第38話 比翼の剣
〈こおりよ、とけて――〉
すぐ後ろで、歌が聞こえた。
〈ひとりの、ゆびに、ひだまりを〉
初めて聞く歌だった。部室で訳したどのページにも、こんな歌詞はなかった。
振り返ると、水無瀬が、俺のすぐ隣に膝をついていた。吹雪の中を、ここまでついてきたのだ。前髪も、まつ毛も、真っ白に凍っている。それでも、水無瀬は目を閉じて、歌っていた。
そして、彼女の小さな手が、鷹宮の手を握る俺の手の上に、そっと重ねられた。
――温かい。
さっきまで、鷹宮の周りの冷気に跳ね返されていた歌が、今は、手のひらを通して、まっすぐに流れこんでいく。俺の手から、鷹宮の手へ。氷の壁の、内側へ。
鷹宮の指を覆っていた霜が、少しだけ、溶けた。
閉じかけていたまぶたが、かすかに震えた。
「……鷹宮」
俺は、凍った手を握ったまま、呼びかけた。
「聞こえるか。俺だ。真白だ」
青い唇が、ほんの少しだけ動いた。
「窓を、開けてくれ。……昨日の続き、読ませてくれ」
長い、長い時間に感じた。実際には、二秒か三秒だったと思う。
鷹宮の唇から、白い息と一緒に、かすれた声がこぼれた。
「……か、い……じ」
窓が、開いた。
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名前:鷹宮 凛
スキル:【剣聖】
説明:剣技に極めて高い補正。単独行動時、全能力が上昇する。
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文字は、昨日よりも、さらに固く凍りついていた。
窓そのものに、霜が降りている。氷の板の向こうに文字が閉じこめられていて、指一本触れさせない、という顔をしている。
――内側から、固く鍵をかけておる。
昨日のルルの言葉を思い出した。
俺は、目に力をこめた。こめかみが割れるように痛む。鼻の奥が、つんと熱くなる。
でも、昨日とは、一つだけ違うことがあった。
俺は今、鷹宮の手を握っている。その上に、水無瀬の手がある。背後から、氷を踏みしめる足音が近づいてくる。
「湊っ! 鷹宮っ!」
「ま、真白くん……!」
大河が、割れた盾の半分を抱えて、こっちへ這うように進んでくる。小日向が、その腕を支えている。
鷹宮は、今、独りじゃない。
ぴし、と、窓の霜にひびが入った。
昨日は、どれだけ見つめても、ひび一本入らなかった【剣聖】の二文字に。
ひびは、蔓が伸びるように広がっていった。氷の板が、内側から割れていく。閉じこめられていた文字が、ほどける。蔓のように絡み合い、ゆっくりと、本来の形に組み直っていく。
まるで、長い冬が終わって、凍った川がいっせいに流れだすみたいに。
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名前:鷹宮 凛
スキル:【比翼の剣】
説明:誰かと並び立つとき、剣は翼となる。独りのとき、剣は心を削る。
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――読めた。
比翼。
辞書で読んだことがある。片方の翼しか持たない鳥が、二羽で寄り添って、はじめて空を飛ぶ。そういう、昔の話から来た言葉だ。
一羽じゃ、飛べない鳥。
鷹宮のスキルは、最初から、そういう名前だった。
「――その名前、誤訳だよ」
鷹宮の、半分閉じた目が、俺を見た。
「鷹宮。お前のスキルは【剣聖】じゃない。【比翼の剣】だ」
凍った手を、強く握る。
「――誰かと並び立つとき、剣は翼になる」
鷹宮の目が、ゆっくりと開いた。
焦点の合っていなかった瞳に、少しずつ、光が戻ってくる。
「……ひよく、の、つるぎ」
かすれた声で、繰り返した。
「独りのときは、心を削る。……でも、誰かと並び立つときは、翼になる。読めなかった前半には、そう書いてあったんだ」
「並び立つ……」
鷹宮の唇が、震えた。
「……誰と」
その問いは、迷子の子どもみたいに、心細い声だった。
何年も、たった一人で剣を振ってきた人の声だった。並び立つ相手なんて、どこにもいないと思っていた人の声だった。
「誰とでもいい」
俺は、答えた。
「今は、俺たちと」
鷹宮の右側で、大河が、割れた盾を杖にして立ち上がった。霜だらけの顔で、にかっと笑う。
「おう。並ぶくらい、いくらでも並んでやるよ」
左側に、小日向が立った。震える手で、それでも短弓を構えている。
「わ、わたしも……並びます」
水無瀬は、鷹宮の背中のすぐ後ろで、歌い続けていた。俺の手の上に重ねた手を、離さないまま。
〈ひとりの、ゆびに、ひだまりを〉
鷹宮は、俺たちを見回した。
大河を。小日向を。水無瀬を。それから、手を握っている俺を。
凍りついていた頬に、つうっと、一筋だけ、何かが伝った。それは、流れ落ちる前に、小さな氷の粒になって、きらりと光った。
「……並ぶ」
鷹宮が、ぽつりと言った。
俺の手を、握り返してきた。冷たい。でも、さっきより、ほんの少しだけ、力がこもっていた。
鷹宮は、ゆっくりと立ち上がった。俺の手を離し、凍った刀を、両手で握り直す。
大河と、小日向のあいだに。俺と、水無瀬の前に。
並んで、白鷺を構えた。
「――【比翼の剣】」
静かな声だった。
でも、その声は、吹雪の音よりも、はっきりと空洞に響いた。
次の瞬間、風が、止まった。
空洞じゅうを吹き荒れていた冷気が、ぴたりと動きを止める。そして、まるで呼ばれたみたいに、鷹宮のほうへ流れはじめた。地面を這っていた霜が。石筍を覆っていた氷が。宙を舞っていた氷の粒が。全部、鷹宮の背中へと集まっていく。
鷹宮の背中で、冷気が、形をとった。
翼だった。
透きとおった、氷の翼。左右に一枚ずつ、大きく、しなやかに広がっている。羽根の一枚一枚が、細かな氷の結晶でできていて、撮影球の光を受けて、虹色にきらめいていた。
暴れていた冷気が、今は、静かに鷹宮の背中に寄り添っている。
鷹宮の、思いどおりに。
「……きれい」
小日向が、つぶやいた。
鷹宮が、翼を一度、ゆっくりと羽ばたかせた。
ぱきん、と、澄んだ音がした。
空洞を覆っていた氷が、いっせいに砕けた。石筍の氷が、鍾乳石の氷柱が、地面の氷が。粉々に砕けて、光の粒になって、ふわりと宙に舞い上がる。
雪みたいだった。
季節外れの、光の雪。それが、空洞いっぱいに、ゆっくり、ゆっくりと降りそそいで――地面に触れる前に、溶けるように消えていった。
〈……美しいな〉
フードの中で、ルルが、ため息のようにつぶやいた。
俺は、何も言えなかった。ただ、光の雪の中に立つ、鷹宮の背中を見ていた。
翼を背負ったその背中は、もう、独りではなかった。
◇ ◇ ◇
光の雪が消えると同時に、鷹宮の背中の翼も、ふっと消えた。
鷹宮の体が、ぐらりと傾いた。
「鷹宮っ!」
とっさに、腕を伸ばして受け止めた。力が、まったく入っていない。全部、使い果たしたのだ。鷹宮の胸元で、凍りついていた身代わり符が、遅れて白く光った。
腕の中の鷹宮は、目を閉じていた。でも、さっきまでとは違う。唇に、ほんの少しだけ、色が戻っていた。
「……あったかい」
意識が途切れる直前、鷹宮は、そう言った気がした。
氷が消えて、空洞の入口が開いたのだろう。通路のほうから、どたどたと足音が近づいてきた。
「――どけ、どけ! 医務班、こっちだ!」
先頭にいたのは、灰原先生だった。右足を引きずりながら、それでも誰よりも早く走ってくる。口にくわえていたはずのキャンディは、どこにもなかった。
先生は、俺の腕の中の鷹宮を見て、それから俺の顔を見た。
「……ったく。無茶しやがって」
それだけ言って、鷹宮を医務班の担架に乗せるのを手伝った。養護教諭の春日先生が、鷹宮の脈をとって、「大丈夫、眠ってるだけ」と言った。
担架が、空洞の出口へ運ばれていく。
俺は、その場にへたりこんだ。頭が割れるように痛い。鼻の下を拭うと、手の甲が少し赤くなっていた。
「湊、大丈夫か」
「……ああ。お前こそ」
「盾は割れたけど、オレは割れてねえ」
大河が、割れた盾の半分を掲げて笑った。小日向が泣きながら大河の腕の霜を払い、水無瀬が、俺の顔をのぞきこんで、ハンカチを差し出してくれた。
『――協議の結果を、伝える』
十分ほどたって、天井から審判長の声が響いた。
『一組、鷹宮凛は戦闘不能扱いとする。全選手の身代わり符を交換し、十五分後に、試合を再開する。御堂班三名、対、ルビ四名』
……再開、するのか。
あんなことがあったあとで。
空洞の反対側を見た。氷から解放された権藤と細川が、地面に座りこんで、ぼんやりと宙を見ている。細川は、肩をさすっていた。
その二人の前に、御堂が立っていた。
剣を握ったまま、こっちを見ている。
さっきの、光の雪の中で。御堂は、ずっと、鷹宮の翼を見ていた。その顔に何が浮かんでいたのか、遠すぎて、俺にはわからなかった。
御堂が、口を開いた。
吹雪の消えた空洞に、その声は、やけにはっきりと響いた。
「……鷹宮がいなくても、俺一人で十分だ」




