第16話 勇者の敗走
階段を駆け下りる。
一段ごとに、空気が冷たくなっていった。四層の寒さとは、種類が違う。肌の表面じゃなく、骨の内側から冷えてくるような寒さだ。
五層に降り立ったとたん、耳の奥の雑音が、一段階大きくなった。
ザ――。
さっきの狼の比じゃない。遠くで鳴っているはずなのに、頭の中に直接流しこまれているみたいだった。
〈湊……湊……〉
フードの中で、ルルが俺の名前を繰り返していた。首筋に押しつけられた小さな体が、かたかた震えている。
「大丈夫だ。……大丈夫」
自分に言い聞かせるように答えた。
五層の通路は、上の階よりずっと広かった。天井が高く、壁は灰色の切り石を積み上げたようになっている。ところどころに、蔓のような文字が刻まれていた。迷宮文字だ。読もうとする余裕は、なかった。
通路の床のあちこちに、白っぽい砂の小山ができていた。
最初は、ただの砂だと思った。でも、三つ、四つと続くうちに気づいた。どの小山も、ちょうど魔物一匹ぶんくらいの大きさだ。そして、どれも、白と黒の粒が混じっている。
崩れたんだ。三層の影狼や、四層の木偶みたいに。この階の魔物が、何匹も。
「なんだよ、これ……」
大河が、砂の山をよけて歩きながら、低くつぶやいた。誰も答えられなかった。
また、ずん、と床が揺れた。
「前室、この先です……!」
小日向が、地図を持った水無瀬の横から叫ぶ。
通路の突き当たりが、ぽっかりと開けていた。
前室は、丸い広間だった。
真ん中に、腰の高さくらいの青白い石柱が立っている。あれが記録石だろう。表面が、ぼんやりと光っている。
そして、その奥。
見上げるほど大きな、石の両開きの扉。ボス部屋の扉だ。普段は固く閉ざされているはずのそれが――半分、開いていた。
「た……助け……」
扉の脇の壁ぎわに、二人、座りこんでいた。
権藤と細川だった。
細川は、右腕を抱えるようにしてうずくまっている。権藤は壁にもたれたまま、足を投げ出して、うめき声を上げていた。探索服の膝のあたりが、ざらりと白っぽく汚れている。霜みたいに。
「おい、しっかりしろ!」
大河が駆け寄って、権藤の肩を支えた。権藤は焦点の合わない目で大河を見て、「大食い……?」とかすれた声でつぶやいた。
「何があった」
俺が聞くと、細川が、歯をがちがち鳴らしながら答えた。
「み、御堂さんが……前室まで来たんなら、ついでにボスも倒して帰るって……Sが二人いるんだから、楽勝だって……」
ボス部屋には、絶対に入るな。出発前、学年主任の先生が言っていた言葉が、頭をよぎった。
「そしたら、中のやつが、変で……でかくて、白黒で……殴られて……俺ら、もう、動けなくて……」
「非常ボタンは」
「お、押した……でも、無線、ずっと砂嵐で……」
水無瀬が、細川の前にしゃがみこんだ。探索服のポケットからハンカチを出して、細川の腕にそっと巻きつける。手当てのしかたなんて知らないはずなのに、その手つきは迷いがなかった。
細川は、ぽかんとして水無瀬を見た。学食で、水無瀬のスケッチブックを笑っていた口が、何か言いたそうに動いて、結局何も言わなかった。
「ほら、食え」
大河が、リュックからおにぎりを二つ取り出して、二人の膝に置いた。
「腹減ってると、余計寒いからな。からあげ入りだぞ」
「……お、おう……」
権藤が、震える手でラップをはがし始める。こんなときに、と思う。でも、こんなときだからこそなのかもしれない。
「御堂と鷹宮は?」
細川は、震える指で、扉の向こうを指さした。
「まだ、中に……」
俺は、前室の真ん中の記録石を見た。ほんの数歩先で、青白く光っている。手を伸ばせば、それで合格だった。
でも、そんなことは、もうどうでもよかった。
扉のすき間から、中が見えた。
広い部屋だった。円い天井が、高く、高く続いている。床は平らな石畳で、壁ぎわには、崩れた石の柱がいくつも転がっている。
その真ん中に、巨人が立っていた。
石守。霞ヶ丘迷宮の五層の主。教科書では、背丈が三メートルほどの、石でできた人型の魔物だと書かれていた。
でも、そこにいるのは、その倍はあった。
頭が、ほとんど天井に届きそうだった。岩を積み上げたような太い腕。柱のような脚。その体の表面を、白と黒の細かい粒が、虫の群れみたいにびっしりと這い回っている。岩の灰色が見えるところは、ほとんどない。雑音の粒が、巨人の形をして、そこに立っているみたいだった。
ザ――――。
耳の中が、その音で埋めつくされる。
声を、探した。命令でも、鳴き声でも、何でもいい。
何もない。ただ、分厚い雑音の壁があるだけだ。
「――【勇者】ッ!」
部屋の中から、叫び声が聞こえた。
御堂だった。
金色の光が、御堂の全身を包んでいた。迷宮庁の紋章が入った剣を両手で握り、石守の足元へ、まっすぐに突っこんでいく。速い。大河より、ずっと速い。さすがSランクだ、と思った。
剣が、石守の脚に叩きつけられる。
がぎん、と。
金属が岩を打つ、甲高い音がした。
それだけだった。
剣は、跳ね返された。白黒の粒がざわりと波打っただけで、石守の脚には、傷一つついていない。弾かれた反動で、御堂の体が宙に浮く。石畳の上を転がる。手から離れた剣が、からからと音を立てて、遠くへ滑っていった。
「……な、んで」
御堂は、四つん這いのまま、顔を上げた。
「なんでだよ……俺は、【勇者】だぞ……!」
立ち上がろうとして、膝ががくりと折れる。もう一度。また、折れる。
足が、動いていない。
怪我をしたわけじゃない、と思う。御堂の顔は、真っ白だった。唇が震えていた。石守を見上げる目が、大きく見開かれたまま、まばたきもしない。
怖いんだ。
あの、いつも偉そうに笑っていた御堂が、怖くて、立てないでいる。
石守が、ゆっくりと御堂のほうへ向き直った。
その巨体の前に、すっと、細い影が割りこんだ。
鷹宮凛だった。
白い鞘から抜いた刀を、低く構えている。ポニーテールが、ふわりと揺れた。
次の瞬間、鷹宮の姿が、ぶれた。
速すぎて、目が追いつかない。一歩で石守の懐に飛びこみ、刃が閃く。二閃。三閃。白い軌跡が、巨人の胸に、腕に、脚に、何本もの線を刻んでいく。
美しい、と思った。こんな場面なのに。
剣のことなんて何も知らない俺にもわかる。あれは、ずっと独りで磨いてきた剣だ。誰にも頼らず、誰とも並ばず、それでも誰よりも強くあろうとしてきた剣だ。
でも。
刻まれた線が、すぐに埋まっていく。白黒の粒が傷口に流れこんで、何事もなかったように元に戻る。斬っても、斬っても、届かない。
鷹宮は、止まらなかった。
斬る。跳ぶ。また斬る。その足元に、白いものが広がっていくのが見えた。
霜だ。
鷹宮の足跡に沿って、石畳が白く凍りついていく。刀の切っ先から、細かい氷の粒が、きらきらとこぼれている。吐く息が、真っ白だった。
石守の冷たさじゃない。あの霜は、鷹宮から出ている。
そして、鷹宮の顔。
学食で見たときは、冷たいけど、ちゃんと人の顔をしていた。プリンを二つトレーに載せて、ルルを見て三秒固まった、あの顔。
今は、違った。
表情が、ない。
目が、ガラス玉みたいに空っぽだった。怒っているのでも、怖がっているのでもない。何も、映っていない。まるで、斬るたびに、心の中の何かが一つずつ凍りついて、剥がれ落ちていくみたいに。
「あいつ……寒く、ないのか」
思わず、声が漏れた。
「ひゃっ……!」
背後で、小日向が悲鳴を上げた。
「だ、だめ……あれ、だめです……! 来ます、すごく大きいのが……!」
先触れが、何かを捉えている。でも、俺には、雑音しか聞こえない。
石守が、右腕を振り上げた。
ゆっくりに見えた。でも、それは、あまりに大きすぎるからそう見えるだけだ。
「――鷹宮!」
俺は叫んで、扉の内側へ飛びこんだ。大河が、盾を構えて続く。小日向が、水無瀬が、その後ろから。
俺たちが、ボス部屋の石畳に足を踏み入れた、その瞬間。
石守の拳が、振り下ろされた。
鷹宮は、刀で受けた。受けたように見えた。
でも、白い刃ごと、その細い体は、木の葉みたいに吹き飛ばされた。




