第37話 凍る剣
寒い。
最初に思ったのは、それだけだった。
鷹宮の足元から生まれた氷は、あっという間に広がっていった。地面を這い、石筍の根元を包み、幹を駆けのぼる。人の背丈ほどもある石の柱が、根元から先端まで、みるみるうちに青白く凍りついていく。
ぴし、ぴし、という音が、空洞じゅうから聞こえた。
天井から垂れ下がった鍾乳石が、白く染まっていく。その先端から、透きとおった氷柱が、槍みたいに伸びはじめた。
「な、なんだよ、これ……!」
大河が、盾を構えたまま後ずさった。その盾も、表面が真っ白に凍りついている。
〈退避。退避。退避――〉
天井の洞蝙蝠たちが、ばらばらに鳴いた。命令文が乱れている。次の瞬間、何匹かが、翼ごと凍りついて落ちてきた。氷の地面にぶつかって、光の粒になって消える。
影ですら、ここにいられない。
鷹宮を中心に、風が渦を巻きはじめていた。冷たい、なんてものじゃない。肌を刺すような風だった。その風に、細かい氷の粒が混じっている。吹雪だ。迷宮の中に、吹雪が吹いている。
「ひゃ、ひゃああっ……! さ、寒いっ、です……!」
小日向の歯が、かちかちと鳴っていた。短弓を握る指が、真っ赤になっている。水無瀬は、スケッチブックを胸に抱えて、体を小さく丸めていた。前髪が、凍って白く固まっている。
「う、動けねえ! 御堂さんっ、足が!」
空洞の向こうで、権藤が叫んでいた。
見ると、権藤と細川の足が、膝のあたりまで氷に飲みこまれていた。【怪力】の権藤が力任せに引き抜こうとしても、びくともしない。細川は、【俊足】の自慢の足を封じられて、青い顔で震えていた。
御堂が、剣で二人の足元の氷を叩き割ろうとしている。でも、割ったそばから、また新しい氷が張っていく。
その鷹宮は、吹雪の真ん中に、一人で立っていた。
動いていなかった。刀を下ろしたまま、切っ先を氷の地面につけて、ただ、立っている。
でも、その姿は、さっきまでと違っていた。
唇が、青い。頬の白さが、もう人の肌の色じゃない。ポニーテールの髪の先まで、霜で真っ白に凍りついている。
そして、まぶたが、ゆっくりと落ちかけていた。
眠そうに、じゃない。何かが、内側から消えていくみたいに。
〈……湊〉
フードの中で、ルルが震える声を出した。
〈あの娘の温もりが、消えていく。……急がねば〉
わかってる。
わかってるけど、どうすればいい。
あの吹雪の中に入ったら、どうなるのか。そもそも、近づけるのか。
胸元で、何かが、ぱきっと鳴った。
見下ろすと、首から下げた身代わり符が、真っ白に凍りついていた。表面の模様が、霜に覆われて見えない。
「……符が」
嫌な予感がして、空洞の向こうを見た。
天井から、氷柱が一本、落ちた。細川のすぐ横だった。砕けた氷のかけらが、細川の肩を強く打つ。
「いっ……てええ!」
細川が、肩を押さえてうずくまった。
その胸元の身代わり符は――光っていなかった。
凍りついて、何の反応もしていない。本当なら、符が肩代わりしてくれるはずの衝撃を、細川は、自分の体で受けていた。
身代わり符が、効かない。
つまり、ここから先は、ケガをする。
『――緊急! 緊急! 区画内の身代わり符の反応が、確認できない!』
天井のどこかから、審判の声が響いた。いつもの落ち着いた声ではなかった。
『現在、試合の中止を検討している! 選手は、その場から動かず待機! 教員が向かっている!』
教員が。でも、俺は知っていた。この空洞への入口は、一本の細い通路だけだ。さっきから、そちらの方角でも、ぴしぴしと氷の割れる音がしている。
――間に合わない。
入口が凍りついて塞がれるのが、たぶん先だ。
「――止めるな!」
怒鳴り声が、吹雪を裂いた。
御堂だった。頭上の撮影球を睨みつけて、剣を振りかざしている。
「止めるな! まだ勝負はついてない! 俺は、まだ一太刀も――!」
その声は、ほとんど悲鳴みたいだった。
御堂の顔は、真っ青だった。寒さのせいだけじゃない。あいつは今、怖いんだ。合同踏破のボス部屋で、剣を取り落として動けなくなったときと同じくらい。それでも、勝負を止められたら、自分には何も残らないと思っている。
……今朝、階段の踊り場で、鷹宮も同じことを言っていた。
そうしないと、私には、何も残らないから。
勝負なんか、どうでもいい。
旗なんか、どうでもいい。
俺は、背後を振り返った。陣地のいちばん奥に、赤い旗が立っている。俺たちが守るはずの旗。あれを取られたら、負けだ。
俺は、旗に背を向けた。
「――湊!?」
走りだした俺を見て、大河が叫んだ。
「おい、どこ行くんだよ! 旗はどうすんだ!」
「放っとけ!」
叫び返しながら、氷の地面を蹴った。靴底が滑る。転びそうになって、なんとか踏みとどまる。
「鷹宮のところに行く!」
視界の端で、御堂がこっちを振り向いたのが見えた。
「翻訳野郎……!? お前、旗を捨てて、何して――」
答えている暇はなかった。頭上の撮影球が、くるりと向きを変えて、俺の背中を追ってくる。全校が、今のこれを見ているんだろうか。……見ていればいい。どうせ、もう目立たないのは無理だ。
「一人で行く気か、バカ!」
どすん、と重い足音が、俺の横に並んだ。
大河だった。真っ白に凍った大盾を、両手で前に構えている。
「行くなら、オレが前だ! お前、盾なしであの吹雪に突っこんだら、三秒で凍るぞ!」
「……っ、頼む!」
「任せろ!」
大河が、俺の前に出た。盾を前に突き出し、吹雪の真正面に向かって、一歩、また一歩と進んでいく。氷の粒が、盾の表面をばちばちと叩いた。
「わ、わたしも……行きます!」
後ろから、震える声がした。小日向が、凍えた指で短弓を握りしめて、走ってくる。その後ろに、水無瀬もいた。
二人とも、真っ青な顔をしていた。でも、足は止まらなかった。
吹雪の中は、白かった。
前が見えない。大河の背中だけが、かろうじて見える。風の音が、耳を塞ぐ。肌に当たる氷の粒が、小さな針みたいに痛い。
「ひゃっ……! 【先触れ】……来ます! 上、二本!」
小日向の叫びに、大河が盾を頭上に掲げた。
ずがん、と、盾に氷柱が突き刺さった。もう一本は、大河の足元の氷を砕いて、破片を撒き散らした。
「右、一本! ……それから、もう一本、少し遅れて、左!」
小日向の声は、震えていた。でも、正確だった。昨日、たった一人で罠の中を歩き抜けたときと同じように。大河が、その声に合わせて、盾を右へ、左へと振る。氷柱が、次々に盾に弾かれて砕けていく。
背後で、水無瀬の歌が聞こえていた。
〈いたみよ、ねむれ、ゆびさきよ、ねむれ〉
鷹宮には届かなかった歌が、今は、俺たちの冷えきった指を、少しだけ温めてくれていた。かじかんだ手に、感覚が戻ってくる。
「あと……少しだ……!」
大河が、うめいた。
大盾に、ひびが入っていた。表面の氷が、盾そのものに食いこんでいる。大河の腕も、肩も、白い霜に覆われていた。
「鷹宮っ!」
吹雪の向こうに、人影が見えた。
近い。あと、五歩。
「湊……オレの盾、ここまでだ……!」
ばきん、と音がして、大盾が真ん中から割れた。
大河が、膝をついた。
小日向が「大河くんっ!」と叫んで、駆け寄る。
「行け、湊! あと、ちょっとだ!」
大河が、割れた盾の半分を、吹雪に向かって突き出した。風が、一瞬だけ弱まった。
俺は、走った。
四歩。
風が、正面から殴りつけてくる。息ができない。肺の中まで凍りそうだ。
三歩。
まつ毛が凍って、視界が狭くなる。それでも、前を見る。
二歩。
鷹宮が、目の前にいた。
凍った刀を下ろしたまま、身じろぎ一つせずに立っている。まぶたは、もうほとんど閉じかけていた。青い唇が、かすかに動いた気がした。
何を言おうとしたのかは、わからなかった。
一歩。
俺は、手を伸ばした。
刀を握ったままの、鷹宮の右手。霜で真っ白になった、その指を。
――つかんだ。
冷たかった。
手のひらが、張りついてしまいそうなくらいに。指の骨まで、一瞬で凍りそうなくらいに。
それでも、俺は、その手を離さなかった。




