第17話 ノイズの奥の声
「させるかよッ!」
大河が、吠えた。
壁に叩きつけられた鷹宮が、石畳の上に崩れ落ちる。石守が、ゆっくりとそちらへ一歩踏み出す。その巨大な足と鷹宮のあいだに、大河が盾ごと滑りこんだ。
石守の拳が、振り下ろされる。
ごおん、と。
鐘をついたみたいな音が、部屋じゅうに響いた。
大河の体が、後ろへ押しこまれる。靴底が石畳をこすって、二メートル、三メートル。それでも、倒れなかった。盾を構えた両腕が、ぶるぶると震えている。
「ぐ……っ、【蓄積】……!」
歯を食いしばった大河の腕のまわりから、ゆらゆらと熱がたちのぼっていた。からあげおにぎり、十六個ぶんの力。
「重っ……てえ……! でも、止めたぞ……!」
「大河!」
「いいから! 湊、指示くれ! オレ、何すりゃいい!」
指示。
俺は、石守を見上げた。耳を澄ませる。
ザ――――。
雑音しかない。さっきの狼と同じだ。いや、もっとひどい。分厚い、ざらざらした音の壁が、部屋全体を押しつぶしている。
「小日向!」
「ひゃっ……は、はい!」
「お前は大河の後ろにいろ。来るのがわかったら、すぐ叫べ」
「わ、わかりました……!」
それから、部屋の隅を見た。
鷹宮は倒れたまま、動かない。御堂は、さっき転がったところで、四つん這いのまま固まっている。
「水無瀬、鷹宮を――」
言い終わる前に、水無瀬はもう走りだしていた。
小さな体で、倒れた鷹宮のもとへ駆け寄る。肩を揺すって、顔をのぞきこむ。鷹宮の指が、かすかに動いた。生きている。
水無瀬はそれを確かめると、今度は、御堂のほうへ走った。
御堂は、近づいてきた水無瀬を、ぼんやりと見上げた。焦点が合っていない。水無瀬は何も書かなかった。書く余裕なんてなかった。ただ、御堂の袖をつかんで、ぐいっと引っぱった。そして、壁ぎわを指さした。
あっち。
声のない、でも、これ以上ないくらいはっきりした言葉だった。
御堂は、引かれるままに、ずるずると壁ぎわまで這っていった。何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
「ひゃっ……来ます、右!」
小日向の悲鳴で、視線を戻す。
石守が、右腕を横に振りかぶっていた。大河が盾を右へ向ける。腕が叩きつけられる。また、鐘の音。大河の足が、さらに一メートル後ろへ下がる。
このままじゃ、もたない。
小日向の先触れは頼りになる。でも、方向しかわからない。どこから来るかはわかっても、何が来るかまではわからない。振り回しなのか、叩きつけなのか、踏みつけなのか。それがわからないと、大河は受け止めるだけで、反撃ができない。
聞かなきゃ。
俺が、聞かなきゃいけない。
――大河の窓を読んだときのことを、思い出した。
文字の、その向こうを見る。ほどけるまで、ずっと奥まで。
だったら、音も同じじゃないか。
雑音の、その向こうを聞く。
目を閉じた。
ザ――――。
耳の中を、雑音が満たす。冷たくて、ざらざらして、何もない音。頭が痛い。窓を読むときの痛みに、少し似ている。
もっと奥へ。
ザ――――ザザ――
もっと。
〈……湊〉
首の後ろで、ルルが、震える声でささやいた。
〈奥だ……音の、ずっと奥に……何かが、うずくまっておる……〉
ルルにも、何かが聞こえているのか。それとも、感じているだけなのか。わからない。でも、その言葉に背中を押されるように、俺はさらに深く、雑音の底へ意識を沈めた。
――りぃ。
ほんの、かすかに。
雑音の底の、ずっと深いところで。小さな鈴が、震えた気がした。
〈……右……〉
聞こえた。
〈……振り……〉
途切れ途切れの、今にも消えそうな声。でも、確かに、言葉だった。
石守の声だ。この巨人が、雑音に塗りつぶされる前に持っていた、本来の命令文。その欠片が、まだ、ノイズの奥に埋もれて残っている。
「大河! 右から、横に振り回してくる!」
「ひゃっ、右ですっ!」
俺の声と、小日向の悲鳴が、重なった。
大河の盾が右を向く。石守の腕が、横薙ぎに叩きつけられる。今度は、大河は足を踏んばったまま、盾を斜めに傾けて受け流した。腕が盾の表面を滑って、石畳を削る。
「お、おお……! 来るのわかってりゃ、流せるぞ!」
〈……踏み……〉
「次、踏みつけ! 下がれ!」
「ひゃっ……う、上から……!」
二人で、同時に飛びのく。さっきまで大河がいた場所に、柱のような足が落ちてきた。石畳が砕けて、破片が飛び散る。
聞こえる。
全部じゃない。十のうち、二つか三つ。それでも、小日向の先触れと合わせれば、次の動きが読める。どこから、何が来るか。
頭が割れそうだった。こめかみの奥で、何かがずっと軋んでいる。でも、耳を離すわけにはいかなかった。
「湊、オレ、おにぎりあと二個しかねえ!」
盾を構えたまま、大河が叫んだ。
「一個食え! 一個は取っとけ!」
「お、おう!」
大河は片手でリュックをあさり、歯でラップを食いちぎって、おにぎりにかぶりついた。戦闘中に、器用な奴だ。壁ぎわで膝を抱えていた御堂が、信じられないものを見る目でそれを見ていた。
視界の端で、何かが動いた。
鷹宮だった。
刀を杖にして、ふらりと立ち上がっている。額から、細い血の筋が一本流れていた。表情は、さっきと同じ、空っぽのままだ。足元から、また白い霜が広がり始めている。
鷹宮は、何も言わずに刀を構え直した。まだ、戦うつもりなんだ。一人で。
〈……左……腕……〉
石守の、次の命令。
「鷹宮!」
俺は叫んでいた。
「左腕が来る! お前を狙ってる! それを避けたら――」
〈……膝……〉
「――左の膝が空く!」
鷹宮の目が、ほんの一瞬だけ、俺を見た。
ガラス玉みたいだった目に、何かが映った気がした。驚き、だろうか。
石守の左腕が、鷹宮めがけて振り下ろされる。
鷹宮は、跳んだ。
俺の言ったとおりの方向へ。腕が、鷹宮の足のすぐ下をかすめて、石畳を叩き割る。その腕を踏み台にして、鷹宮は空中で体をひねった。
白い刃が、閃く。
石守の左膝に、斜めの線が走った。
さっきまでと、違った。
刻まれた線が、すぐには埋まらなかった。白黒の粒が傷口でざわざわと渦を巻いて、その奥に――一瞬だけ、灰色の岩肌がのぞいた。
石守の巨体が、ぐらりと傾いた。片膝をつきかけて、踏みとどまる。
鷹宮が、俺のすぐ隣に着地した。
気のせいだろうか。鷹宮の足元の霜が、さっきより、少しだけ薄く見えた。
鷹宮は、刀を下ろさないまま、横目で俺を見た。息が白い。唇が、紫色に近かった。
「……あなた、何者」
短い問いだった。
「……Fランクの、【翻訳】だよ」
鷹宮の眉が、わずかに動いた。それが、驚きなのか、呆れなのか、俺にはわからなかった。
ただ、鷹宮は、それ以上何も聞かなかった。かわりに、刀の切っ先を石守に向けたまま、ほんの半歩だけ、俺のほうへ寄った。次の言葉を、聞き逃さないように。
講堂で、Sランクの歓声を浴びても、にこりともしなかった人。学食で、誰もいない隅のテーブルへ一人で歩いていった人。
その人が、今、俺の声を待っている。
でも、喜んでいられたのは、そこまでだった。
「……っ、湊……!」
大河の声が、かすれていた。
振り返ると、大河の盾に、ひびが入っていた。
正面から、斜めに。一本、太い亀裂が走っている。そこから、白黒の粒が染みこむように這い上がって、大河の籠手にまで達していた。大河の腕が、がくがくと震えている。
「わりい……そろそろ、腹が……空っぽだ……」
石守が、膝の傷を引きずりながら、体を起こした。
そして、その全身から、雑音があふれ出した。
ザ――――――――。
白黒の粒が、石守の体から、霧のように噴き出していく。床へ。壁へ。天井へ。石畳が、柱が、部屋じゅうが、ざらざらした白と黒に塗りつぶされていく。
寒い。
さっきまでとは、比べものにならなかった。息を吸うと、肺の奥まで凍りつきそうになる。指先の感覚が、遠くなる。短剣を握っているはずの手が、自分の手じゃないみたいだった。
「ひゃ……さむ……い……」
小日向の声が、震えて途切れる。
鷹宮が刀を構えようとして、その腕が、途中で止まった。大河が、盾にもたれかかるように膝をつく。
みんなの動きが、どんどん鈍くなっていく。
耳の奥で、さっきまで聞こえていた鈴の欠片が――雑音の底に、沈んで、消えていった。




