第25話 閑話 鷹宮凛は凍っていく
木刀が空を切る音で、私の一日は始まる。
朝の五時。鷹宮家の道場は、まだ薄暗い。磨きこまれた床板は冷たく、一歩踏みしめるたびに、その冷たさが骨まで染みてくる。
素振り、千本。
物心ついたときから、ずっとそうしてきた。両親は仕事で海外にいることが多く、私はこの古い屋敷で、祖父と二人で育った。おもちゃより先に木刀を握り、絵本より先に型を覚えた。
「――止め」
低い声に、私は木刀を下ろした。
道場の上座に、祖父が座っていた。鷹宮厳。鷹宮流剣術の当主。白い髪を短く刈りこみ、八十近いとは思えないほど背筋が伸びている。
「凛。新人戦とやらに出るそうだな」
「はい。学校の指示です」
「御堂の倅と組むと聞いた」
「……はい」
祖父は、しばらく黙っていた。それから、いつもの言葉を口にした。
「剣は独りで振るうもの。他人に頼る剣は鈍る」
幼いころから、何百回と聞かされてきた言葉だ。
「群れるな。斬るのは、お前一人でいい」
「承知しています」
私は一礼して、素振りに戻った。
承知している。言われなくても、わかっている。
だって、私のスキルが、そう言っているのだから。
学校へ向かう電車の中で、私はそっとステータスを開いた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
名前:鷹宮 凛
スキル:【剣聖】
説明:剣技に極めて高い補正。単独行動時、全能力が上昇する。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
単独行動時、全能力が上昇する。
四月、天啓の儀でこの窓が開いたとき、私は少しも驚かなかった。むしろ、ほっとした。
ああ、やっぱり。祖父の言うとおりだった。私は独りで戦うために生まれてきたのだ、と。
だから、私はずっと独りで戦ってきた。実習でも、合同踏破でも。誰かと組まされても、その誰かは私の後ろにいればいい。前に出るのは私だけでいい。そのほうが強いと、窓がそう書いている。
……ただ、一つだけ、わからないことがある。
合同踏破の日。五層のボス部屋で、あの白黒の砂嵐みたいな石の巨人と戦っていたとき。
五組の男子が叫んだ。「左腕が来る」と。「それを避けたら、左の膝が空く」と。
私は、なぜか、その声に従った。考えるより先に体が動いていた。そして、その一瞬だけ――剣が、少し軽かった気がしたのだ。
気のせいだろう。独りのときのほうが、私は強いのだから。
電車の窓に映った自分の顔は、いつもと同じだった。表情のない、白い顔。
……いつから、こんな顔だったろう。
◇ ◇ ◇
放課後は、迷宮庁だ。
霞が関の本部ビル。その地下深くに、特務課の訓練施設がある。迷宮庁が全国から選んだ「特別育成生」だけが入れる場所だ。霞高からは、私と御堂海斗の二人。ほかにも、他校の生徒が数人いる。
灰色の壁に囲まれた、だだっ広い訓練場。天井の照明は白く、影がほとんどできない。
「始め」
合図とともに、魔石仕掛けの訓練人形が四体、同時に動きだした。
私は、鷹宮家に伝わる刀――白鷺を抜いた。
「――【剣聖】」
スキルの名を呼んだ瞬間、世界がすっと遠くなる。
音が小さくなり、色が薄くなる。人形の動きが、水の中にいるみたいに遅く見える。一体目の腕を斬り、二体目の胴を払い、三体目の首を落とし、四体目の核を突く。
十秒もかからなかった。
刀を鞘に納める。白い息が、ふっと口からこぼれた。
訓練場は、空調が効いている。寒いはずがない。なのに、私の吐く息だけが、冬みたいに白い。
「……鷹宮」
背後から、低い声がした。
振り返ると、黒いコートの男が立っていた。短い黒髪。顔には、何の表情も浮かんでいない。
黒崎冬馬。迷宮庁特務課の課長で、私たち特別育成生の教官だ。
「タイムが、先月より二秒縮んだ」
「はい」
「今、何を考えていた」
「何も」
「そうか」
黒崎教官は、わずかにうなずいた。褒めているのか、確かめているだけなのか、声からは何もわからない。
「感情は剣を鈍らせる。君はそれでいい」
「……はい」
訓練場の反対側では、御堂海斗が、私と同じ数の人形を相手に剣を振るっていた。【勇者】の光をまとった剣は派手で、力強い。でも、四体目を倒すまでに、私の三倍は時間がかかっていた。
御堂は息を荒らげながら、こちらを睨んでいた。私は目をそらした。睨まれる理由に、興味がなかった。
「鷹宮」
黒崎教官が、もう一度、私の名を呼んだ。
「合同踏破の報告書は読んだ。……五組の生徒に、助けられたそうだな」
「助けられたわけでは、ありません」
「どちらでもいい」
教官の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「その五組の生徒――真白湊について、何か気づいたことはあるか」
一瞬、頭の中に、白いものが浮かんだ。
旧資料室の机の上。ころんと転がってきた、小さな、ふわふわの毛玉。
「……何も」
気づいたら、そう答えていた。
「ありません」
「そうか」
黒崎教官は、それ以上は何も聞かなかった。踵を返し、コートの裾を揺らして去っていく。
私は、自分の答えに少しだけ驚いていた。
教官に、嘘をついたのは初めてだった。
「……おい、鷹宮」
更衣室へ向かう廊下で、御堂に呼び止められた。額に汗を浮かべたまま、苛立った顔をしている。
「新人戦じゃ、俺が指示を出す。勝手に一人で突っこむなよ」
「必要ない」
「あ?」
「私は一人のほうが強い。窓に、そう書いてある」
御堂は何か言い返そうとして、結局、舌打ちだけを残して去っていった。
それでいい、と思った。誰かと並ぶ理由なんて、私にはない。
◇ ◇ ◇
帰り道、駅前の和菓子屋の前で、足が止まった。
昔から好きだった店だ。小学生のころ、稽古でいい型ができた日だけ、祖父がここの豆大福を一つ買ってくれた。それが嬉しくて、私は毎日、必死に木刀を振った。
一つ買って、店の前のベンチで食べた。
……甘い。
甘い、と思う。舌は、ちゃんとそう言っている。
でも、それだけだった。
昔は、一口かじっただけで、顔がほころんだ。もっと食べたい、明日も食べたい、と思った。その「もっと」が、どこにもない。
ベンチの下を、茶トラの猫が通り過ぎていった。私の足元で立ち止まり、にゃあ、と鳴く。
かわいい、と思う。頭では、そう思う。
心は、少しも動かなかった。
【剣聖】を使うたびに、何かが冷えていく。最初は指先だけだった。今は、もっと奥のほうまで。
笑い方を、忘れていく。好きだったものが、少しずつ遠くなっていく。テレビのお笑い番組で笑った最後の日を、もう思い出せない。
これでいいのだ、と思う。感情は剣を鈍らせる。独りで戦うなら、何も感じないほうが強い。
……なのに。
あの、白い毛玉。
ルル、と真白は呼んでいた。
指先が、ふわりと毛に沈んだときの感触。小さな体の、陽だまりみたいな温かさ。そっぽを向いたくせに、すぐに私の手のひらにすり寄ってきた、あの生意気な仕草。
あのときだけは、胸の奥が、少し温かかった。
本当に、ほんの少しだけ。凍った池の真ん中に、小さな穴が一つ開いたみたいに。
……もう一度、撫でたい。
私はベンチの上で、豆大福の残りを握ったまま、しばらく固まっていた。
くだらない。何を考えているのだろう。
あれは迷宮の生き物で、校則違反で、五組の部室に隠されていて、私には関係のないものだ。わざわざ旧校舎まで会いに行く理由なんて、どこにもない。
……どこにも、ない。
明日の昼休み、旧校舎の前を通る用事が、何か一つくらいあってもいい気がした。
夜。
風呂から上がり、自分の部屋の机に向かって、明日の数学の予習を広げた。
一問目から、わからなかった。これは【剣聖】のせいではなく、昔からだ。
ため息をついて、シャープペンシルを握り直す。
握り直そうとして、指が、うまく曲がらなかった。
私は、自分の右手を見た。
電気スタンドの白い光の下で、人差し指の先が、白く曇っていた。爪のまわりに、細かい粉のようなものが、うっすらとこびりついている。
そっと、左手の指でこすってみる。
しゃり、と、かすかな音がした。
六月が、もうすぐそこまで来ている夜だった。窓の外では、蒸し暑い風が庭の木を揺らしている。
なのに私の指先には、霜が降りていた。




