第36話 決勝戦――ルビ対勇者班
校庭の真ん中に、真っ赤な横断幕がはためいていた。
『がんばれ ルビ!!』
布いっぱいに、白いペンキで、ばかでかい字。ところどころ、ペンキが垂れている。
「作らなくていいって言ったのに……」
「だって赤だよ!? ルビーだから赤! 昨日の夜、みんなで作ったの! 森田くんが材料買いに行って三回迷子になって、早乙女くんは途中で飽きて帰って、カナちゃんは感動して泣いてた!」
横断幕の端を持った佐伯が、胸を張った。その後ろで、五組のクラスメイトが十人くらい、照れくさそうに手を振っている。
……ルビーじゃないって、何回言えばいいんだろう。
でも、横断幕を見上げた小日向の目が、少しうるんでいた。大河は、腕で鼻をこすっていた。水無瀬は、横断幕の文字を、じっと見つめていた。
だから俺も、それ以上は何も言わなかった。
『さあ、ついにこの時がやってまいりました! 霞ヶ丘高校一年生新人戦、決勝戦!』
スピーカーから、梶原先輩の声が響く。校庭に、地鳴りみたいな歓声が上がった。
『一組・御堂班! Sランク二人、Aランク二人の、文句なしの最強パーティ! 対するは、五組・ルビ! Eランク三人とFランク一人で、ここまで勝ち上がってきた、今大会最大のダークホース! 灰原先生、ずばり、どちらが有利でしょう!』
『あー……』
放送席の灰原先生が、キャンディの棒をくるりと回した。
『……どっちも、ケガすんなよ』
それは、解説じゃない。
でも、モニターの中の先生の目は、少しも笑っていなかった。
――新人戦。鷹宮をよく見とけ。あいつ、危ねえぞ。
俺は、校庭の反対側の待機所に目をやった。御堂と、権藤と、細川。その少し後ろに、鷹宮が一人で立っていた。
昨日の夜、部室を飛び出していったときと同じ、白い顔をしていた。
◇ ◇ ◇
迷宮管理棟の階段を降りる途中で、鷹宮とすれ違った。
御堂班は、ルビより先に区画の東側へ入ることになっていた。狭い階段の踊り場で、上ってくる係員をよけたとき、ちょうど鷹宮が俺の横に並んだ。
「……鷹宮」
鷹宮は、足を止めなかった。
「今日は――」
「手加減は、しない」
前を向いたまま、鷹宮は言った。
「あなたたちが相手でも。……そうしないと、私には、何も残らないから」
それだけだった。ポニーテールの背中が、階段の下の暗がりに消えていく。
残らない、って、何がだよ。
聞き返す暇は、なかった。
第八層のいちばん奥に、その空洞はあった。
今までの区画とは、広さがまるで違った。天井が、見上げても暗くて見えないくらい高い。床からは、人の背丈ほどもある石筍がにょきにょきと突き出していて、天井からは、それと向かい合うように、太い鍾乳石が何本も垂れ下がっている。
石の森だ、と思った。
西の端に俺たちの陣地。東の端に御堂班の陣地。そのあいだを、石の森と、いくつもの岩の段差が隔てている。頭上には、撮影球が十個以上浮かんでいた。
『――決勝戦、試合、開始!』
〈侵入者、確認〉
〈侵入者、確認〉
天井の洞蝙蝠たちが、いっせいに鳴きはじめた。
〈東、四。……一、離れる。速い〉
〈速い。速い。速い〉
――来た。
「鷹宮だ! 一人で来るぞ!」
予想どおりだった。試合開始の合図から、まだ十秒もたっていない。
〈正面、一。接近。接近――〉
石筍の林の向こうで、白いものがひらめいた。
次の瞬間、鷹宮が、目の前にいた。
「大河っ!」
「おうっ!」
大河が大盾を突き出すのと、白鷺の刃が盾を打つのが、ほとんど同時だった。
がぎん、と、耳が痛くなるような音。
大河の足が、地面を削って半歩下がった。
「……っ、重てえ!」
鷹宮は、止まらなかった。
一撃目を弾かれた反動を、そのまま次の一撃に変える。右。左。上。下。刃の軌道が、目で追えない。大河の盾の表面に、白い筋が次々に刻まれていく。
きれいだ、と、こんなときなのに思ってしまった。一つの無駄もない、教科書の挿絵みたいな太刀筋。何年も、何千回も、たった一人で同じ型を繰り返してきた人の剣だ。
……その剣のそばには、誰の影もなかった。
人間は、迷宮語を話さない。だから、俺には鷹宮の予告が聞こえない。
聞こえるのは、洞蝙蝠たちの声だけだ。〈速い〉〈速い〉と、壊れたラジオみたいに繰り返している。
「小日向!」
「【先触れ】……来ます、右から、三つ!」
「大河、右に寄せろ!」
小日向の予感と、俺の声で、大河はかろうじて刃の雨をしのいでいた。かろうじて、だ。一撃ごとに、盾が軋む。大河の腕が、震えはじめている。
「鷹宮!」
俺は、叫んだ。
「鷹宮、聞こえるか!」
返事は、なかった。
鷹宮の顔には、何も浮かんでいなかった。怒りも、焦りも、勝ちたいという気持ちさえ。ただ、正確に、機械みたいに、刀を振るっている。
昨日の夜、部室で「読んで」と言ったときの、あのかすかに揺れていた目は、どこにもなかった。
「――おい、鷹宮! 一人で突っこむなって言っただろうが!」
石の森の向こうから、怒鳴り声がした。
御堂だった。権藤と細川を引き連れて、ようやく追いついてきたらしい。【勇者】の光をまとった剣を抜いて、こっちを睨んでいる。
「下がれ! 作戦どおりに――」
鷹宮は、振り返りもしなかった。
御堂の顔が、怒りで赤くなった。
「……ちっ。権藤、デカブツをやれ! 細川はチビだ!」
「了解っす!」
権藤が、大河の横から突っこんできた。【怪力】の拳が、盾の側面を殴りつける。大河の体が、ぐらりと傾いた。
「大河!」
「だ、大丈夫だ……! まだ、溜まってる……!」
細川の姿が、ふっと消えた。【俊足】だ。気がついたときには、小日向の真横にいた。
「ひゃっ――!」
小日向が、悲鳴と同時に身をかがめる。細川の木剣が、頭の上を空振りした。先触れがなかったら、今ので終わっていた。
「下がれ! 全員、陣地まで下がるぞ!」
俺は、叫んだ。
正面から鷹宮、横から権藤、背後から細川。このまま石の森で戦っていたら、囲まれて、すり潰される。
大河が盾を構えたまま後退し、小日向がその陰に隠れる。水無瀬は、俺の後ろにぴたりとついてくる。俺たちは、じりじりと西の陣地へ押し戻されていった。
押されている。
完全に、押されている。
陣地の入口、旗の手前の岩場まで下がったところで、俺は、あることに気づいた。
――寒い。
さっきから、吐く息が白かった。大河の息も、小日向の息も。水無瀬の前髪の先に、細かい水滴が凍りついて、白く光っている。
六月の迷宮が、こんなに寒いはずがない。
足元を見た。石筍の根元に、霜が降りていた。鷹宮が踏みこんだ場所から、白い霜が、地面を這うように広がっている。
鷹宮の刀が、大河の盾を打つ。
そのたびに、盾の表面が白く凍りついていく。刃が触れたところから、氷の花みたいな模様が、じわじわと広がっていく。
一撃ごとに、冷気が強くなっている。
――独りのとき、剣は心を削る。
昨日読んだ、あの一文が頭の中で鳴った。
「水無瀬、歌ってくれ! 鷹宮に――」
水無瀬はうなずいて、目を閉じた。
〈しずかに、ねむれ――〉
澄んだ旋律が、広がりかけて――止まった。
まるで、凍った湖の上に、小石を投げたみたいだった。歌は、鷹宮の周りの冷気にぶつかって、跳ね返される。中まで、届かない。
水無瀬が、目を開けた。前髪の奥の目が、驚いたように見開かれている。
〈湊……〉
フードの中で、ルルが震えていた。今日は待機所に置いてくるつもりだったのに、いつの間にかもぐりこんでいたらしい。
〈あの娘、冷たいどころではない。……中が、凍りついていく〉
鷹宮の顔を、もう一度見た。
さっきまでは、少なくとも「機械みたいだ」と思えた。
今は、それすらなかった。
白い頬。色のない唇。開いているのに、何も見ていない目。まつ毛の先まで、霜で白く凍っている。そこにあるのは、鷹宮凛の形をした、氷の彫刻だった。
「鷹宮っ! もうやめろ! それ以上使ったら――」
鷹宮が、刀を下ろした。
一瞬、届いたのかと思った。
違った。
鷹宮は、刀を下ろしたまま、ただ、そこに立っていた。動かない。まばたきもしない。
そして――ぴし、と、小さな音がした。
鷹宮の足元からだった。
ぴし、ぴし、ぴし。
霜ではなかった。分厚い、青白い氷が、鷹宮の靴の下から生まれて、蜘蛛の巣みたいに、地面に広がりはじめていた。




