第26話 灰原先生の短剣
〈噛みつき、左足〉
「大河、左足! 下から来る!」
「おうっ!」
大河が大盾を斜めに構えて、左足の前に叩きつけた。岩の塊みたいな顎が、がちん、と盾に食いつく。
霞ヶ丘迷宮、第六層。
ここに出るのは岩蜥蜴だ。体長は大型犬くらい。背中がごつごつした岩の鱗に覆われていて、ふつうの短剣ではなかなか刃が通らない。
〈尾、薙ぎ払い、右〉
「次、尻尾! 右から横に来る!」
「【先触れ】……来ます!」
俺の声と小日向の声が、ほとんど重なった。
大河が盾ごと体をひねり、尾の一撃を受け流す。その隙に、小日向が短弓を引き絞った。矢が、岩の鱗の隙間――柔らかい喉元に、すとんと刺さる。
岩蜥蜴が光の粒になってほどけ、灰色の魔石がころりと転がった。
「よっしゃあ! 三匹目!」
「やった……当たりました……!」
新人戦まで、あと三週間。
俺たちルビは、放課後、灰原先生の許可をもらって、学内迷宮の六層と七層で特訓をしていた。新人戦の会場になる階層だ。少しでも慣れておきたかった。
岩蜥蜴は、思ったより手ごわかった。でも、命令文は単純だ。〈噛みつき〉と〈尾〉と〈突進〉。それさえ聞こえれば、動きは読める。
「……なんか、オレらいい感じじゃね?」
「油断するなよ」
「わかってるって! なあ水無瀬、オレらいい感じだよな!」
水無瀬が、こくこくとうなずいた。親指まで立ててくれた。
七層に降りたところで、空気が変わった。
天井が、ぐっと高くなる。暗い天井のあちこちに、黒い染みのようなものがぶら下がっていた。
洞蝙蝠だ。
〈侵入者、確認〉
〈侵入者、確認〉
〈侵入者、確認〉
一匹じゃない。十、二十――天井のあちこちから、鈴の音が雨みたいに降ってきた。
「群れだ! 上、全部!」
〈急降下、正面、大きき者〉
〈急降下、左、小さき者〉
〈旋回、後方〉
「大河、正面から三匹! 小日向、左に下がれ! 何匹か後ろに回る!」
叫びながら、頭の中で命令文を必死に仕分ける。
数が多すぎた。一匹ずつなら簡単なのに、二十の声がいっせいに鳴ると、どれがどこの声なのか、聞き分けるだけで精いっぱいになる。
「水無瀬、頼む!」
水無瀬がうなずき、スケッチブックを胸に抱いて目を閉じた。
〈しずかに、ねむれ、つばさよ、ねむれ〉
澄んだ旋律が、広間いっぱいに広がっていく。洞蝙蝠たちの羽ばたきが、目に見えて鈍った。何匹かは、ふらふらと天井に戻っていく。
いける、と思った。
その瞬間だった。
〈急降下、後方、無防備なる者〉
――後方?
誰の後ろだ。大河は前。小日向は左。水無瀬は俺の右後ろで歌っている。
無防備なる者。
……俺だ。
振り返ったときには、黒い影がもう目の前にあった。とっさに訓練用の短剣を振り上げる。でも、遅い。洞蝙蝠の爪が刃を弾き、短剣が手から飛んでいく。体当たりをまともに食らって、俺は尻もちをついた。
「湊っ!」
二撃目が来る、と思った瞬間、横から何かが飛んできた。
ぱきん、と乾いた音がして、洞蝙蝠が光の粒になる。
俺の足元に、小さな白い棒が転がった。
……キャンディの、棒?
「あー……」
広間の入口に、灰原先生が立っていた。口には、新しいキャンディ。
「だから、後ろも気にしろっつったろ」
どうやら、さっきまでくわえていたキャンディを、棒ごと投げたらしい。それで洞蝙蝠の核を正確に撃ち抜いたのだ。
〈……あの飴の男、やはりただ者ではないな〉
フードの中で、ルルがぽつりとつぶやいた。
洞蝙蝠の群れを片づけたあと、俺たちは広間の隅で休憩をとった。
大河は持ってきたおにぎりを三つ立て続けに頬張り、小日向は水筒のお茶で一息ついている。水無瀬は、歌いすぎて少しぐったりしていた。
俺は、手のひらを見つめていた。
短剣を弾かれたときの痺れが、まだ残っている。
「……俺、指示はできるけど、自分の身は守れないんだな」
ぽつりと言うと、大河がおにぎりを口に入れたまま首を振った。
「ふぁにいっへんはよ。ほまえがいるから――」
「飲みこんでから喋れ」
「……ごくん。お前がいるから、オレら戦えてんだろ。湊は後ろで指示してくれりゃいいんだって。守るのはオレの仕事だ」
「新人戦は、人間相手だぞ」
大河が、口をつぐんだ。
「人間は、迷宮語で喋らない。予告が聞こえない。……それに、もし俺が真っ先に狙われたら、お前らに指示を出す奴がいなくなる」
それが、ずっと気になっていたことだった。
相手が影なら、俺は耳でなんとかできる。でも、新人戦の相手は人間だ。指示役が弱いとわかっていれば、まず指示役を潰しにくる。俺が相手でも、そうする。
「なら、少しは自分で守れるようになれ」
頭の上から、だるそうな声が降ってきた。
灰原先生が、俺の前にしゃがみこんでいた。右足をかばうように、少しぎこちない動きで。
先生は、腰の後ろから何かを抜いて、俺に差し出した。
「ほれ」
短剣だった。
刃渡りは三十センチくらい。訓練用の短剣よりひと回り長く、ずっしりと重い。刃は、使いこまれた鋼の色をしていた。黒ずんでいて、ところどころに細かい傷がある。でも、刃先だけは、きれいに研がれていた。
柄には古い革が巻いてあって、それが、誰かの手の形にすり減っている。銘は、どこにも刻まれていない。
「お下がりだ。昔、俺が使ってた」
「……いいんですか」
「押し入れで錆びさせるよりはマシだろ」
受け取ると、すり減った革が、不思議と手になじんだ。俺の手のほうが、少しだけ小さい。
「構えてみろ」
言われるまま、短剣を前に構える。先生は、キャンディの棒で俺の手首をこつんと叩いた。
「力みすぎだ。短剣で受けようとすんな。受けたら、さっきみてえに弾かれる。――流せ」
先生は立ち上がり、俺から短剣をひょいと取ると、軽く構えた。
次の瞬間、刃が消えた。
……いや、消えたように見えただけだ。右、左、下。三回、空を切る音がした。先生の足は、右足を引きずったまま、ほとんど動いていない。それなのに、刃の軌道だけが、目で追えないほど速い。
大河が、口の中のおにぎりを落としかけた。
「避けて、流して、逃げろ。斬るのは最後でいい」
先生は、何事もなかったように短剣を俺に返した。
「真白。お前の武器は耳だ。そいつは誰にも真似できねえ。……でも、耳だけじゃ生き残れねえ」
その声は、いつものだるそうな調子のままだった。でも、目だけが、少しも笑っていなかった。
初めての実習の日、広間の隅から俺を見ていたときと、同じ目だった。
それから三十分、先生は俺に、短剣の握り方と、足の運び方と、受け流しの角度を教えてくれた。教え方は雑で、説明は短くて、「あー」と「めんどくせえ」が二十回くらい挟まった。でも、一つ一つが、驚くほどわかりやすかった。
「先生」
帰りの階段で、俺は先生の背中に声をかけた。
先生の右足は、一段ごとに、ほんの少しだけ遅れる。気づいてからずっと、聞きたかったことだった。
「その足……迷宮で、ですか」
「あ?」
「さっき、すごく速かったから。昔は、もっと――」
「あー……」
先生は振り返らずに、ぼりぼりと頭をかいた。
「昔、階段で転んだ」
「階段」
「おう。こういう階段でな。……気ぃつけろよ」
がりっ、と小さな音がした。先生が、くわえていたキャンディを噛み砕いた音だった。
〈嘘だな〉
フードの中で、ルルがささやいた。
〈飴の男は、嘘をつくとき、飴を噛む。我は見ておったぞ〉
……よく見てるな、お前も。
俺はそれ以上、何も聞かなかった。聞いても、たぶん答えてはくれない。そういうことが、人にはある。
地上の明かりが、階段の上から差しこんでくる。先頭を歩いていた大河と小日向が、「腹減ったー」「さっき三つ食べてましたよね!?」と言い合っているのが聞こえた。水無瀬は、二人の後ろで小さく肩を揺らしている。
俺は、腰に差した短剣の柄に、そっと手を置いた。すり減った革の感触が、手のひらに残る。
「真白」
階段の最後の一段で、先生が立ち止まった。
振り返った顔は、もう、いつものだるそうな顔に戻っていた。新しいキャンディの包みを、指先で器用にほどいている。
「新人戦。鷹宮をよく見とけ」
「……鷹宮、ですか」
「ああ」
先生はキャンディを口に放りこみ、それから、ぼそりと言った。
「あいつ、危ねえぞ」




