第32話 鉄壁と蓄積
弁当箱が、五つ。
入学式の翌日、大河が教室の机に並べた弁当箱は三つだった。あのときも十分驚いたけれど、五つ並ぶと、もう机の上が見えない。
「母ちゃんが、気合い入れて作ってくれた!」
出場者待機所のテントの中で、大河は一つ目の蓋を開けた。蓋の裏に、マジックで何か書いてある。
『がんばれ大河』
二つ目の蓋には、『食え』。
三つ目には、『まだ食え』。
四つ目には、『もっと食え』。
五つ目には、『勝て』。
「……はなさん、最後だけ急に雑だな」
「いや、一番気持ちこもってるだろ、これ!」
大河は、五つの弁当を十五分で平らげた。からあげ、卵焼き、ハンバーグ、おにぎりが八個。見ているだけで、こっちの胃が重くなる。
「ふう……溜まったぜ」
大河が、ぽん、と自分の腹を叩いた。その音が、なんだか太鼓みたいに重い。
「動けるか?」
「……ちょっと、重い」
【蓄積】は、食べた分だけ力を溜める。でも、溜めすぎると動きが鈍る。今日の大河は、たぶん、走るのは無理だ。
それでいい。今日の相手に、走る必要はない。
必要なのは、真正面から、壁をぶち抜く力だけだ。
◇ ◇ ◇
『Aブロック二回戦! ルビ、対、真鍋班! ――試合、開始!』
霞ヶ丘迷宮、第七層。第二区画。
天井の高い、縦に長い洞窟だった。区画の真ん中を、一本の太い通路が貫いている。両脇には細い横道がいくつも枝分かれしていて、天井には洞蝙蝠がびっしりとぶら下がっていた。
〈侵入者、確認。中央の通路、奥。四。……動かず〉
〈侵入者、確認。左の横道、一。速い〉
洞蝙蝠たちの声に、俺は耳を澄ませた。
「相手は四人が奥で固まってる。たぶん、旗の前だ。一人だけ、左の横道からこっちに向かってる。……速い」
「一人で突っこんでくんのか?」
「狙いは、たぶん――」
〈侵入者、接近。後方、無防備なる者〉
俺だ。
「小日向、俺の後ろ!」
「は、はいっ!」
振り返った瞬間、横道の暗がりから、黒い影が弾けるように飛び出してきた。三組の村上。スキルは確か【加速】。一瞬で距離を詰めて、訓練用の木剣を俺の胸元に突き出してくる。
――短剣で受けようとすんな。流せ。
灰原先生の声が、頭の中で鳴った。
腰の短剣を、抜きざまに斜めに当てる。受け止めるんじゃない。刃の背で、木剣の先を、ほんの少しだけ横にずらす。
かつん、と乾いた音がした。
木剣の切っ先が、俺の脇腹の横を空振りしていく。村上の目が、驚いたように見開かれた。
「なっ――」
「【先触れ】……来ます! 右に避けて!」
小日向の声に、俺は右へ転がった。その真上を、小日向の矢が通り過ぎていく。矢は、体勢を崩した村上の胸元に、こつんと当たった。
村上の身代わり符が、白く光った。
『三組、村上、戦闘不能!』
「や、やりましたっ……!」
「……助かった」
心臓が、ばくばく鳴っていた。手のひらが痺れている。でも、短剣は、まだちゃんと手の中にあった。
……先生、今度キャンディ買っていきます。
中央の通路を進むと、その「壁」が見えてきた。
通路の幅いっぱいに、半透明の光の板が立ちふさがっていた。厚さは、たぶん十センチくらい。表面が、薄い琥珀色にきらめいている。
その向こうに、一人の男子が、大きな盾を構えて立っていた。
真鍋堅吾。【鉄壁】。
四角い顔に、太い眉。盾を構えた腕は、丸太みたいに太い。光の板は、その盾から生えるように広がっていた。
壁の後ろには、男子と女子が一人ずつ。さらにその奥に、もう一人。そして、旗。
「――来たか、五組」
真鍋の声は、低くて落ち着いていた。
「先に言っとく。この壁は、抜けねえぞ」
言い終わる前に、壁の後ろから石が飛んできた。【投擲】の石井だ。小日向が「ひゃっ!」と叫び、俺たちは横道の陰に飛びこんだ。続けて、細い水の線が、さっきまで俺たちがいた地面をえぐる。【水流】の白石。
壁で守って、後ろから撃つ。一回戦を完封した戦い方だ。
「湊。行かせてくれ」
大河が、大盾を握り直した。
「……正面からか」
「おう。あれは、オレの相手だ」
大河は、にっと笑った。いつもの笑顔だった。でも、目だけが、試合前より少しだけ真剣だった。
「小日向、水無瀬。大河が突っこむ間、石と水を逸らす。俺が合図したら、小日向は石井の足元、水無瀬は――」
水無瀬が、こくりとうなずいた。歌の準備はできている、という顔だった。
「行け、大河!」
大河が、横道から飛び出した。
どすん、どすん、と重い足音が洞窟に響く。走っているとは言いがたい。でも、一歩ごとに、地面が小さく揺れた。
「【蓄積】――解放ッ!」
大盾ごと、光の壁にぶつかった。
轟音。
洞窟全体が、びりびりと震えた。天井の洞蝙蝠が、何十匹もいっせいに飛び立つ。
――壁は、割れなかった。
琥珀色の光が、大河の盾を受け止めて、ぎしぎしと軋んでいる。大河の体が、反動で一歩、二歩と押し戻された。
「……っ、硬えな」
「言っただろ」
壁の向こうで、真鍋が歯を食いしばっていた。額に汗が浮いている。向こうも、余裕があるわけじゃない。
「五組の盾が、三組の壁を抜けるかよ」
「抜くんじゃねえ」
大河が、盾を構え直した。腹の底から、深く息を吸う。
「――ぶち抜くんだよ」
〈突進、正面。大きき者〉
洞窟の奥から、別の声がした。
さっきの衝撃に驚いた影熊が、横道から飛び出してきたのだ。大河の背中めがけて、黒い巨体が突っこんでくる。
「水無瀬!」
〈しずかに、ねむれ。いたみよ、ねむれ〉
水無瀬の歌が、洞窟に広がった。影熊の足が、もつれる。荒い鼻息が、ゆっくりと落ち着いていく。黒い巨体は、大河の手前で、のそりと座りこんだ。
「小日向、今!」
「【先触れ】……っ、来ます、石、二つ!」
小日向の矢が、飛んできた石の一つを空中で弾いた。もう一つは、大河の盾の縁をかすめて、後ろへ逸れていく。
大河が、二度目の踏みこみをした。
五つの弁当。はなさんの、『勝て』。
全部の力を、肩に、腕に、盾に乗せる。
「【蓄積】――解放ッ!!」
さっきよりも、ずっと大きな音がした。
ぴしり、と光の壁に、ひびが走る。ひびは蜘蛛の巣みたいに広がって――
ばりん、と、壁が砕けた。
琥珀色の光の欠片が、雪みたいに降りそそぐ。その中を、大河の大盾が、真鍋の盾に正面からぶつかった。
真鍋の体が、後ろに吹き飛んだ。旗の手前の地面を、ずざざっと滑っていく。
真鍋の胸元で、身代わり符が光った。
『三組、真鍋、戦闘不能!』
「湊……あと、頼む……」
その場で、大河が膝をついた。
「腹……減った……」
ばったりと前に倒れる。……溜めた分を、全部使い切ったらしい。身代わり符は光っていない。ただの、空腹だ。
「お前、本当に……」
あきれながらも、口元が勝手にゆるんだ。
真鍋を失った真鍋班は、もう崩れかけていた。小日向の矢が石井の手元を射抜き、俺は白石の水流の合間を縫って走った。旗の台座まで、あと五歩。四歩。
旗の柄を握って、引き抜いた。
台座は、ちゃんと地面に残した。
『――決着! 勝者、ルビ!』
◇ ◇ ◇
地上に戻ると、大河は待機所のテントで、はなさんが追加で持たせてくれていたおにぎりを、無言で十個食べた。
ようやく顔色が戻ったところで、テントの入口に、四角い顔が現れた。
「犬飼」
真鍋だった。探索服のまま、少しばつが悪そうな顔をしている。
「……おう」
大河が、おにぎりを持ったまま立ち上がった。真鍋は、まっすぐ大河の前まで来ると、右手を差し出した。
「五組だと思って、舐めてた。……悪かった」
大河は、ぽかんとして、それから、にかっと笑った。おにぎりを左手に持ち替えて、真鍋の手をがっちりと握る。
「お前の壁、マジで硬かったぜ。一回目、普通に跳ね返されたし」
「次は、二回でも抜けねえ壁を作る」
「じゃあ、オレは三回目で抜く」
「……腹、もつのか」
「もたせる!」
真鍋が、ふっと吹き出した。四角い顔が、笑うと案外人懐っこい。
小日向がほっとしたように笑い、水無瀬がスケッチブックに『なかなおり』と書いて、二人の絵を添えていた。……喧嘩はしてないけどな。
『Bブロック二回戦、決着! 勝者、御堂班! 試合時間、わずか三分二十秒!』
スピーカーから、梶原先輩の興奮した声が響いた。
テントの外のモニターに、八層の区画が映っていた。光の粒になって消えていく影の向こうで、四人の生徒が立っている。いや、正確には、三人と一人だ。
御堂と権藤と細川は、区画の入口近くにいた。息も乱れていない。剣を抜いてさえいない。
戦ったのは、一人だけだった。
区画のいちばん奥。相手の旗を片手に下げて、鷹宮が立っていた。
『鷹宮選手、またしても単独で敵陣を突破! 相手パーティ五人を、一人で全員戦闘不能にしました! これが一組の剣聖です!』
校庭のあちこちから、歓声が上がる。
でも、俺は、歓声を上げる気になれなかった。
撮影球が、鷹宮の顔に寄っていく。モニターいっぱいに、その横顔が映った。
白い。
一回戦のときより、さらに白かった。唇の色が、ほとんどない。旗を持つ手の指先が、遠目にもわかるくらい、白く曇っている。
そして、その目は――勝ったというのに、何も映していなかった。




