第18話 静謐の歌
指先の感覚が、もうなかった。
短剣を握っているのかどうかも、わからない。見下ろすと、手はちゃんと柄を握っていた。ただ、それが自分の手だという気がしなかった。
ボス部屋は、白と黒に塗りつぶされていた。
床も、壁も、崩れた柱も。ざらざらした粒が、あらゆるものの表面を覆って、絶え間なくうごめいている。まるで部屋そのものが、雑音に食べられていくみたいだった。
大河は、ひび割れた盾にもたれて、片膝をついていた。肩で息をしている。吐く息が、白い。
「……わりい……あと、ちょっとだけ……休ませろ……」
小日向は、大河の背中にしがみついたまま、動かなかった。目は開いている。でも、もう悲鳴を上げる力も残っていないみたいだった。
鷹宮は、刀を構えたまま、凍りついたように立っていた。足元の霜が、部屋の雑音と混じり合って、どこまでが鷹宮の冷たさで、どこからが石守の冷たさなのか、わからなくなっている。
耳を澄ませる。
ザ――――――――。
何も、聞こえない。さっきまで雑音の底にかすかに残っていた鈴の欠片も、もう、どこにもない。
石守が、ゆっくりと右腕を持ち上げた。
天井に届きそうな高さまで。白黒の粒にまみれた拳が、こちらを見下ろしている。
狙いは、大河だ。
逃げろ、と言おうとした。でも、声が出なかった。喉まで凍りついたみたいに。
――ああ。
声が出ないって、こういうことなのか。
なぜか、そんなことを思った。
振り返った。
壁ぎわに、水無瀬がいた。御堂を引っぱっていったあと、そのまま、そこにいたのだ。スケッチブックを胸に抱えて、小さくうずくまっている。
震えていた。
目が、合った気がした。
◇ ◇ ◇
雫は、震えていた。
寒かった。怖かった。でも、それよりも、もっと別の何かで、体じゅうが震えていた。
何も、できない。
危ない、と叫ぶことができない。来るよ、と知らせることができない。盾も持てない。弓も引けない。二層でも、四層でも、五層でも、雫はただ、後ろで見ていることしかできなかった。
スケッチブックに、『ごめんね』と書いた。
謝ることないだろ、と言ってもらった。
でも、本当は、謝りたかったんじゃない。何かをしたかった。みんなの役に立ちたかった。この、喉の手前で固まったままの声で。
中学のとき、話しかけられても返事ができなかった。そのたびに、喉をぎゅっとつかまれる感じがした。無視する子、と言われた。冷たい子、と言われた。違う、と言いたかった。言えなかった。
雫のせいじゃないよ、とお母さんは言ってくれる。家では、弟がうるさいくらいに話しかけてきて、雫も笑って言い返せる。それなのに、玄関を一歩出て、学校の門をくぐると、声はどこかへ隠れてしまう。
さっき、真白くんは、聞こえない声を必死に聞こうとしていた。
顔を真っ白にして、こめかみを押さえて、目を閉じて。雑音の奥の、誰にも聞こえない声を。図書室で、雫の窓を読もうとしてくれたときと、同じ顔だった。
あの人は、いつも、聞こうとしてくれる。
なのに、雫には、届ける声がない。
――別に、書いてくれれば読むよ。
図書室で、そう言ってもらった。初めてだった。そんなふうに言ってくれた同級生は。
でも、今は、書く時間なんてない。
雫は、スケッチブックを握りしめた。指が、最後のページに触れた。
蔓の模様。
中学のころから、気づくと描いてしまっていた、意味のわからない線。
――『しずかに、ねむれ』って、書いてある。
――歌の、歌詞みたいだ。
そして、あの白い毛玉は、雫のことを「歌の娘」と呼んだ。
歌。
雫は、ずっと知っていた。
あの模様を描いているとき、胸の奥で、いつも何かが鳴っていたことを。知らない旋律。知らない言葉。声に出したことは、一度もない。家でも。それは喉で鳴る歌じゃなくて、胸のずっと奥で、ひとりでに鳴っている歌だったから。
声は、出ない。
でも。
声がいらない歌なら――。
雫は、スケッチブックの最後のページを開いて、胸に押し当てた。
それから、ステータス窓を開いた。開示、と念じる。真白くんが、読めるように。
読めなかったら、それでもいい。読もうとしてくれたのが、うれしかったから。
でも、今度は。
雫は、目を閉じた。
喉は、固まったままだった。いつもと同じように。それでいい、と思った。喉は使わない。
胸の奥の、あの場所で。
雫は、初めて、自分から歌った。
◇ ◇ ◇
――聞こえた。
雑音の壁の、向こう側から。
いや、違う。向こう側からじゃない。雑音を、すり抜けて。まっすぐに、俺の耳に。
〈しずかに、ねむれ〉
歌だった。
魔物の命令みたいな、短くてそっけない鈴の音じゃない。ゆったりと伸びる、透き通った旋律。ガラスの器を、指でそっと撫でたときのような。冬の朝の、まだ誰も踏んでいない雪のような。
〈いたみよ、ねむれ〉
振り返ったまま、俺は動けなかった。
水無瀬が、目を閉じていた。
スケッチブックを胸に抱いて、壁ぎわに立っている。唇は、動いていない。声は、出ていない。なのに、歌は、確かに水無瀬から流れていた。
〈……歌だ〉
首の後ろで、ルルがつぶやいた。震えが、止まっていた。
〈歌の娘の、歌だ〉
「……なんだ、これ」
大河が、顔を上げた。
「なんか……あったけえ……」
「く、空気が……静かに、なって……」
小日向が、ぼんやりとつぶやく。二人には、歌は聞こえていないらしい。それでも、何かを感じている。
水無瀬のまわりから、雑音が引いていた。
白黒の粒が、まるで眠りに落ちるように、ざわめきを止めていく。石畳が、元の灰色をのぞかせる。凍えきっていた指先に、じんわりと、血が戻ってくる。
そして、水無瀬の前に、窓が浮かんでいた。
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名前:水無瀬 雫
スキル:【無口】
説明:発話を抑制する。
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開示されている。水無瀬が、自分で開いたんだ。
図書室で見たとき、あの文字には、灰色の何かが何重にも巻きついていた。引けば引くほど固くなる、結び目みたいに。
その結び目が、ほどけていた。
俺は、何もしていない。歌の一節が流れるたびに、灰色の糸が、一本、また一本と、自分から緩んでいく。雪が、春の日差しに溶けるみたいに。
息を吸って、窓を見つめた。
頭が痛む。でも、図書室のときのような、割れるような痛みじゃなかった。歌が、痛みの上に、そっと手を置いてくれているみたいだった。
【無口】の文字が、ほどける。
蔓が伸びる。絡み合う。組み直っていく。今までのどの窓よりも、細くて、しなやかな蔓だった。まるで、五線譜の上を流れる旋律みたいに。
そして、読めた。
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名前:水無瀬 雫
スキル:【静謐の歌】
説明:声なき歌。音を介さず、魔力そのものに響く。荒ぶるものを鎮め、傷を癒し、届かぬ場所へも届く。
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声なき歌。
喉が、熱くなった。
声が出ないことは、欠けていることじゃなかった。最初から、そういう歌だったんだ。音を介さないから、雑音にも食われない。誰にも聞こえない場所で、ずっと、ひとりで鳴っていた歌。
俺は、水無瀬に向かって叫んだ。
さっきまで凍りついていた喉から、声が出た。
「水無瀬!」
水無瀬の肩が、小さく跳ねた。
「それ、歌なんだ。君の歌なんだよ」
目を閉じたままの水無瀬に、届くように。
「――その名前、誤訳だ。君のスキルは【静謐の歌】だ」
水無瀬が、目を開けた。
前髪の隙間から、黒い目が俺を見た。大きく見開かれて、それから、ゆっくりと潤んでいく。涙が一粒、頬をすべり落ちた。
「せいひつの……うた……」
大河の背中で、小日向が、かすれた声で繰り返した。大河が、盾にもたれたまま、にっと口の端を上げた。
「……へへ。水無瀬も、外れじゃなかったってことかよ」
水無瀬は、うなずいた。
一度だけ。小さく。でも、はっきりと。
そして、もう一度、目を閉じた。
〈しずかに、ねむれ。いたみよ、ねむれ〉
歌が、強くなった。
水無瀬の胸から、見えない波紋が広がっていく。部屋の隅々まで。白黒の粒が、波紋に触れたそばから、ざわめきをやめていく。壁が、床が、柱が、元の色を取り戻していく。
〈こおりよ、とけよ。あらしよ、ねむれ〉
ザ――――という雑音が、少しずつ、少しずつ、小さくなる。
そして、波紋が、石守に届いた。
振り上げられていた巨大な拳が、宙で、ぴたりと止まった。
白黒の粒が、巨人の全身で、潮が引くように静まっていく。
石守の動きが、止まった。




