第15話 声のない魔物
ザ――。
音は、それだけだった。
ノイズの狼が、通路の真ん中で足を止める。顔らしきものが、こちらを向く。目はない。でも、見られている、とわかった。
俺は、耳を澄ませた。
何か言え。侵入者、確認。突進、正面。何でもいい。いつもみたいに、次に何をするか、言ってくれ。
ザ――。ザザッ。
何も、言わない。
言葉の形をした音が、どこにもない。ただ、ざらついた雑音が、耳の奥にべったりと貼りついているだけだ。
「湊、どっちから来る!?」
大河が盾を構えて叫んだ。
「わから――」
答えきる前に、狼が消えた。
消えたように見えた。予告がないから、動きの始まりがわからない。気づいたときには、白黒の塊が目の前にあった。
肩に、衝撃。
体が横に吹き飛んで、背中から壁にぶつかった。厚手の探索服じゃなかったら、たぶん骨が折れていた。
「湊!」
息が詰まる。肩が、冷たい。殴られて痛いんじゃない。氷を直接押し当てられたみたいに、触れられた場所から体温が抜けていく。
狼が、もう一度向き直る。
ザ――。
また、何も言わない。
「来いよ、この野郎ッ!」
大河が、俺と狼のあいだに割って入った。盾の正面で、白黒の牙を受け止める。がきん、と嫌な音がした。
「うお、冷てえ……!? なんだこいつ……!」
盾の表面に、ざらざらしたものが這い上がっていく。白黒の粒が、盾に染みこもうとしているみたいに。大河が力任せに押し返すと、狼は跳びのいて、また音もなく構えた。
俺は、壁にもたれたまま、動けなかった。
聞こえない。
何も、聞こえない。
俺のスキルは、魔物の声を聞くことだ。それしかできない。剣は下手だし、力もない。声が聞こえるから指示が出せて、指示が出せるから、班の役に立てていた。
声がなければ、俺はただの――Fランクだ。
大河が、ちらりとこっちを見た。指示を待っている顔だった。小日向も、水無瀬も。
何か言わなきゃいけない。なのに、何も言えない。
「――ひゃっ!」
小日向の悲鳴が、通路に響いた。
「き、来ます……っ、左!」
大河が、反射的に盾を左へ向けた。
その瞬間、白黒の塊が左から飛びこんできた。盾にぶつかって、ザザッ、と砂が散るような音を立てて弾かれる。
――合ってる。
「小日向……!」
「わ、わかんないです、どこからかは、わかんないけど……でも、左が、すごく冷たかったから……!」
小日向は泣いていた。涙をぼろぼろこぼしながら、それでも、狼から目を逸らしていなかった。
そうか。
小日向の先触れは、声を聞いているわけじゃない。来たるものの影を、先に知る。声がなくても、来るものは来る。だから、小日向には、わかるんだ。
「小日向。お前が、指示を出せ」
「え……わ、わたしが……!?」
「俺には、こいつの声が聞こえない。今、来るのがわかるのは、お前だけだ。俺と大河が、お前に合わせる」
小日向の顔が、くしゃっとゆがんだ。泣きそうな顔が、もっと泣きそうになった。
でも、小日向は、うなずいた。
「……っ、はい!」
狼が、また構える。
「ひゃっ……正面! ……じゃなくて、み、右です!」
「どっちだ!?」
「右ですっ!」
大河が盾を右へ振る。白黒の牙が、盾の縁に食いこむ。今度は大河も踏んばった。
「捕まえたぞ……っ、湊!」
俺は、壁から体を引きはがした。短剣を握る。
狼の横腹に、刃を突き立てた。
手応えが、おかしかった。肉を斬る感触じゃない。乾いた砂に刃を差しこんだみたいに、ざらりと重い。刃が通ったところから、白黒の粒がこぼれて、すぐにまた埋まっていく。
「効いてねえのか!?」
「わからない、でも――」
「来ます、上っ!」
小日向の声で、俺と大河は同時にしゃがんだ。頭の上を、白黒の塊が跳び越えていく。
着地したところに、細い棒のようなものが飛んできた。矢だ。小日向が、震える手で、初めて弓を引いていた。矢は狼の背中をかすめて、壁に当たって落ちた。
「は、外れました……!」
「いや、上等だ!」
大河が吠えた。狼が、小日向のほうへ向きかけたのを見て、大河が地面を蹴る。
「お前の相手は、こっちだろうがッ!」
盾ごと、体当たり。白黒の塊が、壁に叩きつけられる。そこへ、籠手の拳を振りかぶる。
「【蓄積】――解放ッ!」
どごん、と鈍い音がした。
狼の体が、はじけた。
ザザザッ、と白黒の粒が散る。散って、また集まろうとする。でも、さっきより遅い。集まりきらない。白と黒の粒が、ばらばらに宙を漂って――
ザ……ザ……
音が、小さくなっていく。
そして、消えた。
光の粒には、ならなかった。砂がこぼれるように、白黒の粒は床に落ちて、そのまま、何も残さずに消えた。
通路が、静かになった。
大河が、肩で息をしながら、籠手の拳を下ろした。小日向は、弓を抱えたまま、その場にへたりこんだ。
「た……倒した、のか?」
「……たぶん」
狼がいた場所を見る。床には何もない。
「……魔石、ねえぞ」
大河がつぶやいた。
そうだ。魔物は倒すと、核が魔石になって残る。スライムでも、角兎でも、木偶でも、それは同じだった。
なのに、何も残っていない。
三層の影狼のときは、暗くて見落としただけかもしれないと思った。でも、今度は違う。ここは苔の光が届いている。床の上に、小石一つ落ちていない。
あれは、魔物じゃない。少なくとも、俺たちの知っている魔物とは、何かが違う。
水無瀬は、通路の壁ぎわで、スケッチブックを抱きしめて立っていた。
戦闘のあいだ、ずっと、そこにいた。前に出る隙なんてなかった。叫ぶことも、受け止めることもできない。水無瀬は、震える手でスケッチブックを握りしめたまま、ただ、見ていることしかできなかった。
フードの中では、ルルが、まだ小刻みに震えていた。
〈……行った、のか……〉
「ああ。……たぶん」
〈あれは……あれは、いやだ……声が、ない……何も、ない……〉
大河が、もう一度無線機を取った。
「三層、こちら真白班! 変な狼が出た! 倒したけど、魔石が残らねえ!」
『ザ――』
雑音しか返ってこない。
「くそっ……」
「非常ボタン、押そう」
無線機の側面の、赤いボタン。押すと、管理棟と三層の休憩所に、救難の信号が飛ぶ仕組みだ。俺はそれを、強く押しこんだ。
小さなランプが、赤く点滅し始める。届いたのかどうかは、わからない。
「……戻ろう」
俺は言った。
「合格なんか、どうでもいい。先生もそう言ってた。あんなのが、まだいるかもしれない。いったん三層まで――」
そのとき。
足の下から、音が響いてきた。
ずん、と。床が震えるほどの、重い衝撃音。
それに続いて。
「――うわあああああっ!」
悲鳴だった。
人間の。男の声。下の階――五層からだ。
俺たちは、顔を見合わせた。
「今の……」
「五層だ。誰かいる」
すぐに思い当たった。一組の、最初に出発した班。
御堂の班だ。
ルートは班ごとに違う。でも、目的地は同じ、五層の前室だ。最初に出発したあいつらなら、とっくに着いていてもおかしくない。
また、ずん、と床が揺れた。悲鳴が、もう一つ重なる。
戻るべきだ。頭では、わかっている。俺たちは五組の、新入生四人だ。声のない狼一匹に、あれだけ手こずった。下にいるのが何であれ、俺たちに何とかできるとは思えない。
でも。
今、背中であの悲鳴を聞きながら、階段を上ったら。
たぶん俺は、一生、その音を忘れられない。
「……俺は、行く」
口に出すと、不思議と震えが止まった。
「お前らは、三層に戻って先生を呼んでくれ。俺は、様子だけ――」
「アホか」
大河が、俺の頭をがしっとつかんだ。
「お前一人で行かせるわけねえだろ。盾がいなかったら、さっきので終わってたぞ」
「……大河」
「行くなら、四人でだろ。班なんだからよ」
大河は、にっと笑った。その笑い方は、少しだけ引きつっていた。
小日向が、ゆっくりと立ち上がった。
膝が、がくがく震えていた。顔は真っ青で、涙のあとが頬に何本も残っている。弓を握る手も、震えている。
「こわい……」
小日向は、正直に言った。
「こわい、です。すごく。……けど」
ぎゅっと、唇を噛む。
「わたしも、行く」
俺は、最後に、水無瀬を見た。
水無瀬は、スケッチブックを胸に抱えたまま、まっすぐに俺を見返していた。前髪の隙間から、黒い目がのぞいている。
ペンは、握っていなかった。
かわりに、水無瀬は、はっきりと、一度だけ頷いた。




