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第34話 ひよりの単独行

 罠は、見えなかった。


 準決勝の会場、第八層の第三区画。試合前に配られた区画の見取り図を手に、俺たちは陣地の入口に立っていた。目の前には、鍾乳石の垂れ下がった薄暗い洞窟が、迷路みたいに枝分かれして続いている。


 見た目は、ただの洞窟だ。どこにも、何もない。


 でも、何もないはずがなかった。


『――準備時間、終了まで、あと一分!』


 天井から、審判の声が降ってくる。


 準決勝からは、試合開始前に五分間の準備時間がある。その五分のあいだ、相手の二組の班は、区画のあちこちに罠を張りめぐらせていたはずだ。


 狩野ミツル。スキルは【罠師】、Bランク。地面に手をついただけで、見えない罠を何十個も仕掛けられるらしい。踏めば網が降ってくる。触れれば足元が泥に変わる。二組のこれまでの対戦相手は、ほとんどが旗にたどり着く前に、罠で身代わり符を光らせて全滅していた。


「……で、どうすんだ、湊」


 大河が、盾を構えたまま小声で聞いた。


「影の声で、相手の位置はわかる。でも、罠は迷宮語をしゃべらない。俺には聞こえない」


 影は、命令文で動いている。だから俺には予告が聞こえる。でも、人間が作った罠には、命令文も何もない。ただ、そこにあるだけだ。


「全員で固まって進んだら、一個踏んだだけで、まとめて引っかかる」


「じゃ、じゃあ……」


 小日向が、短弓を胸に抱えて、俺を見上げた。もう、なんとなく察している顔だった。


「小日向。お前に、一人で先に行ってほしい」


 小日向の顔から、すうっと血の気が引いた。


「む、むりむりむり……!」


 首を、ぶんぶんと横に振る。栗色の髪が、ばさばさと揺れた。


「わ、わたし、一人でなんて、無理です! だって、どこに罠があるかわからないし、相手もいるし、暗いし、こわいし……!」


「わかってる」


 俺は、小日向の目をまっすぐに見た。


「でも、罠は、踏む前に『危ない』んだ。お前の【先触れ】は、危ないことが起きる前に、ぞわっとする。……この区画で、罠を見つけられるのは、お前だけだ」


 小日向の唇が、震えた。


「お前の家で、颯真のいたずら、全部当てただろ。五秒前に」


「……あれは、水鉄砲とか、クッションとか、ゴムのヘビで」


「罠も、似たようなもんだ。ちょっと規模がでかいだけで」


「ぜんぜん、ちがいますよう……!」


 小日向は、泣きそうな顔で叫んだ。それから、ぎゅっと目をつぶった。


 何秒か、そうしていた。


 短弓を握る手が、白くなるほど力んでいる。肩が、小刻みに震えている。大河が何か言おうとして、口を閉じた。水無瀬も、黙って小日向を見つめていた。


 ――わたし、新人戦で、ちゃんと役に立ちたい。


 あの夕方の角で、小日向はそう言った。


「……む、むりむりむり……」


 小日向は、目を開けた。


 大きな目には、涙がいっぱいにたまっていた。でも、その奥で、何かが小さく灯っていた。


「……でも、やります」


『――試合、開始!』




◇ ◇ ◇




 小日向は、一歩ずつ進んだ。


 短弓を構え、つま先で地面を探るように。俺たちは、陣地の入口の岩陰から、その背中を見送った。


〈侵入者、確認。北の通路、一〉


 天井の洞蝙蝠が、小日向の位置を教えてくれる。少なくとも、彼女がどこにいるかは、俺にはわかる。


「ひゃっ」


 小さな悲鳴が、洞窟に反響した。


 小日向が、ぴたりと足を止めた。目の前の、何もない地面を見つめている。それから、少し下がって、短弓を引き絞った。


 矢が、彼女の三歩先の地面に突き刺さる。


 ――ばさっ。


 天井から、光る網が降ってきた。矢を包みこんで、地面に貼りつく。


「……すげえ」


 大河が、思わずつぶやいた。


 小日向は、網を大きく迂回して、また歩きはじめた。分かれ道に来るたびに、立ち止まる。目を閉じて、肩をすくめる。そして、ぞわっとしないほうの道を選ぶ。選んだ道の壁に、白いチョークで小さな丸を描いていく。


 俺たちのための、目印だった。


「ひゃっ」


 また、悲鳴。矢が飛ぶ。今度は、地面がどろりと泥に変わった。


「ひゃっ……ひゃっ」


 二連続。一本目の矢で、壁から光の縄が飛び出した。二本目の矢で、足元に小さな落とし穴が開いた。


 悲鳴のたびに、小日向の肩は震えていた。それでも、足は止まらなかった。


〈侵入者、確認。北東、一。……奥に、人の子、四〉


 洞蝙蝠の声が変わった。小日向が、相手の陣地に近づいている。


 やがて、通路の奥の暗がりから、チョークの丸が一つ、俺たちのほうに向けて描かれた。その横に、小さな矢印。


 それから、震える字で、壁に書き殴られた一行。


 『はた、みつけました』




「よし。作戦どおりいくぞ」


 俺は、三人を――今は二人を振り返った。


「大河と水無瀬は、チョークの目印をたどって、正面の広間に出てくれ。派手に暴れろ。相手の目を、全部そっちに引きつける」


「おう! 派手にだな!」


「水無瀬は大河の後ろで、影を鎮めてくれ。あと、大河がケガしたら――」


 水無瀬が、こくりとうなずいた。【静謐の歌】には、傷を癒す力もある。真文に、そう書いてあった。


「俺は、小日向と合流して、横から旗を取りにいく」


 大河が、拳を突き出した。俺は、それに自分の拳を軽く当てた。水無瀬も、小さな拳を、ちょこんと添えた。




 正面の広間で、轟音が響いた。


「【蓄積】――解放ッ! おらおらおらぁ! ルビの犬飼大河様だぁ!」


 ……派手にやれとは言ったけど、名乗れとは言っていない。


〈侵入者、確認。中央の広間、二。……人の子、三、そちらへ移動〉


 洞蝙蝠の声が、相手の動きを教えてくれた。旗の近くにいた三人が、大河のほうへ向かっていく。


 俺は、チョークの目印をたどって、北東の通路を走った。丸。丸。矢印。小日向が、命がけで描いてくれた道しるべだ。一つも、外れていなかった。


「ま、真白くん……!」


 通路の突き当たりで、小日向が岩陰にうずくまっていた。俺の顔を見た瞬間、その目から、ぼろっと涙がこぼれた。


「よく頑張ったな」


「が、頑張ってません……ずっと、ひゃってなってました……」


「それが頑張ったってことだろ」


 小日向は、ぐしぐしと袖で涙を拭いて、岩陰の向こうを指さした。


 小さな広場だった。その真ん中に、黄色い旗が一本、立っている。そして、旗のすぐ前に、男子が一人、地面に片膝をついていた。


 狩野だ。


 旗の周りの地面に、手のひらをぴたりと当てている。


「……あそこ」


 小日向の声が、かすれていた。


「旗の周り、全部、ぞわってします。ぜんぶ、罠です……」


 俺は、唇をかんだ。


 狩野は、残りの仲間を囮に出して、自分だけが旗に残ったのだ。旗の周りに、ありったけの罠を張って。


「……一か所も、ないのか」


 小日向は、ぎゅっと目を閉じた。


 肩が、細かく震えている。でも、さっきまでとは震え方が違った。怖いだけじゃない。全身で、何かを探している震え方だった。


 五秒。


 小日向の目が、ぱっと開いた。


「……一か所だけ、あります」


「どこだ」


「旗の、真後ろ。……狩野くんが、自分で通るための道、だと思います」


 俺と小日向は、顔を見合わせた。


「小日向。お前が先に行け。俺は、お前の踏んだところを、そのまま踏む」


「は、はいっ……!」


 小日向が、岩陰から飛び出した。


 広場の縁を、壁に沿って回りこむ。狩野が、はっと顔を上げた。


「なっ――お前ら、どこから――」


 狩野の手が、地面を叩いた。新しい罠を張ろうとしている。


「【先触れ】……来ます! 左、伏せて!」


 小日向の声に、俺は反射的に身をかがめた。頭の上を、光の縄が空振りしていく。


 小日向は、止まらなかった。一歩。二歩。ぞわっとしない場所だけを、正確に踏んでいく。俺は、その足跡に自分の足を重ねる。


 旗の真後ろ。


 小日向の手が、旗の柄に伸びた。


 その手は、まだ震えていた。でも、迷わなかった。


 ぐっと、引き抜いた。


『――決着! 勝者、ルビ! ルビ、決勝進出です!』




◇ ◇ ◇




 地上に戻った瞬間、小日向は、泣いた。


 声を上げて、子どもみたいに、わんわん泣いた。待機所のテントの前で、旗を握りしめたまま、その場にぺたんと座りこんで。


「こ、こわかったぁ……! ずっと、こわかったですぅ……!」


「ああ。知ってる」


「ひゃって、何回も、言っちゃって……!」


「十七回言ってた」


「数えないでくださいぃ……!」


 大河が、小日向の前にしゃがみこんだ。


 でかい手が、小日向の頭の上に、ぽん、と乗った。


「すげえよ、ひより」


 わしゃわしゃと、髪をかき混ぜる。小日向の泣き声が、一瞬止まった。


「一人で行って、全部見つけて、旗まで取ってきたんだぞ。オレには絶対できねえ。……ほんと、すげえ」


 小日向は、大河を見上げた。それから、また、顔をくしゃくしゃにして泣きだした。さっきより、少しだけ嬉しそうな泣き方だった。


 水無瀬が、スケッチブックを小日向の前に差し出した。


『ひよりちゃん、かっこよかった』


 その横には、短弓を構えた小さなひよこの絵。ひよこの目には、ちゃんと涙が描いてあった。


〈うむ。小さいのは、今日いちばんの働きであった〉


 フードの中で、ルルが満足げにうなずいていた。


 テントの外のモニターに、トーナメント表が映し出された。いちばん上の、一本の線。そこに、二つの名前が並んでいる。


 『決勝 ルビ(五組) 対 御堂班(一組)』


 明日だ。


 俺は、モニターの中の、その名前を見つめた。


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