第29話 凍った横顔
声をかけるべきか、三秒迷った。
向こうは一年一組の首席で、Sランクの剣聖で、迷宮庁の特別育成生だ。こっちは五組のFランクで、ついさっきまでからあげを食べていた。どう考えても、釣り合わない。
でも、うずくまったその背中は、どう見ても「平気」ではなかった。
「……鷹宮?」
ポニーテールが、ぴくりと揺れた。
ゆっくりと上がった顔は、コンビニの明かりの中で、紙みたいに白かった。唇の色が薄い。目の下に、うっすらと影がある。
「……真白」
かすれた声だった。
「具合、悪いのか」
「平気」
「平気な顔じゃないだろ」
「関わらないで」
ぴしゃりと言われた。言われたけれど、その声には、いつもの刃物みたいな鋭さがなかった。切れ味の落ちた刀を、無理に振り回しているみたいな声だった。
鷹宮は、膝を抱えた腕に、顔を半分うずめた。
そのとき、気づいた。
彼女の吐く息が、白い。
六月だ。夜になっても、半袖で歩いている人がいるくらいの陽気だ。なのに、鷹宮の口元から、冬の朝みたいな白い靄が、ふわりとこぼれては消えていく。
〈……湊〉
フードの中で、ルルが小さく身じろぎした。
〈剣の娘だ。この娘、ひどく冷えておる。……体の、もっと奥のほうが〉
俺が何か言う前に、ルルはフードから身を乗り出していた。ぽん、と俺の肩を蹴って、アスファルトの上に着地する。ころころと転がって、鷹宮のつま先の前で止まった。
〈おい、剣の娘。顔を上げよ〉
「……ルル」
鷹宮が、顔を上げた。
ルルは、小さな足で鷹宮の膝によじ登ると、抱えた腕の隙間に、むりやり体をねじこんだ。
〈うっ……冷たい。冷たいが……まあ、少しくらいなら、我慢してやる〉
ルルがぶるぶる震えながら丸くなる。鷹宮は、しばらく呆然とそれを見下ろしていた。それから、冷えきった両手で、そっと毛玉を包みこんだ。
「……あったかい」
ぽつりと、そう言った。
俺は、何も言わずに、踵を返した。
六月の夜に、温かい飲み物を売っている自販機は少ない。
でも、一台だけ心当たりがあった。すずらん通りの入口、古い煙草屋の前にある自販機だ。ばあちゃんが一年中そこで温かいお茶を買うので、店のおじいさんが、真夏でも「あったか〜い」の列を一段だけ残してくれている。
その一段の、いちばん端。
ホットココア。
「おや。真白さんとこの坊主じゃないか」
ちょうど店のシャッターを下ろしかけていたおじいさんが、手を止めてこっちを見た。
「こんな時間に、ホットかい。珍しいねえ。夏でもそこを押すのは、千代さんくらいだと思ってたよ」
「……ちょっと、寒そうな奴がいて」
「へえ。そりゃあ、残しといた甲斐があった」
おじいさんは、しわだらけの顔で笑って、シャッターを最後まで下ろした。
二本買って、コンビニの前に戻ると、鷹宮はさっきと同じ場所で、ルルを抱えたまま座っていた。逃げられていなかったことに、少しほっとする。
「ほら」
缶を一本、差し出した。
鷹宮は、俺の顔と、缶を交互に見た。
「……何」
「ココア。あったかいやつ」
「いらない」
「じゃあ、ルルのカイロ代わりにしてくれ。そいつ、たぶん、そろそろ凍る」
〈凍らぬ!〉
ルルが抗議した。でも、体はまだ小刻みに震えている。
鷹宮は、少しだけ迷ってから、片手を伸ばした。
缶を受け取るとき、また指先が触れた。
冷たい、どころじゃなかった。缶の熱が、触れたところから吸いとられていくような気がした。
鷹宮は、両手で缶を包みこんだ。しばらくそうしていて、それから、小さな音を立ててプルタブを開けた。ふう、ふう、と何度も息を吹きかける。……猫舌らしい。三回目でやっと、一口飲んだ。
「……甘い」
そう言った鷹宮の口元が、ほんの少しだけ、ゆるんだ気がした。
「……ありがと」
ほとんど聞こえないくらいの声だった。俺は「ん」とだけ返して、少し離れたところの車止めに腰を下ろした。隣に座るのは、なんとなく違う気がした。
「……この子、いつもあなたのフードにいるの」
鷹宮が、膝の上のルルを見下ろしたまま言った。
「学校にいるときは、だいたいな。家でも、勝手に入ってくる」
「……ずるい」
「何が」
「なんでもない」
〈ふふん。剣の娘は、我と常に共にある湊が羨ましいのだ〉
ルルが得意げに胸を張った。……ルルの言葉が鷹宮に聞こえなくて、本当によかったと思う。
しばらく、二人とも黙っていた。
コンビニの自動ドアが開くたびに、軽快なチャイムが鳴る。駐車場の向こうを、塾帰りらしい中学生が自転車で通り過ぎていく。
「迷宮庁の、訓練の帰り」
ぽつりと、鷹宮が言った。
「電車の中で、気分が悪くなって。途中で降りた。……ここがどこの駅かも、よく見てなかった」
「霞ヶ丘だよ。学校の最寄り」
「そう」
「家の人、呼ぶか?」
「呼ばない」
即答だった。
「祖父に知られたら、稽古が足りないと言われるだけ。……少し休めば、帰れる」
鷹宮は、ココアの缶をじっと見つめた。
「今日は、何回も使ったの。【剣聖】を」
俺は、黙って続きを待った。
「使うと、強くなる。音が遠くなって、相手の動きが遅く見えて、何も考えなくても体が勝手に斬ってくれる。……そのかわり、終わったあと、寒くなる」
鷹宮の指が、缶の表面をなぞった。指先が、白く曇っている。
「最初は、指先だけだった。今は、もっと奥まで冷える。それで……」
声が、少しだけ揺れた。
「スキルを使うたびに、何かを忘れるの」
「……何かって」
「好きだったもの、とか」
鷹宮は、膝の上のルルを見下ろした。
「豆大福が好きだった。小さいころから、ずっと。この前、久しぶりに食べたら、甘いってことしか、わからなかった。道で猫を見ても、かわいいって頭では思うのに、何も感じない。……最後に声を出して笑ったのがいつだったか、もう思い出せない」
淡々とした口調だった。天気の話でもするみたいに。
それが、かえって怖かった。
「でも、それでいいと思ってた。感情は剣を鈍らせる。教官にも、そう言われてる。私のスキルは、独りで戦うためのものだから。……『単独行動時、全能力が上昇する』。窓に、そう書いてあるから」
――窓に、そう書いてある。
その一言が、頭の中で、かちりと何かにはまった。
【大食い】。食事量が増加する。大河はずっと、自分を笑ってきた。
【臆病】。恐怖心が増大する。小日向はずっと、自分を責めてきた。
【無口】。発話を抑制する。水無瀬はずっと、誤解されてきた。
みんな、窓に書いてある言葉を信じて、その言葉どおりの自分であろうとしてきた。そして、その言葉は、全部、間違っていた。
鷹宮も、同じだ。
窓に書いてあるから、独りで戦う。窓に書いてあるから、何も感じなくていいと思いこむ。そうして、少しずつ凍っていく。
「……鷹宮。前に、部室で聞いたよな。あの日、俺が何をしたのかって」
鷹宮が、顔を上げた。
「俺のスキルは、【翻訳】だ。で、俺が訳してるのは……たぶん、窓の文字なんだ」
「窓の、文字」
「大河の【大食い】は、本当は【蓄積】だった。小日向の【臆病】は【先触れ】。水無瀬の【無口】は【静謐の歌】。窓に出てる名前は、本当の名前を、無理やりこっちの言葉に訳したものなんだと思う。それも、ひどい訳し方で」
鷹宮は、何も言わなかった。目だけが、大きく見開かれている。
「合同踏破のとき、俺が叫んでたのは、あいつらの本当の名前だ。本当の名前で呼んだら、力が跳ね上がった」
〈……湊の言うことは、まことだぞ、剣の娘〉
鷹宮の腕の中で、ルルが小さく鳴いた。もちろん、鷹宮には「きゅい」としか聞こえていない。それでも、鷹宮の指が、ルルの背中をきゅっと握った。
俺は、車止めから立ち上がった。
まっすぐに、鷹宮を見る。凍った横顔。白い息。霜の降りた指先。
この世界のスキル名は、訳がおかしい。ひどい名前が、本当はひどくなかったように。いい名前が、本当は――
確かめなきゃいけない。
「鷹宮」
コンビニの自動ドアが、また開いて、チャイムが鳴った。
「お前のステータス、読ませてくれ」




