいた。耳が、ぱたぱたと上下に揺れていた。
ふいに、ひよりの肩がびくりと跳ねた。
「……っ、ぞわっとします。人が、来ます。たくさん」
割れ目の向こうから、足音と話し声が聞こえてきた。
「――このへんだ。さっき、甲高い鳴き声がしたろ」
「人型だといいな。報奨金、山分けだぞ」
「見つけたら逃がすなよ。すばしっこいって話だからな」
受付で声をかけてきた、あの髭の男の声だった。
ピノの耳が、ぺたんと寝た。小さな身体が、また震え出す。
「……どうする、湊」
大河が低い声で聞いた。
どうする。考えろ。
洞穴は行き止まりに見える。でも、ピノはどこかから来たはずだ。俺は洞穴の奥の壁に目を凝らした。
あった。
苔に半分隠れて、細い線が絡み合った模様が刻まれている。蔓のような形。迷宮文字だ。
レベルが上がる前の俺には、読めなかった。でも、今は――
〈この先、里へ下る道〉
文字がほどけて、意味になる。その下の岩の継ぎ目に、子ども一人がやっと通れるくらいの隙間が、影になって口を開けていた。
「ルル、ピノに伝えてくれ。あの隙間が里への道だ。壁にそう書いてある」
〈心得た〉
ルルがきゅいきゅいと鳴く。ピノの目が、ぱっと見開かれた。
「大河、割れ目をふさいでくれ。俺が外の人と話す」
「ふさぐって、どうやって」
「さっきみたいに、はまってくれ」
「……任せろ!」
大河は割れ目に戻ると、自分の身体を栓にするみたいに、岩のあいだにぎゅうぎゅうと入り込んだ。ひどい作戦だった。でも、たぶんいちばん確実だった。
ピノが隙間に這い込む前に、振り返った。
〈ありがとう、ことばのひと〉
俺を見て、それからひよりを見る。
〈ちいさいひとも。ありがとう〉
ピノの姿が、岩の奥の暗がりに消えた。
ほぼ同時に、割れ目の外から懐中電灯の光が差し込んできた。
「おい、そこに誰か――うおっ、でけえ!」
「あ、どうもー。オレ、ここにはまってるだけなんで」
「は、はまってる……?」
大河の背中ごしに、俺は顔を出した。
「すみません、霞高の学生です。さっきの鳴き声なら、蝙蝠でした。この奥は行き止まりです」
「蝙蝠ぉ? ……ちっ、外れか」
髭の男は舌打ちして、仲間たちと引き返していった。足音が、だんだん遠ざかる。
完全に聞こえなくなるまで、誰も口をきかなかった。
帰り道。
十二層から地上へ戻る階段を、俺たちは黙って登っていた。
「……私、斬るところだった」
鷹宮が、ぽつりと言った。自分の右手を、じっと見つめている。
「人型魔物は、斬るものだと教わったから。迷うことなんか、なかった」
誰も、何も言えなかった。
俺は、さっきの男たちの声を思い出していた。
報奨金。逃がすな。見つけたら。
人型魔物の目撃例はある。教科書には、そう一行だけ書いてあった。目撃して、それから、人間は何をしてきたんだろう。
ピノみたいな子どもが、母親を呼んで泣いていたとき。人間の耳には、それがただの「りぃん」という鳴き声にしか聞こえなかったとき。
階段の途中で、膝が震えていることに気づいた。
今まで人間は、"彼ら"を――どれだけ。




