第20話 外れたちの帰還
灰原先生は、四層への階段の途中で、俺たちを見つけた。
右足を引きずりながら、手すりにすがるようにして駆け下りてくる。息が上がっていた。いつも口にくわえているキャンディが、なかった。どこかで落としたらしい。
「……生きてるか」
「生きてます」
先生は、俺たちを一人ずつ見た。鷹宮、御堂、権藤、細川。大河、小日向、水無瀬。最後に、俺。
それから、長い長い息を吐いた。
「……そうか」
それだけだった。でも、その一言に、何かがたくさん詰まっている気がした。
後ろから、他の先生たちが担架を抱えて降りてきた。権藤と細川が担架に乗せられ、鷹宮は肩を貸されて歩きだす。御堂は、差し出された手を払いのけて、一人で階段を上っていった。
俺も、大河に肩を借りて階段を上った。途中、壁に刻まれた蔓の文字が、目に入った。
〈上へ〉
「……上へ」
「湊、なんか言ったか?」
「いや。壁に、そう書いてある」
言ってから、気づいた。迷宮文字だ。水無瀬の模様を読んだときは、あんなに頭が痛かったのに。今は、看板を読むみたいに、すっと意味が入ってきた。
レベルが上がる、というのは、こういうことなのか。
それにしても、初めて読めた迷宮文字が「上へ」。階段に書いてあるんだから、そりゃそうだろう、という内容だった。
◇ ◇ ◇
「えー、昨日の件について、学校からの発表だ」
翌朝のホームルームで、灰原先生がプリントを棒読みした。
「新入生合同踏破において、一年一組の班が、五層で異常個体に遭遇。居合わせた一年五組の班が、救助に協力した。双方に重傷者なし。……以上」
「協力って!」
大河が立ち上がった。
「オレら、倒したんすよ!? あのでかいの!」
「書いてあんだろ。協力したって」
「いや、だから――」
「めんどくせえから、そういうことにしとけ」
先生は、プリントを丸めてゴミ箱に放った。外れた。
あとで聞いた話だと、四層の異常のせいで無線が乱れて、全班に出ていた「その場で待機」の連絡が、二つの班にだけ届いていなかったらしい。最初に出発した御堂の班と、俺たちの班だ。
正直、俺はほっとしていた。協力した、くらいがちょうどいい。注目されるのは、講堂で笑われた一回で十分だ。
――と、思っていたのだけれど。
「ねえねえねえ! 翻訳くん!」
ホームルームが終わった瞬間、机の前に女子が飛んできた。佐伯ミナ。スキルは【おしゃべり】。
「本当に五層まで行ったの!? ボスってどんなだった? 勇者様、泣いてた? 剣聖様は? 犬飼くんが倒したって本当? ていうか、なんで五組の班が一組を助けられたの? ねえ、どうやって?」
「……質問は一つずつにしてくれ」
「無理!」
即答だった。
佐伯の後ろから、森田が眼鏡を押し上げながら顔を出した。
「俺の班、四層で迷子になってさ。気づいたら三層の休憩所に戻ってた。おかげで変なのには会わなかった」
「それは迷子って言うのか」
「早乙女は?」
「んー。気が向かなかったから、二層で帰った」
それはそれで、正しい判断だったのかもしれない。
野々村という女子が、なぜか目に涙を浮かべていた。
「よかったぁ……みんな、無事で……」
「カナ、もう泣いてる」
「だってぇ……」
気づけば、俺たちの机のまわりに人が集まっていた。大河は質問攻めにあって嬉しそうだし、小日向は女子に囲まれて「ひゃっ」を連発している。水無瀬の前にも、何人かが立ち止まって、スケッチブックをのぞきこんでいた。
入学した日の、あの重たい教室とは、少し違う空気だった。
「あの……」
ふと、すぐ横から、小さな声がした。
「委員長の、藤堂です……昨日から、お見舞いのお花、用意してたんですけど……」
いつからそこにいたんだろう。全然、気づかなかった。
「……ありがとう、委員長」
「いえ……いつものことなので……」
委員長は、少し寂しそうに笑った。
昼休み、廊下で御堂とすれ違った。
取り巻きの二人は、腕や足に包帯を巻いていた。細川は俺と目が合うと、気まずそうに逸らした。それから、水無瀬のほうをちらりと見て、ほんの少しだけ頭を下げた気がした。
御堂は、立ち止まった。
俺を睨む。怒っているような、悔しがっているような、どちらでもないような目だった。
「……今回だけだ、外れ」
低く、吐き捨てるように言って、御堂は歩き去った。
何が「今回だけ」なのか、よくわからなかった。たぶん、本人にも。
廊下の突き当たりの窓際に、鷹宮が立っていた。額に、小さな絆創膏を貼っている。腕を組んで、窓の外を見ている――ふりをして、こっちを見ていた。
目が合う前に、鷹宮は背を向けて、一組の教室へ戻っていった。
放課後、管理棟の前で、灰原先生をつかまえた。
「先生。あの白黒のやつ、何なんですか」
「……さあな」
先生は、新しいキャンディの包みをむきながら言った。
「わかってたら、苦労しねえよ」
はぐらかされた、と思った。今までと同じように。
「……あいつ、最後に、寒かったって言ったんです」
気づいたら、口が勝手に続けていた。
「魔物の鳴き声には意味がないって、教科書には書いてあります。でも、たぶん違う。意味がないんじゃなくて、俺たちが、ちゃんと訳せてないだけなんじゃないかって」
先生は、何も言わなかった。キャンディを口に入れて、しばらく、黙って管理棟の壁を見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「お前の母さんも、似たようなこと言ってたよ」
「……え?」
「『この世界の言葉は、どこか訳がおかしい』ってな」
息が、止まった。
訳がおかしい。窓の文字は、無理やり押し込めた訳。ルルの言葉と、母さんの言葉が、頭の中で重なる。
「先生、それ、どういう――母さんと、どこで」
「めんどくせえ。帰れ」
先生は、片手をひらひら振って、管理棟の中へ消えていった。
俺は、閉まった扉の前に、しばらく立っていた。
母さんは、迷宮の言葉を研究していた。それは知っている。でも、母さんが何を考えて、何を見て、何を言っていたのか。俺は、ほとんど何も知らない。七歳だったから。最後の朝のことを、思い出したくないから。
それを、灰原先生は知っている。
訳がおかしい、と母さんは言った。だとしたら、母さんも、気づいていたんだろうか。この世界の名前が、どこか間違っていることに。
帰り道、四人で駅まで歩いた。
水無瀬が、歩きながらスケッチブックに何か書いて、俺に見せた。
『こんどは、ちゃんと、役に立てた?』
二層で書いた、『ごめんね』の続きみたいだった。
「最初から立ってたよ」
俺は言った。
「……でも、うん。すごかった」
水無瀬は、スケッチブックで顔の下半分を隠した。隠しきれていない目元が、笑っていた。
「なあ」
前を歩いていた大河が、振り返った。
「ひよりの矢も、すげえよかったよな。あれ、一発で当てたんだぜ」
小日向の足が、止まった。
「ひゃっ……い、今……名前……」
「え? あ、わりい。つい」
大河が、頭をかく。小日向は、耳まで真っ赤になって、ぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ……! いやじゃ、ない、です……」
それから、小日向は、両手の指をもじもじと組み合わせて、うつむいたまま言った。
「い、犬飼くんの盾も……その……すごく、かっこよかった、です……」
「お、おう……? そっか。へへ」
大河まで赤くなっていた。でかい図体で、照れ方が下手すぎる。
水無瀬が、俺の袖をくいっと引いた。見ると、スケッチブックの隅に、小さく書いてあった。
『いいね』
……まあ、いいけど。
◇ ◇ ◇
その夜、ルルは俺の枕の上で、なかなか眠らなかった。
〈湊〉
「なんだ」
〈あの、白と黒の狼……あれを見たとき、何かを思い出しかけたのだ〉
ルルは、小さな体をぎゅっと丸めた。
〈しじま……〉
「しじま?」
〈……わからぬ。その言葉が、浮かんだだけだ。意味は、我にも、わからぬ〉
しじま。
どこかで見たことのある言葉のような気がした。古い辞書の、どこかのページで。
でも、思い出す前に、ルルの寝息が聞こえてきた。
◇ ◇ ◇
霞が関。迷宮庁本部、最上階。
長官室の窓の外には、夜の東京が広がっていた。
「報告します」
黒いコートの男が、執務机の前に立っていた。短い黒髪。表情は、ない。特務課の課長、黒崎は、手元の書類に目を落とすこともなく、淡々と告げた。
「霞ヶ丘迷宮で、黙者が出現しました。第五層の守護個体が侵食された模様です」
机の向こうで、白髪まじりの男が、静かに顔を上げた。
迷宮庁長官、御堂玄十郎。
「対処したのは、居合わせた一年五組の生徒四名。一組の生徒の証言によれば、そのうちの一名が、侵食個体の動きを事前に読んで、指示を出していたとのことです」
長官の指が、机の上で、わずかに動いた。
「その生徒のスキルは、【翻訳】。Fランク」
黒崎は、一拍おいて、続けた。
「――真白詩織の息子です」
長官は、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりと、目を閉じた。




