第41話 期末テストという名の強敵
七月の部室には、魔物よりおそろしいものが出る。
期末テスト、という名の。
「……湊。オレ、もうだめかもしれねえ」
旧資料室の長机に突っ伏したまま、大河がうめいた。広げた数学の問題集は、さっきから一ページも進んでいない。
「まだ十分しかたってないだろ」
「十分も因数分解したら、人は死ぬんだよ」
「死なない」
「わ、わたしも、死にそうです……」
向かいの席で、小日向が涙目になっていた。こっちも数学だ。プリントの余白には、消しゴムで消しすぎて薄くなった跡が、雨雲みたいに広がっている。
霞高の期末テストは、来週の月曜から。赤点は三十点未満で、取ったら夏休みに補習がある。補習の日程は、よりによって夏合宿の直前だ。
つまり、赤点を取ると、合宿の準備をしながら補習を受けることになる。灰原先生いわく「俺も補習の監督なんかしたくねえ。だから取るな。めんどくせえから」。教師の言葉として正しいのかはさておき、気持ちは伝わった。
「よし、休憩しようぜ休憩! 脳に糖分を――」
「さっきも休憩した」
「さっきは糖分じゃなくて塩分だった!」
大河が鞄からポテトチップスの大袋を取り出そうとするのを、俺は無言で押し戻した。
とんとん、と机が鳴る。
水無瀬が、ノートを一冊、俺たちのほうへ滑らせてきた。表紙には丁寧な字で『数学 まとめ』。
開いた瞬間、大河が「おお……」と声を漏らした。
見開きいっぱいに、二次関数のグラフが描いてある。ただのグラフじゃない。放物線の頂点で、白い毛玉がぴょんと跳ねていた。ルルだ。毛玉の横に吹き出しがあって、小さな字で『ここが頂点。いちばん高いところ』。
次のページでは、因数分解の手順が、ルルが毛糸玉をほどいていく絵で説明されていた。その次は、連立方程式を二匹のルルが綱引きで解いている。
「……これ、教科書よりわかりやすくねえか?」
「わかります……! ルルちゃんがほどいてるの、すごくわかります!」
小日向が目を輝かせる。水無瀬は前髪の奥で少し照れたように笑って、スケッチブックに書いた。
『絵にすると、覚えやすいから』
横に、得意げな顔のルルの落書き。
当のルル本人――本毛玉は、俺のフードから這い出してきて、ノートをのぞき込んだ。
〈ふむ。歌の娘は我の威厳をよくわかっておる。頂点に我を置くとは、正しい〉
「頂点ってのは、そういう意味じゃない」
〈なんだと〉
……と、ルルは言っているが、俺以外には『きゅい』としか聞こえていない。大河と小日向は、ルルが自分の絵を見て喜んでいると思って、にこにこしている。まあ、だいたい合っている。
扉が開いたのは、そのときだった。
「……遅くなった」
鷹宮が、刀袋を肩にかけて入ってきた。迷宮庁の特別育成生の訓練帰りだ。ルビに入ってからも、鷹宮は一組の授業と訓練を両方こなしている。
「おお、鷹宮! ちょうどいいとこに来た!」
大河が椅子から跳ね起きた。
「お前、学年首席だろ? 数学教えてくれよ!」
鷹宮の動きが、ぴたりと止まった。
三秒ほど、間があった。
「……いいわよ」
なぜか、覚悟を決めたような声だった。
鷹宮は大河の隣に座り、問題集を引き寄せた。シャープペンシルを握る。すらすらと式を書いていく。迷いのない筆運び。さすが首席――
「できたわ」
「おお!」
俺は横から、その答えをのぞき込んだ。
一行目は合っていた。二行目で、なぜか二がどこかに消えていた。三行目で符号が逆になり、四行目でエックスの値が百二十七になっていた。
「……鷹宮。二、どこ行った」
「逃げたのよ」
「数字は逃げない」
「逃げるわ。私の前では、いつも」
真顔だった。
水無瀬が、こらえきれずに肩を震わせている。小日向は「え、え、首席なのに……?」と目をぱちぱちさせていた。
「……首席は、実技と剣術。筆記は、聞かないで」
鷹宮は問題集をそっと大河のほうへ押し返した。耳が少し赤い。
「この式を見ていると、斬りたくなるの」
「斬るな」
結局、数学は水無瀬のノートが先生役になった。鷹宮も、こっそり大河と並んでそのノートをのぞいていた。
俺の担当は英語と国語だ。
「なあ湊、お前【翻訳】なんだから、英語なんか楽勝じゃねえの?」
「俺のスキルは、英語には効かない」
「マジかよ」
「英語は自力だ。辞書で覚えた」
「辞書で覚えるって、どういう状況だよ……」
どういうも何も、辞書は読むと面白い。そう言ったら、大河にも小日向にも、ついでに鷹宮にも、珍しい生き物を見る目で見られた。水無瀬だけが、こくこくとうなずいてくれた。
英語の過去問を配ろうとして、俺は手を止めた。
プリントの上で、ルルが丸くなって寝ていた。
〈……この紙は、温い。日なたの匂いがする〉
窓際に置いていたせいで、ちょうどいい温度になっていたらしい。持ち上げようとすると、ルルは寝ぼけたまま、プリントにしがみついた。
「ルルがどかねえ!」
「……私が、どかす」
鷹宮が、なぜか真剣な顔で両手を差し出した。指先がわずかに震えている。
「鷹宮、それ、もふりたいだけだろ」
「……任務よ」
任務らしい。鷹宮はルルをそっと両手で包み、膝の上に移した。それから十分間、鷹宮の英語の勉強は一文字も進まなかった。
夕方、窓の外がオレンジ色になってきたころ。
「小日向、そこ。さっきの公式、もう一回」
俺が言うと、小日向はシャープペンシルを握ったまま、もじもじと顔を上げた。
「あ、あの……真白くん」
「ん?」
「その……わたしのことも、名前で呼んでほしいです」
部室の空気が、ちょっとだけ止まった。
「大河くんは、ひよりって呼んでくれるし……わたしだけ、なんか、遠い感じがして……。あっ、い、嫌だったら、いいんです! すみません!」
小日向は真っ赤になって、両手をぶんぶん振った。
……遠い感じ、か。
言われてみれば、そうかもしれない。四月からずっと一緒に迷宮に潜ってきて、新人戦も一緒に戦った。今さら名字で呼ぶ理由のほうが、もうない。
「……ひより」
口に出すと、思ったより照れくさかった。
ひよりの顔が、ぱあっと明るくなった。
「は、はい! じゃ、じゃあ……わたしも、湊くん、って呼んでも、いいですか」
「……別に、いいけど」
「湊くん!」
「一回でいい」
「湊くん、湊くん……えへへ」
「練習しなくていい」
大河がにやにやしながら俺の背中をばしばし叩く。水無瀬はスケッチブックをこちらに向けた。
『よかったね』
その横に、小さな花の絵。
鷹宮は膝の上のルルを撫でながら、何も言わなかった。ただ、自分のシャープペンシルの先を、少しのあいだじっと見ていた。
◇ ◇ ◇
テストは、四日間の死闘だった。
初日の朝、大河は「勝つ」ためにカツサンドを三つ食べてきた。ひよりは昇降口で青い顔をして、俺の袖をつかんだ。
「湊くん……【先触れ】で、出る問題がわかったらいいのに……」
「それはカンニングだろ」
「ですよね……。さっきから、ぞわっとはしてるんです。何が来るのかは、わからないんですけど」
「たぶんそれ、数学の一時間目が来るって意味だ」
「ひゃっ……」
ひよりの【先触れ】は、どうやら定期テストにもちゃんと反応するらしい。役に立つかどうかは、別として。
結果は、全員赤点回避。
大河の数学は三十一点。ひよりの数学は三十四点。鷹宮の数学は三十八点で、一組の教室では「首席が?」とざわめきが起きたらしい。本人は「斬ればよかった」とだけ言っていた。
答案を握りしめた大河は、部室で水無瀬のノートに向かって拝んでいた。
「水無瀬様……ルル様……ありがとうございます……」
〈うむ。もっと崇めよ〉
ルルは、なぜか自分の手柄だと思っている。
その日の帰りのホームルームで、灰原先生がプリントを配った。
「あー、夏合宿のお知らせだ。一年は全員参加。行き先は奥多摩迷宮、三泊四日」
教室がざわっとした。
「奥多摩って、B級だよな……?」
「霞ヶ丘より、ずっと深いって」
「迷宮庁からも講師が来るらしい。俺は引率だ。めんどくせえ」
灰原先生はキャンディをがり、と噛んで、それから俺たちのほうをちらりと見た。
「ルビ。お前ら、多摩川迷宮の許可、まだ一回も使ってねえだろ。合宿の前に、外の迷宮の空気くらい吸っとけ」
新人戦の優勝特典。C級、多摩川迷宮の探索許可。
大河が「よっしゃ!」と拳を握り、ひよりが「ひゃっ」と肩を跳ねさせ、水無瀬がスケッチブックを胸に抱いてうなずいた。
合宿の前の週末。
俺たちは初めて、学校の外の迷宮に潜ることになった。




