第13話 静かすぎる三層
四月も、残り一週間になった。
四人で班を組んでから、二層の実習を何度かこなした。そのあいだに、俺たちは少しずつ「班」らしくなっていった、と思う。
大河は、実習前の弁当を二つ半に抑えることを覚えた。
「三つだと動けねえ。二つだと、解放したあと倒れる。だから二つ半。これが黄金比だぜ」
「残りの半分はどうしてるんだ」
「実習のあとに食う」
結局、三つ食べている。
小日向は、叫んだあと走る方向を、だいたい間違えなくなった。だいたい、だ。三回に一回は、まだ大河の背中に正面衝突している。大河いわく「盾が二枚あるみたいで安心する」らしいので、まあいいことにする。
水無瀬は、相変わらずいちばん後ろにいた。
ただ、ときどき、俺の袖をくいっと引くようになった。振り返ると、通路の奥の岩陰を指さしている。見ると、角兎が隠れている。目がいいのだ。絵を描く人の目なのかもしれない。
それでも水無瀬は、指さすたびに、少し申し訳なさそうな顔をした。こんなことしかできなくて、とでも言うみたいに。
◇ ◇ ◇
「今日から三層な」
管理棟の前で、灰原先生がキャンディをくわえたまま言った。
「出てくるのは影狼だ。群れで動く。一匹見たら、三匹はいると思え。単独で突っこむなよ。……犬飼、お前に言ってんだ」
「オ、オレっすか!?」
「お前以外に誰がいる」
クラスに笑いが起きた。大河も、頭をかきながら笑っていた。入学したころの五組だったら、こういう笑いは起きなかったと思う。
三層は、二層までとはまるで空気が違った。
壁の岩が黒い。苔の光も弱くて、青というより、灰色がかった薄明かりしかない。天井が低く、通路は曲がりくねっている。そして、寒い。四月の地上が嘘みたいに、吐く息がうっすら白くなる。
〈……寒いな〉
フードの中で、ルルが身を縮めた。
「ひ、ひんやりしますね……」
小日向が、大河の背中にぴったりくっついている。大河はまんざらでもなさそうだ。
影狼は、教科書の写真で見たことがある。大型犬くらいの、黒い狼だ。体の輪郭がぼんやりしていて、影が立ち上がって歩いているように見えるから、その名前がついたらしい。
群れで動く魔物なら、命令もきっと多い。〈包囲〉とか〈左右から〉とか、仲間どうしで声をかけ合うはずだ。俺は、耳を澄ませながら進んだ。
最初の群れは、通路の分かれ道で見つかった。
三匹。黒い影が、低く唸るように身をかがめている。
〈侵入者、確……〉
――ん?
〈……包……〉
〈……左……〉
途切れ途切れだった。
まるで、電波の悪いラジオみたいに。言葉の途中で音が抜け落ちて、次の言葉が、間をおいてぽつりと聞こえる。
「湊、どっちだ?」
「……わからない。たぶん、左から一匹」
自信のない指示を出すのは、初めてだった。
影狼が動いた。左から一匹。それは合っていた。大河の盾が牙を受け止め、跳ね返された影狼を、俺が短剣で突く。黒い体が光の粒になる。
でも、残りの二匹は、なかなか動かなかった。こっちをうかがうように、通路の奥で身を低くしている。そして、ときどき、思い出したように鳴く。
〈……侵……〉
〈……〉
何かがおかしい。
影狼が鈍いんじゃない。命令が、届いていないんだ。そう感じた。誰かが下している命令が、途中で、何かに食われている。
二匹目と三匹目も、なんとか倒した。小日向の先触れのおかげだった。その小日向も、さっきから青い顔をしていた。
「なんだか……変です。ずっと、背中が、ぞわぞわしてて……」
分かれ道を右へ折れた先に、四匹目がいた。
一匹だけだった。群れからはぐれたのか、通路の真ん中で、ぽつんとこちらを向いている。
〈侵入……〉
その声が、途中で、ねじれた。
〈ザ……ザザ……〉
――え?
耳の奥に、ざらついた音が流れこんできた。
ザ――。
鈴の音じゃない。言葉でもない。耳の内側を細かい砂でこすられるような、ざらざらした、意味のない雑音。それが、影狼の声があったはずの場所を、べったりと塗りつぶしていた。
影狼の体が、びくりと痙攣した。
黒い輪郭が、ぶれる。ぶれて、ざらついて、まるで画面の映りが悪くなるみたいに、ちらちらと白と黒が入り混じる。
そして、崩れた。
光の粒にはならなかった。黒い体が、砂の山が崩れるように、さらさらと床にこぼれ落ちて、そのまま消えていった。
俺たちは、誰も、何もしていない。
「……え?」
大河が、盾を構えたまま固まっていた。
「今の、倒したのか? 誰が?」
「誰も」
俺の声が、かすれていた。
影狼のいた場所には、何も残っていなかった。魔石も、見当たらない。暗くて、見落としただけかもしれないけれど。
通路が、しんと静まりかえった。
――静かすぎる。
さっきまで途切れ途切れでも聞こえていた影狼たちの声が、どこからも聞こえない。苔のかすかな明かりの中で、音という音が消えていた。
なのに。
何かが、いる。
そんな気がした。耳では何も聞こえない。でも、聞こえないことそのものに、重さがある。誰かが、すぐそこで、息をひそめているみたいな。声を出さないまま、こちらを見ているみたいな。
「ひゃっ……」
小日向が、短く悲鳴を上げた。
「な、何か……来ます……?」
語尾が、疑問形になっていた。先触れが反応しているのに、自分でも何が来るのかわからない、という顔だった。
大河が盾を構え直す。俺の袖を、水無瀬がぎゅっと握った。
一秒。五秒。十秒。
何も、来なかった。
〈湊〉
フードの中で、ルルが震えていた。毛が逆立って、いつもの倍くらいの大きさになっている。
〈……ここは、寒い。とても、寒い。湊、早く上へ戻ろう〉
ルルの声が、こんなに小さいのは初めてだった。
「……戻ろう」
俺は言った。誰も反対しなかった。
帰り道、四人とも口数が少なかった。
「なあ、湊。さっきの、なんだったんだ」
大河が、盾を背負い直しながら言った。
「わからない」
正直に答えるしかなかった。
「影狼の声が、雑音に変わった。そしたら、崩れた。……それしか、わからない」
「ざつおん……」
小日向は、まだ大河の背中にしがみついていた。歩くたびに、二人の足がもつれそうになっている。
「わたしの先触れ、ずっと鳴ってたんです。でも、どこから来るのか、全然わからなくて……あんなの、初めてです……」
水無瀬が、スケッチブックを開いた。ペン先が、少し迷ってから動く。
『みんな、ぶじで、よかった』
その字は、いつもより少しだけ崩れていた。
俺は、さっきの静けさを思い出していた。何も聞こえないのに、何かがいる感じ。
声のない、何か。
魔物の声が聞こえるようになってから、迷宮はずっと「うるさい場所」だった。侵入者、確認。体当たり、右。後退。どこにいても、何かが何かをしゃべっていた。
だから、知らなかった。
声が聞こえないことが、こんなに怖いなんて。
三層の入口の休憩所で、灰原先生に報告した。
「影狼が一匹、何もしてないのに崩れました。光にならないで、砂みたいに。それと……鳴き声が、途中で変わったんです。ザーって、壊れたラジオみたいな音に」
先生は、壁にもたれて聞いていた。
でも、「壊れたラジオ」と言ったとき、キャンディの棒が、ぴたりと止まった。
ほんの一瞬だった。だるそうな顔が、こわばった。目の奥に、何か硬いものが走った。
「……お前には、そう聞こえたのか」
「え?」
先生は、すぐにいつもの顔に戻った。
「いや。……わかった。学校に報告しとく。今日の実習は、ここまでだ」
◇ ◇ ◇
翌日の放課後。
職員室の前を通りかかると、奥の校長室の扉が半分開いていて、中から声が漏れてきた。
「迷宮庁にも問い合わせました。霞ヶ丘迷宮は安定している、との回答です。単発の異常個体でしょう。新入生合同踏破は、予定通り行います」
落ち着いた、よく通る声。鶴見校長だ。
「……そうですか」
灰原先生の声だった。それ以上、何も言わなかった。
やがて扉が開き、先生が出てきた。廊下に立っている俺に気づいて、一瞬だけ足を止める。
盗み聞きしていたことは、たぶんばれている。でも先生は、それについては何も言わなかった。
「先生。昨日の、『お前には、そう聞こえたのか』って――」
「あー?」
先生は、だるそうに首を鳴らした。
「言ったか、そんなこと。年取ると、口が勝手に動くんだよ」
前にも、似たようなはぐらかし方をされた。母さんのことを聞いたときだ。
合同踏破は、来週の水曜日。一組と五組が、班ごとに五層を目指す。昨日の三層より、さらに二つ下まで。
先生は、キャンディを口から出して、低い声で言った。
「……当日、気ぃ抜くなよ」




