第19話 名前を呼ぶ
「大河、【蓄積】だ! 小日向、【先触れ】!」
叫んだ声が、ボス部屋の高い天井に跳ね返った。
水無瀬の歌は、まだ続いている。白黒の粒は潮が引いたように静まり、石守は拳を振り上げたまま、宙で止まっていた。
でも、それは眠っているだけだ。倒したわけじゃない。歌がやめば、きっとまた動きだす。
今しかない。
「おう! ……って、その前に!」
大河が、リュックに手を突っこんだ。取り出したのは、最後の一個のおにぎりだった。
「これ食ってからな!」
「早く食え!」
大河は二口でおにぎりを飲みこむと、ひび割れた盾を拾って立ち上がった。それから、大きく息を吸いこむ。
「――【蓄積】ッ!」
大河の全身から、熱が噴き出した。
陽炎が、腕だけじゃなく、肩から背中まで、大河の体をすっぽり包みこむ。さっきまで寒さで震えていた膝が、ぴたりと止まった。ひびの入った盾が、まるで新品みたいに軽々と持ち上がる。
「……なんだこれ。自分で呼ぶより、ずっと……」
大河が、自分の手を見つめた。
名前を、呼ばれたからだ。
なぜか、そう思った。本当の名前で呼ばれると、スキルは応える。本人が呼んでも、誰かが呼んでも。
十五歳の春、人はみんな、一つだけ名前をもらう。そして、その名前で呼ばれて生きていく。【大食い】の犬飼。【臆病】の小日向。【無口】の水無瀬。
間違った名前で呼ばれ続けたら、本当の力なんて、出せるはずがない。
「ひ、【先触れ】……っ」
小日向が、震える唇で、自分の真名を繰り返した。
その瞬間、小日向の大きな目が、さらに大きく見開かれた。
「……あ」
小日向は、石守を見上げていた。止まったままの巨人を。
「わかる……わかります。今までは、ぞわっとするだけだったのに……今は、冷たいのが、どこから来てるのか……」
その言葉に重なるように、耳の奥で、かすかな鈴が鳴った。
〈……核……を……〉
石守の声だ。歌で雑音が静まったせいで、さっきより聞き取りやすい。
〈……核を……守……〉
核。
この巨人にも、スライムと同じように、核がある。それを守ろうとしている。でも、どこにあるのかまでは、言っていない。
「小日向、あいつの核はどこだ」
「か、核……」
小日向は、ぎゅっと目を閉じた。
ほんの数秒。でも、ものすごく長く感じた。
「……背中」
目を開けて、小日向は言った。
「背中です……右の、肩の下……そこが、いちばん冷たい……! 全部の冷たいのが、そこから出てきてます……!」
小日向は、震える手で弓に矢をつがえた。
四層では、一本も当たらなかった矢。それを、まっすぐに引き絞る。
「……っ、えいっ!」
矢が、飛んだ。
弧を描いて、石守の巨体の後ろへ回りこむ。そして――とん、と。右の肩甲骨のすぐ下に、突き立った。
白黒の粒が静まっている今なら、矢が刺さる。
「当たった……当たりましたっ!」
「上出来だ!」
あそこだ。あの矢の場所に、核がある。
でも、高い。石守は立ったままだ。背中の、肩の下なんて、大河でも届かない。
歌の旋律が、少しだけ揺らいだ。
振り返ると、水無瀬の額に、汗がにじんでいた。目を閉じたまま、唇を噛みしめている。声なき歌は、きっと、ただ歌っているだけじゃないんだ。何かを、ものすごく使っている。
石守の指先が、ぴくりと動いた。
〈……膝……〉
かすかな命令。立ち直ろうとしている。さっき鷹宮が斬った、左の膝をかばいながら。
「鷹宮!」
俺は、刀を構えたまま立ちつくしていた鷹宮に叫んだ。
「道を開けてくれ! 左の膝、もう一度だ! あいつを、ひざまずかせてくれ!」
鷹宮は、振り向かなかった。
かわりに、白い刃が、ひるがえった。
さっきより、速い。いや、速さは同じかもしれない。でも、迷いがなかった。一直線に、石守の左膝へ。さっき刻んだのと、まったく同じ線の上へ。
刃が、深く食いこんだ。
ぴしり、と岩の割れる音がした。
石守の巨体が、ぐらりと傾く。左膝が折れ、地響きを立てて、片膝をつく。巨大な背中が、前のめりに、低く下がった。
矢の刺さった場所が、大河の手の届く高さまで、降りてきた。
「大河、今だ! 矢のところ!」
「任せろォッ!」
大河が、石畳を蹴った。
百八十五センチの巨体が、折れた石守の膝を踏み台にして跳ぶ。熱をまとった体が、石守の背中に取りつく。盾を投げ捨て、籠手の右拳を、大きく振りかぶる。
小日向の矢が、目の前にあった。
「【蓄積】――」
溜めこんだもの全部。からあげおにぎり十八個ぶん。いや、たぶん、それだけじゃない。中学で笑われた分。天啓の儀で笑われた分。母ちゃんに申し訳ないと思った分。
「――解放ッ!」
拳が、矢の根元に叩きこまれた。
どごおん、と。
部屋じゅうの空気が、一度に震えた。
石守の背中に、大きな亀裂が走った。白黒の粒が、その亀裂から勢いよく噴き出す。噴き出して、宙に散って――その奥で、何かが、ぱきん、と砕ける音がした。
石守の動きが、止まった。
今度は、本当に。
巨大な体から、白と黒の粒が、ぱらぱらと剥がれ落ちていく。雨上がりに、壁の古い塗装がはがれるように。剥がれたところから、灰色の、本当の岩肌が現れる。
その岩肌も、端から、淡い光の粒になってほどけ始めた。
そのときだった。
〈……さむ、かった……〉
声が、聞こえた。
石守の声だった。ノイズの奥から、かすかに。今にも消えてしまいそうに、細く。
命令じゃなかった。
侵入者、確認。核を守れ。膝。そういう、短くてそっけない言葉じゃない。
さむかった。
それは、たぶん、この巨人が初めて口にした、自分自身のことだった。
胸が、ぎゅっと痛んだ。
ずっと、寒かったのか。あの雑音に包まれて、命令も届かなくなって、自分が何なのかもわからなくなって。それでも、ここに立たされていたのか。
誰にも、その声を聞いてもらえないまま。
〈……あれは〉
首の後ろで、ルルが小さく言った。
〈あれは、寒かったのだな。我と、同じだ。暗いところで、ずっと〉
一層の隅の岩陰で、泣いていたルルの声を思い出した。誰か、我の声を。誰も、聞いてくれぬ。
俺は、光の粒が昇っていく天井を見上げた。
「……聞こえたよ」
小さく、つぶやいた。届いたかどうかは、わからない。
光の粒が、天井へ昇っていく。ゆっくりと。まるで、やっと暖かい場所へ帰れるみたいに。
最後の一粒が消えたとき、部屋の中は、しんと静かになっていた。
雑音は、どこにもなかった。
水無瀬の歌が、ふっと途切れた。
振り返ると、水無瀬が、壁にもたれたまま、ずるずると座りこむところだった。スケッチブックを胸に抱いて、肩で息をしている。でも、その口元は、かすかに笑っていた。
大河は石守がいた場所に仰向けに倒れて、「腹……減った……」と天井に向かってうめいていた。小日向は弓を抱えたまま、ぺたんと座りこんで泣いていた。泣きながら、笑っていた。
鷹宮は、刀を鞘に収めて、俺を見ていた。何も言わずに。
壁ぎわの御堂は、膝を抱えたまま、うつむいていた。床に落ちた迷宮庁の剣を、拾いに行こうともしなかった。
「……ありえねえ」
かすれた声が、一度だけ聞こえた。誰に向けた言葉なのかは、わからなかった。
終わった。
そう思って、息を吐いた、そのとき。
目の前に、半透明の窓が、勝手に開いた。
念じてもいないのに。俺の窓だった。
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名前:真白 湊
スキル:【翻訳】
説明:日常会話の翻訳を補助する。
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その下に、見たことのない一行が、浮かび上がった。
[スキル【翻訳】のレベルが2に上がりました]
「……レベル?」
こんな表示、初めて見た。
まばたきをする。表示は、消えない。
そして、その一行の、さらに下。
何かが、揺れていた。
細い線が、何本も絡み合ったような。天啓の日の夜に、一瞬だけ見た、あの蔓の文字。
でも、今度は、すぐには消えなかった。蔓がゆっくりとほどけて、組み直って、何かの形になろうとしている。
〈……み、な……〉
読めそうだった。
あと少しで、何て書いてあるのか、わかりそうだった。
でも、文字はそこで揺らいで、霞んで、それ以上は、どうしても読めなかった。




