第35話 決勝前夜、剣聖のステータス
部室の窓の外が、オレンジ色から群青色に変わっていく。
新人戦の二日目が終わって、校舎にはもうほとんど人が残っていなかった。中庭の向こうの本校舎も、半分くらい明かりが消えている。旧校舎の二階で灯っているのは、たぶん、この部屋だけだ。
「明日の分、今から溜めとく」
大河は、机の上に積み上げたパンの山を、端から順番に崩していた。焼きそばパン、コロッケパン、メロンパン、またコロッケパン。
「今食べても、明日まで溜まってるのか、それ」
「……わかんねえ。でも、食わないよりはいいだろ」
理屈は合っているような、合っていないような。
小日向は、明日の作戦を書いたメモを、さっきから三十回くらい読み返していた。水無瀬は、スケッチブックに、御堂班の四人の似顔絵を描いている。権藤の顔だけ、やけにじゃがいもに似ていた。
「水無瀬、それ、権藤に見られたら怒られるぞ」
水無瀬は、じゃがいもの横に、小さく『そっくり』と書き足した。……確信犯だった。
「さ、作戦……三十回読んでも、半分しか頭に入りません……」
「覚えなくていい。試合中は、俺が全部言う」
「そ、そうでした……真白くんの声を聞けば、いいんでした……」
小日向は、メモを胸に抱いて、ほうっと息をついた。それでも、三十一回目を読みはじめた。
〈湊。我も明日のために、どら焼きを溜めておきたい〉
「ルルは出ないだろ」
〈応援にも、力がいるのだ〉
……まあ、帰りに一個くらい、買ってやってもいいけど。
そのとき、扉が、こん、と一回だけ鳴った。
ノックだった。この部屋の扉を、ノックして開けた人は、今まで一人もいない。
四人の手が、同時に止まった。
扉が開く。廊下の薄暗がりに、すらりとした影が立っていた。
「……鷹宮」
鷹宮は、部室の入口で、しばらく黙って立っていた。
探索服ではなく、制服姿だった。白い刀袋を肩にかけている。顔色は、今日の試合のモニターで見たときと同じくらい、白かった。
「御堂班の作戦なら、教えないわよ」
「聞いてない」
「そう」
鷹宮は、部室に入ってきた。それから、机の上をきょろきょろと見回した。
〈む。剣の娘ではないか〉
棚の上から、ルルがころりと転がり落ちてきた。鷹宮の目の前に、ちょうど着地する。
「……先に、ルルを」
「先に?」
「なんでもない」
鷹宮は、ルルを両手ですくい上げて、そっと胸に抱いた。目を閉じて、白い毛に、少しだけ頬を寄せる。
大河が、パンを口に入れたまま固まっていた。小日向は口を両手で押さえていた。水無瀬は、目にもとまらぬ速さで何かをスケッチしていた。……たぶん、今の鷹宮だ。
〈む……やはり冷たいな、剣の娘。だが、まあ、よい〉
ルルがおとなしく抱かれているのを見て、鷹宮は、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
それから、ルルを抱いたまま、俺のほうを向いた。
「……今日、準決勝のあと」
かすれた声だった。
「手の感覚が、なくなった。階段の手すりを握っていたのに、握っている感じが、しなかった」
部室が、しんと静まった。
「家に帰っても、戻らなかった。お風呂に入っても、まだ冷たかった。……さっき、やっと少し戻った」
鷹宮は、ルルの背中に指を埋めた。その指先が、白く曇っているのが見えた。
「明日、決勝で、また【剣聖】を使ったら」
そこで、言葉が途切れた。
続きは、言わなくてもわかった。
鷹宮は、ルルを机の上に下ろした。そして、俺の正面に立った。切れ長の目が、まっすぐに俺を見る。その目の奥が、ほんのかすかに揺れていた。
「……読んで」
「ステータス、開示」
鷹宮の前に、半透明の窓が浮かび上がった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
名前:鷹宮 凛
スキル:【剣聖】
説明:剣技に極めて高い補正。単独行動時、全能力が上昇する。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
俺は、深く息を吸った。
窓の文字に、意識を集中させる。【大食い】のときも、【臆病】のときも、こうして見つめていると、文字の輪郭がゆらゆらと揺れはじめた。そして、蔓のようにほどけて、別の形に組み直っていった。
【剣聖】の文字は、揺れなかった。
「……っ」
こめかみに、鈍い痛みが走った。
硬い。
文字が、まるで凍りついているみたいだった。指で押しても、びくともしない氷の板。その表面を、爪でかりかりと引っかいているような感覚。ほどけるどころか、ひびの一本も入らない。
頭痛が、どんどん強くなる。目の奥が熱い。
「湊、無理すんな!」
大河の声が、遠くに聞こえた。
――まだだ。
俺は、【剣聖】の二文字から、目を少しだけずらした。説明文。その後半。
『単独行動時、全能力が上昇する。』
ここだけ、ほんのわずかに、氷が薄い気がした。
そこに、意識を全部注ぎこむ。
ぴし、と、頭の中で何かが鳴った。
文字の端が、揺れた。一文字。二文字。氷の板に入った細いひびから、蔓がほどけるように、文字が崩れていく。そして、別の形に組み直っていく。
ゆっくりと。
「……独りのとき」
俺は、浮かび上がってきた言葉を、そのまま声に出した。
「剣は、心を削る」
部室の空気が、凍りついた。
【剣聖】の二文字と、説明文の前半は、どれだけ見つめても、氷に閉ざされたままだった。読めたのは、その一文だけだった。
でも、その一文だけで、十分すぎた。
「……え」
鷹宮の唇から、小さな声がこぼれた。
「独りのとき……剣は、心を……」
「ああ。『単独行動時、全能力が上昇する』の部分が、本当はそう書いてある。……前半と、名前は、読めなかった。文字が硬すぎて、ほどけない」
頭痛で、視界の端がちかちかした。俺は机に手をついた。
〈……湊〉
ルルが、机の上から、鷹宮の窓を見上げていた。
〈剣の娘の窓は、閉じた扉のようだ。内側から、固く鍵をかけておる〉
内側から。
鷹宮の心が、閉じているせいなのかもしれない。何年も、独りで剣を振り続けてきた心が。
「じゃあ」
鷹宮が、一歩、後ずさった。
「じゃあ、私は今まで」
白い顔が、さらに白くなっていく。
「独りで戦えば強くなるって、ずっと、そう思って。お祖父様にも、教官にも、そう言われて。窓にも、そう書いてあって。だから、ずっと独りで」
声が、震えていた。
「……自分で、自分を」
削っていた。
その言葉は、最後まで出てこなかった。
鷹宮の窓が、ふっと消えた。次の瞬間、鷹宮は踵を返していた。扉が乱暴に開いて、廊下に足音が響く。階段を駆け下りていく音が、どんどん遠ざかっていく。
「鷹宮さんっ!」
小日向が立ち上がりかけた。大河も、パンを放り出して扉のほうを見た。
俺は、動かなかった。
「……湊、追わねえのか」
「追って、何を言うんだ」
自分でも、冷たい言い方だと思った。でも、本当にわからなかった。
お前は間違ってた、と言うのか。今までの全部が、自分を削るだけだった、と言うのか。そんなことは、今の鷹宮が一番よくわかっている。
今の鷹宮に必要なのは、たぶん、俺の言葉じゃない。
読めなかった名前。読めなかった、説明文の前半。そこに何が書いてあるのか、俺にはまだわからない。わからないまま追いかけても、鷹宮にかけられる言葉が、俺にはなかった。
袖が、くい、と引かれた。
水無瀬だった。
スケッチブックが、俺の目の前に差し出されていた。いつもの丁寧な字が、少しだけ、急いだように崩れていた。
『明日、たすけよう』
俺は、そのページを見つめた。
水無瀬は、もう一行、書き足した。
『鷹宮さんは、ひとりじゃない。明日、それを、見せよう』
……そうか。
言葉が届かないなら。言葉より先に、見せればいい。
独りじゃない、ってことを。
「……ああ」
俺は、うなずいた。
「明日、助けよう」
大河が、にかっと笑って拳を握った。小日向が、涙目のまま、何度もうなずいた。ルルが、机の上で、ぽんと小さく跳ねた。
窓の外は、もうすっかり夜だった。
◇ ◇ ◇
その夜、俺はほとんど眠れなかった。
目を閉じると、凍りついた窓の文字が浮かぶ。独りのとき、剣は心を削る。じゃあ、独りじゃないときは? 読めなかった前半には、何が書いてあるんだろう。
枕元で、ルルが小さな寝息を立てていた。どら焼きは、帰りに二つ買った。一つは、明日のぶんだそうだ。
カーテンの隙間が、少しずつ白んでいく。
遠くで、新聞配達のバイクの音がした。
――決勝の朝が、来た。




