第23話 剣聖、部室に来る
扉を開けて入ってきたのは、この学校でいちばん有名な一年生の、片方だった。
すらりと高い背。黒髪のポニーテール。切れ長の目。腰には、白い鞘の刀。廊下の明かりを背に立っているだけで、部室の温度が一度くらい下がった気がした。
鷹宮凛。一年一組。【剣聖】、Sランク。
「……ここ、五組の部室?」
「迷宮言語研究会。今日からな」
「そう」
それだけ言って、鷹宮は部室に足を踏み入れた。
ノックはなかった。挨拶もなかった。でも、なぜか無礼な感じはしない。たぶん、この人はそういう段取りを知らないだけなんだろう。
水無瀬が、スケッチブックを胸に抱えたまま、俺の背中に半分隠れた。……俺を盾にするのはやめてほしい。俺は、盾としてはかなり薄い。
鷹宮は、壁に貼った古い地図をちらりと見て、それから真っ直ぐ俺を見た。
「あの日、あなたは何をしたの」
前置きも、何もなかった。
「……あの日って」
「とぼけないで。合同踏破。五層のボス部屋」
声は淡々としていた。でも、目だけは鋭い。刀の切っ先を、喉元に当てられている気分になる。
「あなたは、石守が動く前に、動きを言った。『右から横に振り回してくる』とか、『次、踏みつけ』とか。私にも言った。『左腕が来る。それを避けたら、左の膝が空く』。……私は一瞬だけ、それに従った。その通りだった」
「……たまたまだろ」
「全部?」
ぐ、と言葉に詰まる。
「それに、あなたが名前を叫んだら、犬飼と小日向の力が跳ね上がった。犬飼の一撃は、石守の核を砕いた。あれが【大食い】の力?」
――よく見ている。
あのとき、鷹宮は石守に吹き飛ばされて、半分意識が飛んでいたはずだ。それでも、全部見ていた。
「腹がいっぱいだったんだろ」
「……くだらない」
鷹宮の眉が、ほんの少しだけ寄った。
「あなたのスキル、【翻訳】でしょう。何を訳してるの」
「日常会話」
「真白」
名字を呼ばれた。低い声だった。冗談に付き合う気はない、という意味だと思う。
俺は、ため息を一つついた。
「……悪いけど、言えない。俺にも、まだよくわかってないんだ」
半分は本当だった。残りの半分は、言いたくないだけだった。
俺が聞いているのは、魔物の言葉だ。そして、俺が読んでいるのは、窓の文字の「本当の名前」だ。そんなことを一組の、しかも迷宮庁の特別育成生に話したら、どうなるか想像もつかない。
鷹宮は、しばらく黙って俺を見ていた。
何か言い返されるかと思った。でも、彼女が口を開く前に――
〈……む。騒がしいな。我の昼寝を妨げるのは誰だ〉
窓辺の棚の上で、白い毛玉が、のそりと体を起こした。
まずい。
と思ったときには遅かった。ルルは寝ぼけた様子で棚の端まで転がり、そのまま、ころん、と机の上に落ちてきた。ちょうど、鷹宮の目の前に。
小さな足で、むくりと立ち上がる。黒いつぶらな目が、鷹宮を見上げた。
〈なんだ、お前は〉
鷹宮が、止まった。
まばたきもしない。呼吸をしているかどうかも怪しい。白い毛玉と、学年首席の剣聖が、机を挟んで見つめ合っている。
一秒。二秒。三秒。
……学食のときと同じだ。あのときも、フードから顔を出したルルを見て、この人は固まっていた。
五秒。
「……これ」
鷹宮の唇が、かすかに動いた。
「……毛玉」
「見ればわかる」
思わず言ってしまった。鷹宮は聞いていなかった。視線が、ルルから一ミリも離れない。
〈おい湊、この娘、なぜ我をじろじろと見る。無礼であろう〉
ルルが、ぷいとそっぽを向いた。その拍子に、背中の毛がふわっと揺れる。
鷹宮の肩が、びくっと跳ねた。
「……触っても、いい?」
さっきまでの鋭い声は、どこへいったのか。ほとんど、ささやきに近かった。
俺は、ルルを見た。ルルは鷹宮を見て、俺を見て、もう一度鷹宮を見た。
〈……ふん。少しだけなら、許してやらんこともない〉
「……少しだけなら、いいってさ」
「わかるの?」
「なんとなく」
鷹宮は、それ以上は追及しなかった。今はそれどころではない、という顔をしていた。
ゆっくりと、右手が伸びる。刀を握るときの手とは、たぶん全然違う手つきだった。指先が、白い毛に触れる。ふわり、と沈む。
鷹宮の口元が、ほんの少しだけ、ゆるんだ。
笑った、と言うには小さすぎる。でも、確かに何かがほどけた。張りつめていた糸が、一本だけ、ふっと緩んだみたいに。
指が、ルルの頭を撫でる。背中を撫でる。おなかのあたりの、いちばんふかふかしたところに、そっと手のひらを当てる。
〈な、なんだこの娘は。無礼な……〉
ルルが、もぞもぞと身をよじった。逃げるのかと思ったら、逃げなかった。
〈……だが、悪くない〉
目を細めて、ルルは鷹宮の手のひらに、自分から体をすり寄せた。
……陥落、早すぎないか。
背中のほうで、紙をこする音がした。振り返ると、水無瀬がスケッチブックに何か書いて、こっそりこちらに見せていた。
『鷹宮さん、かわいいもの、好き?』
俺は小さく肩をすくめた。たぶん、好きなんてもんじゃない。
水無瀬は少し考えて、同じページを、今度は鷹宮のほうにそっと向けた。
鷹宮は、ルルを撫でる手を止めずに、目だけでスケッチブックを読んだ。
「……別に」
手は止まらなかった。
水無瀬が、前髪の奥で目を丸くして、それから、肩を震わせて笑いをこらえた。
「名前は」
どのくらい撫でていただろう。やがて鷹宮が、ぽつりと聞いた。
「ルル」
「ルル……」
鷹宮は、その名前を、口の中でゆっくりと転がすように繰り返した。
「これ、迷宮の生き物でしょう。地上に出たら崩れるはずなのに」
「……さあ。迷宮で拾った。なんで崩れないのかは、俺にもわからない」
「持ち出しは校則違反よ」
「知ってる」
鷹宮は、少しだけ黙った。それから、ルルの頭をもう一度撫でた。
「……誰にも言わない」
意外な言葉だった。俺が目を瞬くと、鷹宮はふいと視線をそらした。
「言ったら、この子が困るでしょう」
ルルは、鷹宮の手のひらの上で、すっかりくつろいで丸くなっていた。
鷹宮は名残惜しそうに――本当に、顔に「名残惜しい」と書いてあった――ルルを両手ですくい上げ、俺に差し出した。
受け取るとき、俺の指先が、鷹宮の指先に触れた。
冷たかった。
五月だ。窓の外では、中庭の木が青々と葉を広げている。昼間は半袖でもいいくらいの陽気だった。なのに鷹宮の指は、冷蔵庫から出したばかりの水差しみたいに冷えきっていた。
〈……っ、冷たい〉
手のひらの上で、ルルがぶるっと震えた。
〈湊。この娘の手、氷のようだ。……撫でられているときは、気づかなんだが〉
俺は、何も言わなかった。言えなかった。
鷹宮は手を引っこめると、それを隠すように、制服の袖の中に指先をしまった。
「真白」
「なんだ」
「あなたは……」
鷹宮は、何かを言いかけた。
唇が、ほんの少し開いたまま止まる。目が、一瞬だけ揺れた。迷っているのだとわかった。聞きたいことがある。でも、それを口に出していいのか、決められずにいる。
そういう顔を、俺は最近、何度か見た覚えがあった。自分のスキルについて話す前の、大河や、小日向や、水無瀬の顔だ。
「……なんでもない」
鷹宮は、くるりと背を向けた。ポニーテールが揺れる。
「邪魔したわね」
扉が閉まる。足音が、廊下を遠ざかっていく。来たときと同じく、さよならもなかった。
部室には、俺と水無瀬と、手のひらの上でまだ少し震えているルルが残った。
『鷹宮さん、何を聞きたかったのかな』
水無瀬のスケッチブックに、俺は首を振った。
「……わからない」
でも、引っかかっていることならある。
学食で、スケッチブックを受け取ったときの冷たい指。合同踏破の五層で、一人で石守と戦っていた彼女の周りに降りていた、白い霜。斬るたびに、表情が少しずつ消えていった横顔。
そして、今の指先。
【剣聖】。剣技に極めて高い補正。Sランク。誰もが羨む、当たりの中の当たり。
……本当に、そうなのか?
この世界のスキル名は、訳がおかしい。【臆病】は【先触れ】だった。【大食い】は【蓄積】だった。【無口】は【静謐の歌】だった。ひどい名前が、本当はひどくなかった。
なら、逆もあるんじゃないか。
いい名前に見えて、本当は――
俺は、閉まった扉のすりガラスを見つめた。そこにはもう、誰の影も映っていなかった。




