第22話 ルビ
部室の黒板には、大河のでかい字でこう書いてあった。
『第一回 パーティ名会議』
旧資料室には、なぜか古い黒板が残っていた。チョークも、箱ごと棚の奥から出てきた。どれもこれも短くて、大河の指につままれると、ほとんど爪楊枝に見える。
「はい! じゃあ一人ずつ案を出していこうぜ! まずオレな!」
大河は黒板に向き直り、力いっぱい書いた。
『腹ペコ団』
「却下」
「早えよ!」
「腹ペコなのはお前だけだろ」
「いや、迷宮って腹減るじゃん! みんな腹ペコじゃん!」
小日向が、困ったように笑いながら手を挙げた。
「あ、あの……わたしも、考えてきました」
チョークを受け取って、背伸びをしながら黒板の端に書く。小さくて、丸い字だった。
『ひだまり』
「おお、いいじゃん! なんかあったけえ感じ!」
「……悪くないな」
本当に悪くなかった。小日向らしい名前だと思う。
「ただ、迷宮の中って、日が当たらないけどな」
「あっ……そ、そうでした……」
小日向は、しゅんと肩を落とした。言わなきゃよかった、と少し後悔する。俺はこういうところで、一言多い。
〈待て。我にも案がある〉
窓辺で日向ぼっこをしていたルルが、ころころと机の上に転がってきた。小さな足で踏ん張り、胸――たぶん胸のあたり――を張る。
〈『偉大なるルル様と下僕たち』。これ以外にあるまい〉
「却下」
〈なぜだ!〉
「……ルル、なんて?」
大河に聞かれて、俺は正直に訳した。小日向が「げ、下僕……」と小さく繰り返し、大河が「下僕はやだなー」と腕を組む。ルルは〈ぐぬぬ〉と震えて、また窓辺へ転がっていった。
「湊は? 何か案ねえの?」
「……迷言研でいいだろ」
「それ部活名じゃん!」
会議は、早くも行き詰まった。
黒板には、『腹ペコ団』と『ひだまり』と、俺が渋々書き足した『迷言研(仮)』が並んでいる。どれも決め手に欠ける。
そのとき、こつこつ、と机を叩く音がした。
水無瀬だった。スケッチブックを抱えて、何か言いたそうにこっちを見ている。
「水無瀬も、案ある?」
水無瀬は小さくうなずくと、スケッチブックにペンを走らせはじめた。
いつもより、ずっと時間がかかっていた。三人で、なんとなく息を詰めて待つ。やがて水無瀬は、ゆっくりとスケッチブックをこちらに向けた。
そこには、漢字が三つ並んでいた。
『臆病』
『大食い』
『無口』
どれも、俺たちの窓に表示されている文字だ。でも、それぞれの漢字のすぐ横に、小さな、小さなひらがなが添えてあった。
『臆病』の横には、『さきぶれ』。
『大食い』の横には、『ちくせき』。
『無口』の横には、『せいひつのうた』。
「……ふりがな?」
大河がつぶやく。水無瀬はこくりとうなずいて、ページをめくった。
『ルビ』
『本当の読み方を、横に小さく書くもの』
もう一枚、めくる。
『湊くんがやってること、みたいだなって』
俺は、しばらく何も言えなかった。
表に出ている文字は、ひどい名前だ。【臆病】。【大食い】。【無口】。でも、その横に、小さく、本当の読み方が書いてある。誰かが気づいて、書き添えてくれさえすれば。
俺がやってきたのは、確かに、そういうことだった。
「……いいな、それ」
口から出たのは、それだけだった。でも、水無瀬の前髪の奥で、目がぱっと明るくなったのがわかった。
「ルビ……。なんか、かっこいいです」
小日向が、ほうっと息をついた。
「だな! 短えし、覚えやすいし! ……ん?」
大河が、スケッチブックの最後のページを二度見した。
「水無瀬、今、湊『くん』って書いた!」
水無瀬の動きが、ぴたりと止まった。
それから、ゆっくりと、耳の先から赤くなっていった。今まで彼女はずっと、『真白くん』と書いていた。たぶん、本人も書いてから気づいたんだろう。ペンを持つ手が、宙で迷っている。
ページの隅に、とても小さな字が増えた。
『だめ、だった?』
「……いや。別に、だめじゃない」
声が、思ったよりそっけなくなった。照れているのを隠そうとすると、俺はいつもこうなる。
水無瀬はほっとしたように肩の力を抜くと、もう一行、書き足した。
『大河くん、も』
「おう! 大河くんだぜ!」
大河は、なぜか満面の笑みで親指を立てた。小日向が、それを見て「よかったですね、大河くん」と笑う。こっちはこっちで、すっかり呼び慣れてきたらしい。
ふと、スケッチブックの、さっきのページに目が戻った。
三つの漢字の下に、もう一つ、四つ目の漢字が書いてあった。『翻訳』。
その横だけ、何も書かれていない。小さな空白が、きちんと一人分、空けてある。
……まあ、いいけど。
俺はその空白から目をそらして、黒板の前に立った。『腹ペコ団』と『ひだまり』と『迷言研(仮)』の横に、カタカナで二文字、書き足す。
「じゃあ、決を採る。ルビがいい人」
三本の手が、すぐに挙がった。俺も挙げた。
窓辺から、ふん、と鼻を鳴らす音がした。
〈我の案のほうが威厳があったが……ルビ、か。まあ、悪くない響きだ〉
最後に、白い毛玉の小さな足が、ぴょこんと一本挙がった。
大河は店の手伝いがあると言って先に帰り、小日向は弟たちを迎えに行く時間だと言って慌てて出ていった。
部室には、俺と水無瀬と、窓辺で丸くなって寝はじめたルルが残った。
水無瀬が、スケッチブックの後ろのほうのページを開いて、俺の前に置いた。
蔓が絡み合ったような模様が、何ページにもわたって描かれている。中学のころから、意味もわからないまま描いてしまっていたという、あの模様だ。
『歌の、練習がしたい』
合同踏破の日から、水無瀬は「歌う」ことを覚えた。声は出ない。でも、心の中で歌うと、魔力が旋律になって広がる。俺にだけは、それがはっきり歌として聞こえる。
『でも、何を歌ってるのか、わたしにはわからないの』
そうか、と思う。水無瀬が描いてきた模様は、迷宮文字だ。歌詞なのに、本人には読めない。
レベルが上がってから、俺は迷宮文字を前より楽に読めるようになった。窓の文字を読むときみたいな頭痛も、ほとんどない。
「……読んでみる」
一ページ目。蔓の文字が、目の中でほどけて、するすると意味に組み直っていく。
〈しずかに、ねむれ。いたみよ、ねむれ〉
「これは、あの日の歌だ。石守のときの」
水無瀬がうなずく。ページをめくる。
〈ほのおよ、ねむれ、あかい、こどもよ〉
「炎よ、眠れ。赤い子どもよ。……火を、子どもみたいに寝かしつける歌、かな」
水無瀬は、俺が訳した言葉を、迷宮文字のすぐ横に小さな字で書きこんだ。
……ルビだ、と思った。
次のページ。その次。俺が読み、水無瀬が書き添える。気づけば、蔓の文字の横に、小さなひらがなの列がいくつも並んでいた。
『歌ってみても、いい?』
「ああ」
水無瀬は、スケッチブックを胸に抱いて、目を閉じた。
部室の空気が、すうっと静かになった。
〈ほのおよ、ねむれ、あかい、こどもよ〉
澄んだ声だった。風鈴を、遠くでいくつも鳴らしたような。耳で聞いているのに、胸の奥のほうで鳴っている気がする。窓から入る夕方の風まで、足を止めて聞いているみたいだった。
歌が終わると、水無瀬は小さく息を吐いて、椅子の背にもたれた。額に、うっすら汗がにじんでいる。
「疲れたか」
水無瀬は、ペンでつまむ仕草をしてみせた。……ちょっとだけ、ということらしい。
「無理するなよ。歌うのって、たぶん、走るのと同じくらい体力使うんだ」
『湊くんは、どんな意味かわかるから、ずるい』
「ずるいって」
『わたしも、自分の歌の意味、知りたかった』
その下に、小さく。
『だから、ありがとう』
スケッチブックを、二人でのぞきこむ。気がつくと、水無瀬の髪の先が俺の腕に触れそうなくらい近くにいた。慌てて、少しだけ椅子を引く。
〈……湊。顔が赤いぞ〉
窓辺から、寝ていたはずの毛玉の声がした。
「夕焼けのせいだ」
〈ほう〉
「寝てろ」
水無瀬が首をかしげる。ルルの声は、彼女には「きゅー」としか聞こえていない。それが、今だけは心の底からありがたかった。
それから、水無瀬はもう二曲、短い歌を練習した。最後の一曲を歌い終えるころには、窓の外はすっかり薄暗くなっていた。
「そろそろ帰るか」
水無瀬がうなずき、スケッチブックを閉じる。
俺は、机の上の登録用紙を手に取った。いちばん下の空欄には、もう名前が書いてある。大河の大きな字で、カタカナが二文字。
――ルビ。
明日、灰原先生に出しに行こう。そう思いながら、鞄に用紙をしまったときだった。
水無瀬が、俺の袖を、くいと引いた。
顔が、扉のほうを向いている。
旧資料室の扉には、上半分にすりガラスがはまっている。廊下の明かりが、そのガラスをぼんやりと白く照らしていた。
その白い四角の中に、人影が一つ、映っていた。
背が高い。動かない。ノックもしない。
いつからそこにいたのか、わからなかった。ただ、その影は――じっと、こっちを見ているようだった。




