第33話 閑話 御堂海斗は満たされない
スマホが震えたのは、夜の九時を過ぎてからだった。
画面に表示された名前を見て、俺はベッドから跳ね起きた。
『父』
……三週間ぶりだった。
「――はい」
『海斗か』
低く、落ち着いた声。いつもと同じ、会議の合間にかけてきたような声だった。電話の向こうで、紙をめくる音がする。
『新人戦、二回戦も勝ったそうだな』
「はい。二試合とも、相手に一人も――」
『報告は受けている』
俺の言葉を、父さんは静かにさえぎった。
『鷹宮くんの働きが、大きかったそうだな』
喉の奥が、ぐっと詰まった。
「……俺も、指示は出してました」
『そうか』
それだけだった。紙をめくる音が、また一つ。
『明日は準決勝だな。……御堂の名に恥じぬように』
「――はい」
電話は、それで切れた。通話時間、四十八秒。
俺はスマホを握ったまま、しばらく暗い画面を見つめていた。
広い部屋だった。ベッドと机と本棚と、使っていないトレーニング器具。窓の外には、都心のビルの明かりが見える。この家には、部屋が十いくつある。そのほとんどに、今夜も誰もいない。
一階の食堂には、十二人がけの長いテーブルがある。今夜もさっき、その端っこで、宅配の弁当を一人で食べた。向かいの椅子も、隣の椅子も、その隣も、ずっと空いたままだ。たまに、あのテーブルの全部の椅子に座ってみたら、誰か一人くらい返事をするんじゃないかと思うことがある。……するわけがないけど。
父さんは、迷宮庁の長官だ。いつも忙しい。家に帰ってくるのは、週に一度あればいいほうだ。
褒められた記憶が、ない。
小学校のテストで百点を取った日も。剣道の大会で優勝した日も。天啓の儀で、【勇者】、Sランクと読み上げられた日も。あの夜だけは珍しく早く帰ってきたけれど、俺の窓を見て「そうか」と言っただけだった。
――当然、か。
俺は、ステータスを開いた。
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名前:御堂 海斗
スキル:【勇者】
説明:全能力に高い補正。人々の希望を背負う。
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人々の希望を背負う。
天啓の日、この一文を読んで、俺は誇らしかった。父さんは、迷宮から人々を守る仕事をしている。その息子が、人々の希望を背負う【勇者】。これ以上ない名前だと思った。
でも、最近は、この一文が重い。
誰の希望なのか、俺にはわからない。少なくとも、父さんの希望ではないらしい。
母さんのことは、ほとんど覚えていない。
十二年前の大氾濫で死んだ。俺は三歳だった。覚えているのは、誰かの背中と、甘い匂いと、それが急に遠くなっていったことだけだ。写真の中の母さんは、いつも笑っている。その笑顔を、俺は自分の記憶として思い出せない。
もし母さんが生きていたら、【勇者】の俺を、褒めてくれただろうか。
「……くだらねえ」
声に出して言って、俺は窓を閉じた。
◇ ◇ ◇
新人戦二日目。準決勝。
霞ヶ丘迷宮の八層は、天井から鍾乳石が何本も垂れ下がった、湿っぽい洞窟だった。
迷宮に入ると、いつも体の奥に、何かが流れこんでくる感じがする。空気の中に溶けている、目に見えない何か。それが体を満たすと、剣が軽くなり、足が速くなる。たぶん、これが【勇者】の力なんだろう。
なのに、今日も、満たされている気がしなかった。
『――試合、開始!』
「いいか、作戦どおりだ。権藤と細川は左右から回りこめ。俺が正面で引きつける。鷹宮は――」
振り返ったときには、もういなかった。
ポニーテールの背中が、鍾乳石の林の向こうへ消えていくところだった。一人で。誰にも何も言わずに。
「おい、鷹宮!」
返事はない。
「……御堂さん、どうします?」
細川が、ひょろ長い首をかしげた。権藤は、ごつい腕を組んで「さすが剣聖っすね」と感心している。
「追うぞ!」
俺たちが鍾乳石の林を抜けたときには、もう、ほとんど終わっていた。
相手は一組の別の班だった。Aランクが三人いる、決して弱くない班だ。その五人が、地面に座りこんでいた。全員の胸元で、身代わり符が白く光っている。
その真ん中に、鷹宮が立っていた。刀を鞘に納めて、相手の旗を片手に下げて。
『決着! 勝者、御堂班! 試合時間、四分十秒!』
天井から、審判の声が降ってきた。
「すげえ! 御堂さん、決勝っすよ!」
「さすがっす! やっぱ御堂さんの班は最強っすね!」
「決勝の前に、景気づけに焼肉行きましょうよ! 御堂さんのおごりで!」
「いいな、それ! 御堂さんのおごりで!」
二人そろって、「おごり」のところだけ、やけに声が大きかった。
権藤と細川が、俺の両側ではしゃいでいた。
……何が、さすがなんだ。
俺は、剣を抜いてさえいない。指示も、誰も聞いていない。勝ったのは鷹宮で、俺じゃない。こいつらだって、それはわかっているはずだ。
それでも、こいつらは「さすが御堂さん」と言う。
理由は知っている。俺が、迷宮庁長官の息子だからだ。俺の機嫌を取っておけば、何かいいことがあると思っているからだ。
勝った。決勝に進んだ。なのに、腹の底が、からっぽだった。
入学してから、ずっとそうだ。何に勝っても、誰に褒められても、何も満たされない。
――いや。
一度だけ、心の底から何かを感じたことがある。
合同踏破の日。五層のボス部屋。
白黒の砂嵐みたいな、声のない石の巨人。【勇者】の剣が、弾かれた。体の奥に流れこんでくるはずの力が、あの部屋では、ぐちゃぐちゃに乱れていた。
足が、動かなくなった。
剣が手から滑り落ちても、拾うことさえできなかった。怖かった。生まれて初めて、本気で怖かった。
そのとき、ボス部屋に飛びこんできた奴らがいた。
五組の、外れども。
あの翻訳野郎が、叫んでいた。右だ、左だ、と。【大食い】のでかぶつが盾で拳を受け止めて、【臆病】のチビが震えながら矢を射て、【無口】の女が――何をしたのかはわからないが、部屋の空気が、変わった。
俺が動けなかった場所で、あいつらは動いていた。
俺は、あのとき、何を感じていたんだろう。
助かった、と思った。それから、その百倍、悔しかった。
なんであいつは、ああいうときに声が出るんだ。Fランクのくせに。外れのくせに。なんで、あいつの声には、みんなが従うんだ。
昨日の二回戦も、モニターで見た。三組の鉄壁を、【大食い】がぶち抜いていた。翻訳野郎は、また何かを叫んでいた。五組のテントの周りには、人だかりができていた。
決勝の相手は、たぶんあいつらだ。
外れに負けるわけにはいかない。
絶対に。
あいつに負けたら、俺には何も残らない。【勇者】でなくなったら――父さんは、もう、電話さえかけてこないかもしれない。
区画から出る階段の途中で、俺は鷹宮に追いついた。
「おい、鷹宮」
鷹宮は、立ち止まらなかった。
「決勝は、俺の指示に従え。相手は五組だ。お前一人で片づけるんじゃなくて、俺たちの班で――」
「必要ない」
振り返りもせずに、鷹宮は言った。
「私一人で、勝てる」
かっと、頭に血が上った。
「お前な――」
鷹宮の肩をつかもうとして、手が止まった。
階段の踊り場の、魔石ランプの明かりの下。鷹宮は、手すりに右手をかけていた。
その指が、震えていた。
小刻みに、止まらない震え方だった。指先が、白い。爪のまわりに、霜のようなものがびっしりとこびりついている。手すりの金属に触れているところから、うっすらと白い靄が立ちのぼっていた。
六月だ。迷宮の中は、むしろ蒸し暑いくらいだ。
鷹宮は、俺の視線に気づいたのか、すっと右手を引いた。制服の袖の中に、指先を隠す。そして、何事もなかったように、階段を上っていった。
俺は、その場に立ちつくしていた。
……なんだ、今の。
鷹宮の、あの手は。
喉まで出かかった言葉を、俺は飲みこんだ。聞いて、どうする。俺には関係ない。あいつは勝手に一人で戦って、勝手に勝っているだけだ。俺の指示も聞かない奴の心配を、なんで俺がしなきゃならない。
決勝は明日だ。外れどもに勝つ。それだけ考えていればいい。
「御堂さーん! 早く行きましょうよ!」
階段の下から、細川の声がした。
「……ああ」
俺は、前を向いた。
見なかったことにした。
鷹宮の、霜の降りた指先も。それを見て、一瞬だけ、胸の奥がざわついた自分のことも。




