第42話 はじめての学外迷宮
川の匂いがした。
土曜日の朝。多摩川の河川敷に、コンクリートの四角い建物が建っている。霞ヶ丘迷宮の管理棟によく似ているけれど、ひと回り大きくて、壁には「多摩川迷宮 探索者受付」という看板が掲げてあった。
入口の前には、大人の探索者たちが列を作っていた。大きな斧を背負った人。全身を金属の鎧で固めた人。どの人も、霞高の先生たちとは違う、慣れた空気をまとっている。
「……なんか、緊張してきたぜ」
大河が新しい大盾を背負い直しながら、ごくりと喉を鳴らした。籠手をはめた手で、さっきからおにぎりを三つ食べている。緊張すると食べる。いつもどおりだ。
「だ、大丈夫です。わたし、ちゃんと、怖がりますから」
ひよりが短弓を握りしめて、よくわからない宣言をした。たぶん、【先触れ】をちゃんと使う、という意味だ。
水無瀬は、スケッチブックを探索服の胸のポケットに差し込んで、こくりとうなずいた。
鷹宮は列の少し後ろで、刀の柄に手を添えて立っていた。白鷺。鷹宮家に伝わる刀だ。
受付で学生ライセンスと許可証を見せると、係のおじさんが目を丸くした。
「霞高の新人戦の優勝パーティか。へえ、五組のってのは君らのことかい」
「……まあ、はい」
「C級は霞ヶ丘とは別もんだからな。無理するんじゃないよ」
許可証には、灰原先生の汚い字で『初回は十二層まで。それより下は行くな。何かあったら連絡しろ。めんどくせえけど』と書き添えてあった。最後の一言は、許可証に書く必要があったのだろうか。
入口へ向かう途中、列に並んでいた探索者の一人が、俺たちに声をかけてきた。日に焼けた、髭の濃い男だった。
「学生さんか。十二層あたりは気をつけな。最近、人型が出たって噂だ」
「人型?」
「人の形をした魔物さ。見つけたら迷宮庁に報せりゃ、報奨金が出るって話だぜ」
男は仲間たちと笑い合って、先に階段を降りていった。
人型魔物。教科書の隅に、一行だけ書いてあった言葉だ。目撃例はあるが、詳細は不明。
「……行こう」
俺はフードの中のルルを指で押し込んで、階段に足をかけた。
◇ ◇ ◇
多摩川迷宮の中は、水の音がした。
壁の割れ目から細い水が流れ落ちていて、床のあちこちに浅い水たまりができている。苔の光が水面に映って、天井まで青く揺れていた。霞ヶ丘より空気が重い。息を吸うと、肺の奥がひやりとする。
〈湿っぽいところだ。我の毛が、しんなりする〉
フードの中で、ルルがぶつぶつ言っている。
三層で、最初の魔物に出くわした。
水たまりの中から、ごろりと岩が起き上がった。いや、岩じゃない。岩みたいな甲羅を背負った、大きな蟹だ。片方の鋏だけが、異様に大きい。
石殻蟹。地図に載っていた名前だ。
〈侵入者、確認〉
〈鋏、右。挟み込み〉
「右の鋏が来る。大河、正面で受けて、右に流せ!」
「おう!」
大河が大盾を構える。がぎん、と金属のぶつかる音。鋏が盾の表面を滑って、右に逸れた。
〈潜行〉
「水に潜るぞ。ひより、どこに出る!」
「ひゃっ……ひ、左です! 三秒後!」
ひよりの声とほぼ同時に、左の水たまりが弾けた。飛び出してきた石殻蟹の甲羅の継ぎ目に、俺は灰原先生のお下がりの短剣を突き込んだ。刃渡り三十センチほどの、銘もない古い短剣。手に馴染むまで、一か月かかった。
ぱきん、と甲羅が割れて、石殻蟹が光の粒になってほどけていく。
「……カニ」
大河が、残った魔石を見下ろしてつぶやいた。
「カニ、食えたかもしれねえのに……」
「魔物は倒すと消える」
「知ってるよ! 夢くらい見させろよ!」
ひよりが「ふふっ」と吹き出して、水無瀬も肩を震わせていた。
そこまでは、よかった。
問題は、鷹宮だった。
五層。六層。魔物が出るたびに、鷹宮は真っ先に飛び出していく。速い。とんでもなく速い。俺が命令文を聞き取って叫ぶより先に、白鷺の刃が魔物を両断している。
強い。強いんだけど――
「鷹宮! 一人で前に出すぎだ!」
「……倒したわ」
「倒したけど、今、横からもう一匹来てただろ」
鷹宮の背後で、大河が盾で別の石殻蟹を受け止めていた。鷹宮は振り返って、少しだけ眉を寄せた。
「……気づいてた」
「気づいてても、一人で全部はやるな」
鷹宮は何か言いかけて、口をつぐんだ。
わかっている。鷹宮は、ずっと一人で戦ってきた。【剣聖】の説明文を信じて、「単独行動時、全能力が上昇する」を信じて。身体が、まだそれを覚えている。
新人戦の決勝で、あの冷たい手を掴んでから、まだひと月ちょっとしかたっていない。並び立つ、ということに、鷹宮はまだ慣れていないのだ。
八層で、通路が急に開けた。天井が高く、白い霧がうっすらと立ちこめている。
〈群れ、展開。霧、濃く〉
遠くで、遠吠えのような鈴の音がした。霧が、見る間に濃くなっていく。
霧狼だ。霧を吐いて、獲物の視界を奪ってから襲ってくる。
「三匹……いや、四匹。囲むつもりだ」
鷹宮が一歩、前に出た。
「鷹宮、半歩下がれ。大河の隣だ」
鷹宮の足が止まる。
「……隣?」
「そう。大河が受けて、お前が斬る。一人で全部やらなくていい」
鷹宮は、ほんの一瞬だけ迷うように俺を見た。それから、すっと半歩下がって、大河の右に並んだ。
「お、おう。よろしくな、鷹宮」
「……ええ」
水無瀬が目を閉じた。胸の前で両手を重ねる。
歌が聞こえた。
〈かぜよ、とおれ。しろいとばりを、ひらいて〉
俺にだけ聞こえる、透き通った旋律。他のみんなには、ただ空気がふっと澄んだように感じられるはずだ。白い霧が、カーテンを開けるみたいに左右へ薄れていく。
〈左、跳躍。喉を狙え〉
「左から跳ぶぞ! 大河!」
「任せろォ!」
大河の盾が、跳びかかってきた霧狼を弾き返した。その瞬間、鷹宮が動いた。
鷹宮の背中で、冷気がふわりと集まった。白く光る、薄い氷の羽根。まだ小さい。でも確かに、翼の形をしている。
――速い。さっきまでの一人の踏み込みより、さらに。
白鷺が二度ひらめいて、霧狼が二匹、同時に光の粒になった。
「来ます! 右、五秒後に二匹!」
ひよりの矢が、霧の切れ目から飛び出してきた一匹の足を射抜く。体勢を崩したそこに、大河の盾の縁が叩き込まれる。最後の一匹は、鷹宮が大河の肩越しに斬った。
霧が晴れた。
鷹宮は刀を下ろして、自分の背中を振り返った。氷の羽根は、もう光の粒になって消えている。
「……軽かった」
ぽつりと、鷹宮が言った。
「一人で斬るより、ずっと」
「だろ」
「……うるさい」
でも、そう言った鷹宮の口の端は、ほんの少しだけ上がっていた。
〈剣の娘、なかなかであった。褒美に我を撫でることを許す〉
ルルがフードから顔を出した瞬間、鷹宮の目の色が変わった。刀を鞘に納める速さが、さっきの踏み込みより速かった気がする。
……まあ、いいけど。
そこから先は、驚くほど順調だった。
九層、十層、十一層。魔物たちは霞ヶ丘よりずっと強い。命令文も長く、複雑になる。〈二体、挟撃。後方を断て〉〈擬態、継続。接近を待て〉。でも、聞こえる。聞こえれば、伝えられる。伝われば、みんなが動ける。
十一層の階段の手前で、鷹宮が俺の横に来た。
「真白。……隣、っていうのは、どのくらいの距離」
「距離?」
「近すぎると、刀が当たる。遠すぎると、並んでいる気がしない」
真剣な顔だった。俺は少し考えて、答えた。
「相手の息が聞こえるくらい、かな」
鷹宮は黙って、大河の横に歩いていった。それから、本当に大河の呼吸に耳を澄ませるみたいに、首をかしげた。
「……犬飼。あなた、ずっと何か噛んでる?」
「ガムだ。腹の虫をごまかしてる」
「……そう」
水無瀬が、スケッチブックの隅に、並んで歩く二人の小さな絵を描いていた。大河の頭の上には、ぐう、という吹き出しが付いていた。
十二層に着いたのは、昼を少し過ぎたころだった。
「ここまで、だな」
灰原先生の許可は十二層まで。地図によれば、この先の階段を降りると十三層だ。
「腹減った……弁当にしようぜ……」
「大河くん、さっきおにぎり食べてましたよね……?」
「あれは朝ごはんの続きだ」
岩壁のそばに腰を下ろして、弁当を広げようとした、そのときだった。
かすかな音がした。
鈴の音に似ている。けれど、命令文の、あの短くてそっけない響きとは違った。もっと細くて、震えていて、途切れ途切れの――
俺は顔を上げた。
岩壁に、人がやっと一人通れるくらいの割れ目があった。その奥の暗がりから、声が聞こえる。
〈……おかあさん……〉
子どもの、泣き声だった。




